1849-1866年のドイツと日本の出来事
1849年
・三級選挙法制定。大土地所有者に有利な選挙法
・フランクフルト国民議会、4票差でドイツ帝国憲法を可決
・フランクフルト国民議会、プロイセン国王を世襲のドイツ皇帝として選出 (こちらは42票差)
・フリードリヒ=ヴィルヘルム4世、国民議会議員代表団からの帝位奉呈を拒否
・フランクフルト憲法擁護のためバーデン・プファルツ地方で民衆が蜂起。プロイセン軍、これを鎮圧
・蜂起失敗で大量のアメリカ移民始まる(バーデンで8万人)
・国民議会議員、シュトゥットガルトに避難するも、竜騎兵の襲撃で四散 (国民議会の解散)
・プロイセン・ハノーバー・ザクセンの三王同盟。28の諸邦も参加。
 バイエルン王国とヴュルテンベルク王国は、プロイセンを盟主とする連盟に参加せず
・三王同盟、オーストリーの圧力で解消
・シュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題再燃。プロイセン、軍隊を派遣
ドイツ最初の切手、バイエルン王国で発行
(ショパン没)
嘉永
2年
・イギリス船が浦賀に出現
・幕府、諸大名に沿岸警備強化を指示
・葛飾北斎没
1850年
・自治体条例制定。ユンカーの警察権を剥奪
・ロンドン議定書、シュレスヴィヒ=ホルシュタインの両公国をデンマークの主権下におくことを保障
・プロイセン、列強の圧力で譲歩。オルミュッツ協定で、オーストリーを盟主とするドイツ連邦再建へ
・オーストリーと郵便条約締結
・プロイセン王国、ザクセン王国、ハノーバー王国、シュレスヴィヒ=ホルシュタインの両公国で切手を発行
・リヒャルト・ワーグナーの「ローエングリン」初演 (指揮者は、フランツ・リスト)
嘉永
3年
・イギリス捕鯨船が蝦夷に漂着
・国定忠治没
1851年
・プロイセン=オーストリー防御協定
・バーデン大公国、ヴュルテンベルク王国で切手を発行
・ロベルト・シューマン、交響曲第3番「ライン」を自身の指揮で初演
(ロンドンで第1回万国博覧会開催)
嘉永
4年
・ジョン万次郎帰国
・問屋組合再興
・水野忠邦没
1852年
・グリム兄弟、ドイツ語辞典第1巻発行 (1838年着手、完成は123年後の1961年)
・ブラウンシュヴァイク公国、オルデンブルク大公国、トゥルン・ウント・タクシスで切手を発行
(ナポレオン3世が皇帝に即位)
嘉永
5年
・ロシア船、紀州の漂流民を乗せて下田へ
・孝明天皇の第二皇子誕生(後の明治天皇)
1853年
・クリミア戦争勃発。オーストリーの執拗な参戦要請にビスマルクは断固拒否し、ドイツの中立を守る
・自治体条例、ユンカー勢力の反対で廃止
・プロイセン、オーストリーと通商協定締結
・ブラームス、ピアノソナタ第1番作品1出版
嘉永
6年
・13代将軍家定
・ペリー、浦賀に来航
・プチャーチン、長崎に来航
・小田原で大地震
1854年
・ユンカー勢力拡大。プロイセンの上院、7割がユンカー出身者
安政
元年
・日米和親条約(神奈川条約)締結
・日露和親条約締結
・京都大火
1855年
・ドイツの人口およそ3600万人に(1815年はおよそ2500万人)
・ブレーメン自由都市で切手を発行
・カール・フリードリヒ・ガウス没
安政
2年
・江戸で大地震(安政大地震)
1856年
・デュッセルドルフ郊外のネアンデル渓谷(ドイツ語でネアンデルタール)で
 人骨の化石を発掘(ネアンデルタール人の発見)
・メクレンブルク=シュヴェーリン大公国で切手を発行
・ロベルト・シューマン没
安政
3年
・ハリス、下田に着任
・渋染一揆
1857年
・経済恐慌始まる(1859年まで)
・ハインリヒ・ヘルツ誕生
安政
4年
・下田条約締結
1858年
・フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が精神病のため、王弟ヴィルヘルムが摂政に
・リヒャルト・ワーグナーの「ローエングリン」、ミュンヘンで上演。
 バイエルン王国の皇太子ルートヴィヒ2世がワーグナーに心酔
・マックス・プランク誕生
・ルドルフ・ディーゼル誕生
安政
5年
・14代将軍家茂
・井伊直弼、大老になる
・安政の大獄
・日米修好通商条約締結。英、蘭、露、仏とも同様の条約締結(安政の五カ国条約)
1859年
・ドイツ国民協会設立。プロイセンを盟主とするドイツ連邦を推進
・ハンブルク自由都市、リューベック自由都市で切手を発行
・リヒャルト・ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」完成 (初演は1865年)
(イタリア統一戦争勃発)
安政
6年
・安政小判金(正字小判、一両=4000文)鋳造
・安政一分銀(新一分=1000文)鋳造開始
・下田開港に備えて安政二朱銀(貿易二朱=500文)を鋳造し交換不均衡による金銀流出防衛をもくろむも、アメリカの反対にあい22日間で廃止。再び不利な交換で金銀流出続く
・輸出の品不足で物価高騰
1860年
・プロイセン下院で軍政改革法案提出されるも反対により撤回
・アルトゥール・ショーペンハウアー没
・プロイセン、フリードリヒ・オイレンブルク伯を日本に派遣し、修好通商条約締結交渉を行う
(グスタフ・マーラー誕生)
万延
元年
・通貨の小型化
・万延小判金(雛小判)鋳造
・桜田門外の変
・物価高騰防止のため開港地直送を禁止する五品江戸廻しの令を出すも効果なし
・遣米使節団。咸臨丸もアメリカへ渡る
1861年
・プロイセン、日本と修好通商条約締結
・摂政の王弟ヴィルヘルムがヴィルヘルム1世に即位
・プロイセン政府とプロイセン下院が軍政改革で対立
・ベルゲドルフで切手を発行
文久
元年
・ロシア軍艦ポサドニック号、対馬占領
・プロイセンと修好通商条約締結
1862年
・ビスマルク、首相に就任。予算委員会で鉄血演説
・憲法紛争始まる
・プロイセン、フランスと通商条約締結
・ゲルハルト・ハウプトマン誕生
(クロード・ドビュッシー誕生)
文久
2年
・坂下門外の変
・寺田屋事件
・生麦事件
1863年
・全ドイツ労働協会結成
・デンマーク国王クリスチャン9世がシュレスヴィヒ公国をデンマークに併合する新憲法発布
文久
3年
・文久永宝(4文銭)鋳造
・長州藩が外国船を砲撃
・薩英戦争
1864年
・プロイセン、オーストリーと共同で出兵し、デンマーク軍に勝利
・国際労働者協会設立
・農業信用組合設立
・バイエルン王マクシミリアン3世没、ルートヴィッヒ2世即位
・ルートヴィッヒ2世、リヒャルト・ワーグナーを招待。負債を全額肩代わりし、多額の援助金を申し出る
・メクレンブルク=シュトレリッツ大公国で切手を発行
(リヒャルト・シュトラウス誕生)
元治
元年
・水戸天狗党挙兵
・池田屋事件
・四国連合艦隊、下関を砲撃
・第一次長州征討(長州征伐)
1865年
・プロイセン、オーストリーと通商条約締結
・ガスタイン協定で、シュレスヴィヒはプロイセンの管理下、ホルシュタインはオーストリーの管理下に
・全ドイツ婦人協会設立
慶応
元年
1866年
・プロイセン・オーストリー戦争勃発。プロイセン軍がケーニヒスグレーツでオーストリー軍を壊滅
・プラハ講和条約調印。オーストリーを盟主とするドイツ連邦解体
・プロイセン下院で事後承認法案採択。憲法紛争が終結
慶応
2年
・15代将軍慶喜
・五稜郭完成
・第二次長州征討
・薩長同盟
・福沢諭吉「西洋事情」

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1849-1866年に発行されたバイエルン切手(数字図案)

1849.11.1 (土曜 Sonnabend, Saturday)

 この日、ドイツ最初の切手がバイエルン王国で発行されました。上のドイツの歴史を見ていただくとおわかりのとおり、当時のドイツは北ドイツのプロイセン王国と諸外国の動きが中心で、南ドイツに位置するバイエルン王国、バーデン大公国、ヴュルテンベルク王国は、それぞれドイツ諸邦の中では大国でありながら、あまり積極的な動きはありませんでした。その点、バイエルン王国がプロイセン王国より1年以上早く切手を導入したことは、注目に値します。

(参考) バイエルン王国の切手が発行されるまでの世界の発行状況をいくつかピックアップすると、以下の通りです。(網羅している訳ではありません。)
1840年 5月 6日(金) イギリス (実際は1日から発売して、6日から使用)
1842年 2月 1日(木) アメリカ ニューヨーク
1843年 3月 1日(金) スイス チューリッヒ
1843年 8月 1日(木) ブラジル
1843年 9月30日(月) スイス ジュネーブ
1845年 7月 1日(木) スイス バーゼル
1845年11月 1日(月) アメリカ セントルイス
1847年 4月24日(月) トリニダード
1847年 7月 1日(土) アメリカ合衆国
1847年 9月21日(木) モーリシャス
1848年 バミューダ
1849年 1月 1日(水) フランス
1849年 7月 1日(火) ベルギー
1849年 9月15日(月) スイス連邦
1849年11月 1日(土) バイエルン

1.数字図案シリーズ

 数字図案シリーズは、中央に大きく額面の数字が描かれたシンプルなデザインです。もし、バイエルン王国がドイツ最大の王国であったならば、最初から国王の肖像の切手を発行したかもしれませんが、プロイセン王国が主導的立場にあるドイツでは、肖像よりも数字図案の方が相手を刺激しない最良の方法であったのでしょう。ちなみに、ドイツで最初から国王の肖像を使用したのは1850年発行のプロイセンです。他はというと、バーデン、ヴュルテンベルク、ザクセンは数字図案、ベルゲドルフ、ブラウンシュヴァイク、ブレーメン、ハンブルク、ハノーバー、リューベック、メクレンブルク=シュヴェーリン、メクレンブルク=シュトレリッツ、オルデンブルク、シュレスヴィヒ=ホルシュタインは紋章図案です。ヘルゴラント(=ビクトリア女王図案)とトゥルン・ウント・タクシス(=数字図案)は、国ではないので除きます。

 1849年6月5日(木)の通達で7月1日(火)から適用された国内郵便に関する新料金に基づいて、11月1日から3種類の切手が発行されました。1Kreuzer(クロイツェル)と3Kreuzerの切手の配色を見ると、イギリスで世界最初に発行された 1ペニー黒、2ペンス青の切手にそっくりですが、1849年当時のイギリスでは、1ペニー、2ペンス、10ペンス、1シリング黄緑であり、バイエルン王国は最低額面だけ黒にして他(青、茶)を真似した形になっています。
 シートは、5行×9列の45枚を、間にマージンを挟んで、横に2つ並べた合計90枚で構成されています。目打ちはありません。これ以降、1862年発行の数字図案まで、すべて無目打ちです。

1Kreuzer 黒
重量1ロート(=15.625g)までの市内用書状
重量1ロートまでの印刷物 (市内用、市外用共通。距離に無関係)
3Kreuzer 青
重量1ロートまでの書状で配達距離が12マイルまでのもの (1マイルは7,420メートルなので、12マイルは89.04キロメートル)
6Kreuzer 茶
重量1ロートを超え4ロート(=62.5g)までの書状で配達距離が12マイルまでのもの
重量1ロートまでの書状で配達距離が12マイルを超えるもの
書留料

・3Kreuzer切手と6Kreuzer切手の図案に2つのタイプがあります。数字を囲む○が枠からはみ出しているのがタイプ1、○が枠に接しているのがタイプ2です。
・1Kreuzer切手は2つの版、3Kreuzer切手は5つの版、6Kreuzer切手(タイプ2)は3つの版があります。
・1Kreuzer切手は1851年9月30日まで発売され、10月1日からは窓口から回収されました。
・3Kreuzer切手に、発行前日使用のカバーがあります。
・有効期限は1864年8月31日です。
・1Kreuzer黒は、オークションカタログからのコピーです。ご了承ください。

 切手の用紙には、すかしはありませんが、偽造防止のため、用紙に細い絹糸が漉き込まれています。切手の裏から絹糸を見ることができます。下の写真を参照してください。これ以降、1862年発行の数字図案まで、すべて絹糸が漉き込まれています。

切手中央の上から下に走る赤い線が、偽造防止のための絹糸


1850.10.1 (木曜 Donnerstag, Thursday)

2.数字図案シリーズ改色・追加

 1Kreuzer切手の黒の配色があまりよくなかったためか、発行して11ヶ月で桃色に改色されました。イギリスの1ペニー紅を連想させる赤ですが、そこまで意識していたのかはわかりません。
 一方、1850年6月25日(木)に締結され7月1日(水)から施行されたドイツとオーストリー間の郵便条約に基づき、バイエルン王国からオーストリー宛の郵便が、重量1ロートにつき、10マイルまでが3Kreuzer、10マイルを超えて20マイルまでが6Kreuzer、20マイルを超えると9Kreuzerという料金になりました。これに伴い、9Kreuzer切手が追加されました。9Kreuzer切手に選ばれた配色は、前述のイギリス切手の配色の順番通り、の次の黄緑が採用されていて、イギリスの真似をしたと思えるほどです。ちなみに、郵便条約を締結して1850年7月1日から発行されたオーストリーの切手は、これらとまったく異なっていて、1Kreuzer、2Kreuzer黒、3Kreuzer、6Kreuzer、9Kreuzerです。

1Kreuzer 桃
重量1ロート(=15.625g)までの市内用書状
重量1ロートまでの印刷物 (市内用、市外用共通。距離に無関係)
9Kreuzer 黄緑
20マイル(=148.4キロメートル)を超えるオーストリー宛書状で重量1ロートごとの料金

・9Kreuzer切手の刷色は、発行された年代によってかなり差があり、4種類に分類されます。
・有効期限は1864年8月31日です。


1854.7.19 (金曜 Freitag, Friday)

3.数字図案シリーズ追加

 1854年4月1日(月)から郵便条約を結んでいない外国宛の書状料金が18Kreuzerになり、18Kreuzer切手が発行されました。(宛先や重量制限等の詳細は不明です。)なお、7月19日は発行の通達の日で、初日から売られていたかは不明です。1858年7月1日からは、市内宛の速達制度が導入され、市内宛で夜間を除く速達料金が18Kreuzerでしたので、そちらにも利用されました。

18Kreuzer 黄
外信書状

・有効期限は1864年8月31日です。


1858.7.1 郵便料金改訂

1858.7.1 (土曜 Sonnabend, Saturday)

4.数字図案シリーズ追加

 1858年7月1日から郵便料金が改定されて、国内宛書状の重量の上限が、それまでの4倍の16ロート(=250g)にまで引き上げられました。料金は、印刷物は重量1ロートごとに1Kreuzer、書状は12マイルまでは重量1ロートごとに3Kreuzer、12マイルを超えると重量1ロートごとに6Kreuzerになりました。
 また、フランス宛(仏領アルジェリア含む)の書状が12Kreuzerになり、12Kreuzer切手が発行されました。

12Kreuzer 赤
重量書状(上記の換算で計算のこと)、配達証明付き書留料、フランス宛書状

・有効期限は1864年8月31日です。
・12Kreuzer赤は、オークションカタログからのコピーです。ご了承ください。

バイエルン切手最初のシリーズ


1862.10.1 (土曜 Sonnabend, Saturday)

5.数字図案シリーズ追加

 郵便条約を締結した国の間で郵便のやりとりしていく上で、互いに交換し合う郵便に使っている切手の色を合わせる必要が出てきたため、全面的に色を変えたシリーズです。例えば、バイエルン王国の3Kreuzerがプロイセンの1銀Groschenに相当し、それがオーストリーの5Kreuzerに相当しましたが、これを全部同じ色にする、という訳です。
 一番下の図で色を比較していますが、前シリーズの額面の色がそれぞれ右隣に移動していって、右端の18Kreuzerの色が左端に移動している、すなわち、ぐるりと一巡しているのがおわかりいただけるでしょうか。
 この改色は、プロイセンの3種類の切手に合わせることからきていて、プロイセンの1銀Groschen、2銀Groschen、3銀Groschenに対して、それぞれ3Kreuzer、6Kreuzer、9Kreuzerに変えています。ちなみに、オーストリーは、1863年から5Kreuzer、10Kreuzer、15Kreuzerに変えています。これらの色の統一は、後年UPU(万国郵便連合)で決定されて加盟国各国が実施した切手の刷色統一の先駆けと言えます。

1Kreuzer 黄
市内用書状で重量1ロートごとの料金、印刷物で重量1ロートごとの料金
3Kreuzer 赤
12マイルまでの市外用書状で重量1ロートごとの料金、
10マイルまでのオーストリー宛書状で重量1ロートごとの料金
6Kreuzer 青
12マイルを超える市外用書状で重量1ロートごとの料金、
10マイルを超えて20マイルまでのオーストリー宛書状で重量1ロートごとの料金、
書留料
9Kreuzer 茶
20マイルを超えるオーストリー宛書状で重量1ロートごとの料金、
市内宛で夜間を除く速達料
12Kreuzer 黄緑
重量書状(上記の換算で計算のこと)、配達証明付き書留料、
フランス宛書状
18Kreuzer 赤
重量書状(上記の換算で計算のこと)、市内宛で夜配達の速達料、
郵便条約を締結していない外国宛の書状

・オーストリー宛以外の外信書状に関する料金は、詳細なデータがなく、あくまで参考です。
・有効期限は1869年12月31日です。

バイエルン王国の2つのシリーズを比較(色が一巡して入れ替わっている)
1850年〜1858年発行
→    →    →    →    →    →    ↓
↑    ←    ←    ←    ←    ←    ←
1862年発行

バイエルン王国の消印について

 バイエルン王国では、1849年11月1日から1850年7月31日まで、切手を局名と日付が入った印で抹消するか、ペンで抹消していました。1850年8月1日からは、歯車(ドイツの郵趣界の表現では、水車の羽根車を意味するミュールラート)の形をした番号印が使われました。この番号は1番から603番まであって、だいたいは郵便局の局名のアルファベット順ですが、結構バラバラなところもあったため、1856年11月21日に全部回収し、再割り当てを行いました。再割り当て中は、再び日付印で抹消しています。

 今度は、1番からアルファベット順になるように並べ替えましたが、番号を3つ増やして1番から606番までAからZの順に並び替えたものの、よく見ると、ぽつぽつ違っているところがありますので、完全ではありません。さらにややこしいことに、2番から605番までの間の飛び飛びで185個分の消印を、歯車の部分に切れ目を入れたような新しい消印に取り替え、607番以降もその(切れ目のある)新しい消印を用意しました。607番以降の並びは、アルファベット順ではなく、まったくバラバラです。

 結局、昔のタイプの歯車の消印が1番から606番中、取り替えた185個の消印を差し引いて、606−185=421個、新しく歯車の部分に切れ目を入れた消印(取り替えた消印)が2番から605番までの間の185個、(切れ目のある)新しい消印が607番以降という複雑な状態になってしまいました。再割り当て後の消印は、1856年12月1日から1869年3月9日まで使用されました。なお、最終的には、番号印は922番まで用意されました。ただし、921番と922番の使用例は、未発見です。 

左の555番はおそらく再割り当て前のシルンディンク局、右の777番は再割り当て後のグムント局

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