LIVEGRAPHY

宙也
この時期はちょうどハードコアブームのはしりみたいな時で、結成当時はガーゼ、ギズム、エクスキュートなんかとよく一緒にライブやったね。僕等自身にパンクの意識は全然無かったけど。音の作り方や目指しているものが基本的に違ってたからね。
宙也
自分達の目指す音がまだはっきりしていなかったのね。メンバー同志がお互いに作用し合って面白いものが出て来たけど。ただカッコ良くロックしたかった。
U子
言うならば「アレルギーの赤ちゃん時代。」

1981.9.30
11.2

24
12.13
25
1982.1.9
24
新宿JAMスタジオ
新宿JAMスタジオ
早稲田大学
渋谷屋根裏
新宿キモノマイハウス
新宿JAMスタジオ
新宿ロフト
渋谷プルチネラ (ADK PUNK DAY)

宙也
82年4月にアラキが加入した。先輩のバンドでドラムをたたいてたのをスカウトしたわけ。とにかく一緒にやってみようって。アーちゃんも前からアレルギーに入りたがってたし。
U子
アーちゃんのドラムは凄く気持ち良かったね。
宙也
でもアーちゃん入って一番最初の練習の時、U-coすっぽかして来なかったんだよな。家で寝てんの(笑)。
U子
そうそう(笑)。あの頃は毎日お酒ばっかり飲んでてね、起きられないの、夕方になっても。お酒飲むために生きてたようなもんだから(笑)。
宙也
マネージャーの相原(弓)さんとはこの頃知り合った。
U子
活動範囲が広がったね、凄く。アンダーグラウンドのバンドでマネージャーをつけたのは、多分アレルギーが最初じゃないかしらね。

宙也
第2期は、企画ものに出演することが多かったね。自主ツアー組んだり、色々な企画に出させてもらったりして、幅広い活動を始めた時期。千野秀一ともやったし…スティグマとセッションしたのは面白かった。この時期はU-coがボーカル。
U子
私、ベースを持たないで人前で歌ったのはこの時が初めてなの!!

宙也
82年11月から「副都心-副作用-第二幕劇」って企画で、月1回ロフトでギグをやるようになった。毎回1バンドゲストを呼んだから、良い意味で刺激し合えたね。最初はメトロファルスで…。
U子
私ビックリしたもん、バカボンさんのベース聞いて。

宙也
11月に学園祭をドドッとやって、この頃からのってきたね。ライブのペースも早くなってきたし…ファンも増えてきた。
U子
アレルギーの色っていうのは、この時期に固まってきたんじゃないかな。
宙也
黒と白の…モノトーンの世界。

1982.4.1
5.12
16
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6.2
10
7.10
8.7


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9.22
10.9
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12.25
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27
28
30
新宿ロフト (4.1 TOKYO PUNK DAY)
新宿JAMスタジオ
目黒鹿鳴館
東京大学 (東大赤門オールナイトGIG)
渋谷屋根裏
新宿ロフト
法政大学
大阪スタジオあひる (あライブツアー)
京都捨得 (あライブツアー)
名古屋ELL (あライブツアー)
新宿ロフト (DOCUMENT 5 PUNK NOW)
新宿JAMスタジオ (アレルギー1周年GIG)
法政大学
原宿クロコダイル
新宿ロフト (BAET OF COLONY-植民地GIG)
新宿ロフト (副都心-副作用-第二幕劇)
新宿ロフト (ZOO ZOO ZOO オールナイト)
横浜市大体育館
渋谷TAKE OFF 7
和光大学
新宿ロフト
法政大学 (人呼んでオールナイト!)
渋谷屋根裏
神戸クラークケント
京大西部講堂
大阪あひる
名古屋ELL
新宿JAMスタジオ

宙也
83年1月に「アレルギー作用」のレコーディング開始。東大のオールナイトの時にシティ・ロッカーの人が見に来てくれて、話がもち上がったね。
U子
レコーディングは、最初のせいもあって、私は凄く緊張して駄目だった。オノちゃんは気楽にやってたけど。チューヤは面白かったの、スタジオの中真暗にして、自分にピンスポ当ててね、ライブ感覚で歌ったの(笑)。
宙也
その頃にはたくさん曲がたまってたから、とりあえず初期の曲をレコードにしておこうという気持ちだった。

U子
第3期では舞踏や映画をステージにとり入れ始めたわね。最初は83年2月のロフトで、北方舞踏派一緒に。やっぱり肉体だけで表現する人達と演るのは刺激的。彼等も私達の音に影響されていたし。ロック聞いてる人ってあまり舞踏を見たことないかも知れないから、びっくりしたんじゃないかしら。気持ち悪いんじゃない、最初は。ウドン粉白塗りでうねうね動いててさ。でも客の受けは良かったみたいね。
宙也
僕も今までと違う感覚で歌えて、面白かった。

U子
4月のスタジオ200ではビデオやスライドを流していたの。U-coのヌード・スライド。頭がモヒカンの頃のね。

宙也
7月の法政大で、レニ・リーフェンシュタールの「意志の勝利」って映画を流しながら演ったライブは印象的だった。あの時は800人位入ったね。
U子
SHY'sって舞踏家達とも共演したね。金粉塗っててさ、もの凄い演出。
宙也
このライブの為に作った曲が"EL DORADO"の原型になってる。この辺から曲にも広がりが出て来たと思うよ。

U子
7月21日(注)で「副都心-副作用」シリーズが終わったんだよね。その後は「スペースシードギグ」になる。

1983.2.5

24
3.8
19
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4.6
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29
5.1



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11.2


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12.6
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31
新宿ロフト (LOFT DAY新装オープン記念パーティー)
新宿ロフト (副都心-副作用-第二幕劇)
目黒鹿鳴館
新宿ロフト (副都心-副作用-第二幕劇)
目黒鹿鳴館
渋谷LA MAMA
新宿ロフト (副都心-副作用-第二幕劇アレルギー作用発売記念)
池袋スタジオ200 (通俗-異端-音楽実験室)
名古屋ELL
京大西部講堂
大阪スタジオあひる
京都捨得
新宿ロフト (副都心-副作用-第二幕劇)
新宿JAMスタジオ
東洋大学
横浜ジーンジニー
新宿ロフト (副都心-副作用-第二幕劇)
新宿ACB
千葉ダンシングマザース
法政大学
新宿ロフト (副都心-副作用-第二幕劇)
大阪スタジオあひる/京都サーカスサーカス
新宿ロフト (アンバランスゾーン)
長野仏陀
新潟WOODY
前橋ガルシア
新宿ロフト (テレグラフ プロダクツ5 DEAD END PARTY)
法政大学 (Bomb Line)
目黒鹿鳴館 (消毒GIG Vol.14)
新宿ロフト (副都心-副作用-第二幕劇終演×全曲集)
大阪スタジオあひる
京大西部講堂
静岡ボウイ
新宿ロフト
武蔵野美術大学
日大芸術学部/新宿JAMスタジオ
早稲田大学
横浜国大 (オールナイト)
法政大学 (オールナイト)
静岡ボウイ
新宿ロフト
新宿ツバキハウス (レベル・ストリートGIG)
新宿ロフト (恒例ロフト スペシャル83-84)

宙也
第4期からメロディとビートを重視するようになった。それ以前はメロディよりも声の質とか、ステージでの自分の存在自体を重視していたんだよね。見た目のインパクトから内面のインパクトへの移行を心がけた時期。だから生身から出てくる音に旋律をかぶせるようにして……。前はすきまがなかったんだよね。だから曲の構成もよく考えるようになった。
宙也
オノちゃんはこの頃から凄く伸びたね。
U子
ギタリストとして注目を浴び出したわね。アーちゃんは音楽的方向が少し違ってきたんじゃないかな?というか、積極的に自分のドラムをたたかなくなってきたというか。まわりに合わせるようになって、曲作りの段階で自分の意志を出さなくなってきたのね。チューヤは声がわりがあって、ちょっと悩んでたね、声が出なくなって。
宙也
僕はその頃から映画とか舞踏とか、他の力を借りて音楽を表現するよりも、アレルギーの中だけで音楽の可能性を追ってみたくなったんだよね。
U子
機材にも凝り出したしね。イコライザーとか使ったり…。
宙也
音に対して神経を使うようになった。

U子
「Summer Art Beat '84ツアー」は凄かったね!超過密スケジュールだったけど、天候にも恵まれたし、お客もたくさん入ったし…。広島や博多まで行けたのは楽しかったね。
宙也
企画はすべてアレルギー自身で組んだの。

U子
解散の話はチューヤから持ち上がったんだけど、私にとっては寝耳に水だったの。夏のツアーで新しい局面が見えてきて、「これからがんばろう」と思ってたから。でも今考えてみると、徐々にみんなの方向性が変わってきたみたいなのね。
宙也
解散っていうことは、ツアー中にちらちら頭をよぎっていたんだよね。惰性でライブをこなすことに不満もあったし……テクニック的な面でも、限界を感じていたから。
U子
ファンの人には、突然解散してしまって悪いと思う。自分達はふっ切れているんだけど、まわりでささえてくれた人達のことを考えると、やっぱりちょっと心残り。
宙也
「エル・ドラド」は解散状態の中で徳間ジャパンから話があった。解散した後の「記録」としてではなく、あくまでもアレルギーの「現在進行形」として受け止めて欲しい。
U子
アレルギーの最後のキメだね。

1984.1.13
21
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10.19
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1985.1.15
新宿ロフト
新宿ACB (時の葬列・終末の予感第2夜)
新宿ロフト (スペースシードGIG→1号)
千葉ダンシングマザース
横浜シェルガーデン
名古屋ELL
静岡ボウイ
静岡ボウイ
新宿ロフト (スペースシードGIG→2号 レコード発売記念)
大阪スタジオあひる
京大西部講堂
筑波アクアク
日比谷野音 (レベル・ストリートGIG)
新宿ロフト (スペースシードGIG→3号)
千葉ダンシングマザース
目黒鹿鳴館
新宿ロフト (スペースシードGIG→4号)
横浜シェルガーデン  (Summer Art Beat '84ツアー)
千葉ダンシングマザース
大阪キャンディホール
広島ウッディストリート
博多ビブレホール
京都ビッグバン
名古屋ELL
豊川かごやはうす
静岡サーカスタウン
諏訪サンシャインパーク
新宿ロフト (スペースシードGIG→5号 Summer Art Beat '84ツアー最終日)
京大西部講堂
目黒鹿鳴館 (解散宣言)
新宿ロフト (スペースシードスペシャル)
新宿ロフト (スペースシードスペシャル)
千葉ダンシングマザース
新宿ロフト (LAST IN LOFT)
法政大学 (ラストコンサート)

−最後のLPのタイトル「エルドラド(黄金郷)」とはどういう意味ですか?
宙也
レニ・リーフェンシュタールの「意志の勝利」はヒトラーがエル・ドラドを求めて彷徨い、結局は自滅してしまうというストーリーなんだけれど、アレルギーもその姿にダブっているの。黄金郷って本当は存在しないものなんだよね、現実と非現実との間にある未知の場所…それがアレルギーの存在自体でもあるから。アンリ・ミシューという詩人が「僕は地中海水平線上の巨大な疑問符である」と言っているけれども、アレルギーの存在自体も疑問符なのだ、と思う。
U子
LPを聞いてもらえばわかると思うけど、聞いている時は狭い道をどんどん走っていて、聞き終わった後に広場に出ていて、さてこれからどうしよう?という気持ちになると思う。
宙也
結局僕にとってアレルギーは、虚像でも実像でもなかった。3年間ずっと時間を費やしていた疑問符だった。未だに答えは出ていないし、多分、これから自分が何をやるにしてもかかわっていくものだと思う。
U子
私も札幌から東京に出てきてからの生活は殆どアレルギーに費やしていたから、この3年間は何だった?て問われたら、「アレルギーだった」としか言えないと思うわ。
 
−これからはどんな活動を?
U子
アーちゃんはP-MODELに入ったし、オノちゃんは元スターリンのみちろうと組んだし…私はこれから何をしようかまだ模索中ってとこ。多分、ロック・芝居・舞踏を総合させた新しいパフォーマンスに挑戦していくと思うわ。
宙也
僕はまた歌を歌っていくと思う。ソロでやるかバンドを組むかはまだわからないけど。今までアレルギーを応援してくれた人には「ありがとうございました」って言いたい。

参考:ドール85年6月号