一言書評 〜手塚治虫作品の感想〜


海のトリトン(2000/07/20)

 手塚治虫の名作アニメ、スカパーに登場です^^。全27話の幻の名作を2時間半のダイジェスト版的な映画に凝縮、あらすじをざざっと眺め渡せる感じで、作品を知る意味では短く纏まってていいですね^^。凄い作品ですよ!総指揮・西崎“ヤマト”義展、演出・富野“ガンダム”喜幸(由悠季)、そして原作は手塚治虫先生なのですからね^^。

 ある日突然海の彼方、アトランティス目指して旅立つこととなった少年トリトン。緑の髪の毛はトリトン族の証。オリハルコンの光る短剣を武器に、イルカのルカー、大海亀のメドン、ゾウアザラシのプロテウスをはじめとして、トリトン族縁の海の動物達がトリトンを戦いへと誘う。アトランティスの連中は、支配者ポセイドンをはじめとして、トリトン族を根絶やしにすべく「殺せ!殺せ!!」を連発するし、トリトンの両親や仲間達は皆口々に「トリトン族のために戦いなさい。あなたはそのために生まれたのです。」と、生まれたときから、或いは生まれる前から生き方を決め付けられて、その通りに生きていく、そんな生き方。辛いということを考える間もなく、戦いへと駆り出されていく、しかもたった一人で。海の世界の厳しい掟、皆が自ら犠牲となってトリトンとピピを護り死んでいく。ストレートすぎるそのメッセージは、捉え方が実に難しい。そんな世の中の厳しさを目の当たりにさせることで、世間の荒波を何も知らない少年少女に、人はどう生きて行くべきか、そんなことを訴えるメッセージが込められてるのかな? 

 トリトンがピピを叱りつけるシーン。手厳しいの一言^^;。こんなふうに叱りとばして大切なことを教える、そんな風な教育をしてこないから、今は荒れ放題になってるのかなぁと思う。悪いことは悪い!みんなに迷惑かけたんだから謝れ! 女の子でも甘やかさずに叩いて教育する。今やると問題になっちゃうからだめなのかな?そんな世の中だからさらにダメダメになっていくんでしょうね〜きっと。どっかで軌道修正とか出来ないもんかな?学ぶべき点は多いよ、昔のアニメ作品は。特に手塚先生の作品はね。

 ポセイドン族が何故こうもトリトン族を目の敵にするのか、それも知らずにオリハルコンの力に頼り、目の前の敵を倒していくトリトン。何処にどんな真実が待っているのか、それは遥か大西洋・アトランティスに辿り着けばわかるという。一夜にして沈んだという伝説の大陸・アトランティスに待ち受けるのは何か。そのとき、ポセイドンは何を物語るのだろう?

 オリハルコンは、様々な作品で語られるように“精神感応石”なのかな? 怒りや想いなどのトリトンの感情に反応して発動する太陽の輝き。どこかカミーユのバイオセンサーに通ずるところがあるかも。謎の強すぎる力に思い悩むトリトン。そんな想いも知らぬ気に、次々と死んでいく目の前の味方・敵たち…。その秘密を知るというインド洋のシーラカンス・ラカンの見せる真実の一端は、トリトン達にとって衝撃的なもの。武器の存在を知らずに死ぬのと、武器を知り戦って生き抜くのは、どちらが幸せなんだろうか。正義無き力は悪を蔓延らせ、力無き正義は滅びを待つのみ。トリトンの戦いはそれを知らしめるためにも必要なものだったのだ。そしてオリハルコンとポセイドンの関係はいったい…?

 最終決戦はたくさんの海の仲間達と共に。両親の仇を目の前に、命を吸い取る力を発現するオリハルコンの短剣。悪しき光を発するオリハルコンを収めることで、破壊の象徴たるポセイドン像の暴走を止めたトリトン。アトランティス盛衰の真実を語るポセイドンは、オリハルコンという危険すぎる力の存在を、ポセイドン族の悲しみを物語り、トリトン族の長き罪をトリトンに教えた。

 大きく強すぎる国は、やがて力を手にし、ふたつに別れ争いを生む。それぞれの正義がそこでぶつかり、結果悲しみを生んでいく。どちらにも言い分があり、そこにはどちらが正しく、どちらが間違っているという論理は存在しない。それが大きくなりすぎた国や組織の末路=運命なのかも知れない。そんなことを繰り返させないためにも、トリトンは皆の薦める王国を作らず、自由に生きていくことを選んだ。誰も見ない未来の国を、少年は探し求める。そんなことの起こることのない国の出現を待ち望みながら。この後の物語は全て主題歌に集約されている。またカラオケでも歌っていきましょう^^。


アドルフに告ぐ(98/08/08)

 小説読むのを中断して、こいつに注力して一気に読み終えました^^。手塚先生の作品ではこれも代表作と言っていいですね。既に巻末の書評で作品については専門家さん達が書き尽くされていますので(笑)、ここであれこれ言うまでもないのですが^^;、私的に考えて行くならば、先のガンダムと違って、結局人と人は分かり合えない、最期は憎しみあって殺し合いをして終わっていく、というアドルフ・カウフマンとアドルフ・カミルの人生そのものが実に厳しく感じ取れます。確かに、こういった一個人同士の憎しみ合いの集合体として、戦争へと発展していくのでしょうが、ほんとうにどうしようもなかったのかなぁ?って考えてしまいますね。

 戦争についてあまり偉そうに語れるわけでもないのですが、峠草平にしてもアセチレン・ランプにしても、結局いろんな角度から描き込まれているので、誰が悪いとか、そういう切り口で論じることができないし、それが現実なのですが、やはりやりきれない。このような作品を読むことで、少しでも戦争の悲惨さ、それによって自分という者が如何に醜い者に変貌する可能性があるか、ということをしっかりと心に刻み込みつつ、ばかげた戦争を起こさぬように、分かり合える心を全世界規模で育んでいきたいですね。漫画というものもそういった影響力のあるメディア・表現形態であるという認識を広げていきたいですね。手塚作品のそういう部分を後の世の平和のために伝えていきましょう。