***子宝***

 

 四月にしては、ずいぶんと暖かい日だった。圭子はベランダの手すりに敷き布団並べていると、庭のツツジにしぼんで小さくなった黄色い風船が引っかかっているのが見えた。

 圭子が庭まで降りて拾いあげると、その風船には葉書大の紙が糸で結び付けられていた。

(これは風船郵便だわ。子供のころに飛ばしたけど、ずいぶんと懐かしいわね)

 圭子は丁寧にビニール袋で包まれた紙を取り出すと、そこにはかわいい字でこう書かれていた。

“これをひろってくれたしんせつなひとへ。ぼくはもうすぐしにます”

 あまりに唐突な内容に、圭子は頭が凍りついた。

“おかあさんがいなくなってしまいました。おとうさんはもともといません。ぼくはいえでひとりぼっちです。このままでは、きっとしんでしまいます。だれかたすけてください”

 そして、最後にその子が居ると思われる住所が書いてあった。圭子は慌てて夫のいる会社へと電話するために、受話器を取った。

 呼び鈴が鳴る間も待ち遠しい。番号は直通なので、ほどなく夫の“もしもし”という声が聞こえてきた。圭子は急いで喋りだした。

「ちょっと大変なのよ。子供が死ぬ寸前なのよ」

「何を訳分からんことをいっているのだ。家には子供なんて居ないじゃないか。誰の子供のことを言っているのだ」

「誰の子供かしらないけど、とにかく子供からの切実なメッセージが届いたのよ」

 圭子は必死に手紙について説明するが、受話器の向こうから聞こえてくる夫の声は、めんどくさそうなものだった。

「そんなの悪い冗談に決まってるじゃないか。俺は仕事で忙しいんだから、そんなに気になるならお前が住所を元に訪ねてみればいいじゃないか」

「なんて頼りにならないの」

 圭子は送話口に唾を飛ばすと、苛立ちそのままに電話を切った。結婚したころの夫はもっと優しかったのに、いまでは圭子が何を言っても上の空だ。夜の方も五年はご無沙汰だ。会社の女と浮気されたこともあった。夫に相談した自分がバカだったと、圭子は自分で解決すべくスニーカーに足を通して、地図を片手に家を飛び出した。

圭子は電車に乗り、海側へ二駅ほど進んだ。そこはこの周辺の住民をまるごと飲み込むような大都会で、夫の勤務先も当然、ここが最寄り駅だ。手紙の文字を読む限りでは、ようやく字を書ける程度の年齢だろう。いたいけな子供がどこかで泣いているかと思うと、圭子はいてもたってもいられない。圭子は住所を頼りに、地図の上に指を這わせながら歩いていく。

 大通り沿いに十分ほど歩き、そこから一本だけ裏側に入ったところに、古ぼけたアパートがあった。住所を見ると、そこの一番奥の部屋らしい。圭子はアパートの入り口まで来て郵便受けを覗いてみると、溢れるチラシが挿入口からはみ出ていた。圭子は薄い鉄板で作られた階段を上り、塗装のはげた通路を突き当りまで進んだ。

 扉に表札は無く、茶色く変色した板が掲げてあるだけだった。圭子が呼び鈴を鳴らすと、部屋の中から物音がした。もう一度、呼び鈴を鳴らすと、今度は子供がすすり泣く声が聞こえてきた。

 手紙は悪い冗談ではなかった。圭子が慌てて扉を開くと、狭いワンルームの部屋に小さな男の子が壁際に座って泣いていた。圭子の姿を見つけると、その小さな腕で抱きしめてきた。

「ぼくの手紙が届いたんだ」

「そうよ、あなたを助けに来たのよ」

 圭子は男の子を包み込むと、いつのまにかに涙を流していた。

その男の子は子供のいなかった圭子夫婦の養子となり、小学校に入学するまでになった。

 ある休日、圭子は夫にコーヒーを出しながらこう尋ねた。

「ねえ、昔から疑問に思っていたけど、あの手紙が来た日はずいぶんと暑かったよね」

「そうだったかなあ。もう覚えていないね」

 夫は興味なさそうにコーヒーを啜った。圭子は夫の目を覗き込んだ。

「あれだけ暑いということは、フェーン現象が起こっていたんじゃないかと思うのよ。それなら山から海にかけて風が吹くはずでしょ?ところがあの風船は風向きとは逆に海側から流れてきたのよ。あれは風じゃなくて、誰かがあの子を家に招き入れるために意図的に置いたのじゃないかしら」

 夫が軽く咳き込んて、コーヒーがテーブルにこぼれた。

「しかも、あの子が成長するたびに、あなたにそっくりになるのはどういうこと」