長波
夜明け前の海は思ったより静かだった。船酔いもほとんどない。昨晩はどこか遠い国で地震が発生したそうだが、日本の海は実に落ち着いていた。
中年男性はぎこちなく舵を取りながら、船を沖合へと進めていく。
「高橋君だったけ、君のおかげで大漁間違いなしだよ。それにしてもラジオの占いには驚いたなあ。若い男性と一緒に沖釣にでると大吉だってね。後で船のガソリン代やらを負担させようとか、大物が釣れたら譲ってもらおうとかそんなセコイことは頭の片隅にも無いから安心してくれよ。今日は親父から聞いた秘密のポイントに連れていくから、まあゆっくりと座ってくれな」
おれは占いなど信じないが、なにせ万単位のお金がかかる沖釣に無料でいけるのだ。お告げをした占い師に感謝したい気分だった。ただ座っているのも気が引けるので、釣りは好きなのかと中年男性に質問したら、彼は自嘲気味に言った。
「昔は親父と一緒に海にでていたけど、最近はぱったりだよ。それでも海にあこがれをもっていたんだろうな。高校を卒業すると自分で海産物の加工会社を興したんだ。といっても干物程度だけどな」
「この船も会社のものですか」
「ああそうだ」
中年男性は胸を張った。だが、船に書かれている社名は昨年に倒産した会社だった。彼は漁師になるつもりだろうか。それにしては操舵が上手くない。
エンジンの調子が悪いのか、船の動きはずいぶんとゆっくりだった。中年男性はモニターを確かめながら慎重に船を動かしていく。
「あとどのくらいでポイントに到着するのですか」
中年男性は時計を確認した。
「もうこの辺りでいいだろう。君はさっそく釣を始めてくれ。私は疲れたからすこし休ませてもらうよ」
おれに救命機具の場所や使い方をひと通り説明すると、中年男性は煙草に火をつけた。せわしなく呼吸を繰り返すと、大きなため息をひとつついた。
会社が倒産して悩んでいるのだろう。おれは一人でエサをつけた仕掛けを放り投げたが、重りはすぐ底についてしまった。どうやら随分と浅いポイントのようだ。
「おじさん、秘密のポイントにしては浅すぎないかい。こんなに浅くては小魚ぐらいしか釣れないから、移動したほうがいいんじゃないかな」
「い、いや。ここがいんだ。うん、絶対に釣れるからさあ。たとえば、鯛とか平目とか。ちょっと時間はかかるかもしれないけど、絶対に大丈夫だって」
中年男性はあきらかに狼狽している。煙草をもっている手が震えている。何度も灰を落とそうとして失敗している。疑問を持ったおれはたたみかけた。
「仕掛けだって違うのに、鯛と平目って同じポイントで釣れるのかよ。そこにあるおじさんの釣竿だって磯釣り用だし、本当は釣りをするつもりなんてないでしょ。いったいここに船を止めている理由はなんなのさ」
中年男性は胸元から携帯灰皿を取り出すと、煙草を口から放してもみ消した。いつの間にかに手の震えも止まっている。そして、既成事実かのように落ち着いた口調で言った。
「もうすぐこの船は津波で転覆することになっている。そして私は死に、家族に億単位の保険金が下りるのだ」
「津波がくると言っても、波なんてどこにも無いじゃないか」
おれは見渡す限り平らな海を指差した。中年男性は小さく笑った。
「君も昨日南米で大地震があったのは知っているだろ。海の深さにもよるが、もうすぐ津波がやっきてこの船を襲うはずなのだ。地震の津波は長波といって、波のほとんどは海面の下に隠れているんだ。ところがここに限って言えば水深が極端に浅いので、いままで隠れていた波が一気に表面にでてくるんだ。すでに船底には海水を大量に入れている。津波がくればイチコロさ」
中年男性は高笑いをした。おれは中年男性の襟首をつかんだ。
「そんなに死にたいなら一人で死ねばいいじゃないか。なぜおれを巻き込むんだ」
「生命保険に加入してまだ半年しかたってないから、一人で死ぬと自殺と判定されて保険金が下りない可能性があるんだよ。君にはすまないが保険金が手にはいれば会社の債務が完済でき、家族にも生活費が残るんだ」
中年男性はナイフでライフジャケットに穴を空けた。
「ヤミ金から逃れることはできんからなあ」
海の彼方を見つめると、目印のような小さい波がこの船をめがけて迫りつつあった。