18:45
その時にならなければ、意外とわからないものだな。徹は思った。
現にこうして、秋夫は人間の姿から、なにやら異様なものへと姿を変えた。なのに、気持ち悪いとも恐ろしいとも思えない。
徹はただ突っ立っていた。なにかしなければと思うのだが、そこから先に思考が進まない。足元に横たわる秋夫は、今は、白い塊となって、ひくひくと痙攣していた。
どうしてこんな風になってしまったんだろう。いや、そもそもこれは本当に秋夫なのだろうか。
思って、しかしすぐに打ち消す。
徹は見ていたのだ。
秋夫があれに誘われ、この姿に変化していく様を。ほとんどあっという間の出来事に思えた。徹が驚いているうちに、どんどん秋夫は変化して、そうして結局徹は見ているだけだったのだ。
窓から照りつける夕日が、徹と秋夫だった塊をを赤く染めた。
18:50
下校の放送が静かに校内に流れる。西日で真っ赤に染め上げられた教室に、音楽が高く低く響き渡る。
その音楽に弾かれたようになって、徹は慌てて教室から逃げ出した。秋夫を襲ったものが自分を無視してくれるとは考えなかった。
秋夫を助けるとか助けないとか、そんなレベルの話ではない。ああなってしまって、秋夫が秋夫のまま助けられるとはとうてい思えない。音がきっかけとなって、徹の心に恐怖が、遅まきながらわいたのだった。
5:30
次の日徹は一番に教室にはいるために、早く起きた。
昨夜帰ってから、夕飯も食べずに部屋にこもった。帰らない秋夫を心配した家の人から、電話がかかってくるかと思ったが、結局それもなかった。疑問に思ったが、それはそれでほっとする。
秋夫と徹とは、同じ生物部の親友だった。二人とも植物に興味を持ち、よく雑木林や川辺に行っては植物標本をつくった。互いに持つコレクションを交換したり、休みの日には二人で遠出して、植物を観察したりしたものだ。
だから、異様なものを見た興奮から冷めた徹を後悔が襲った。本当になにもできなかったのか? 秋夫が変質する課程がまざまざと思い起こされる。吐き気がした。涙も出た。ハッキリと覚えているのに、自分はただ見ていただけ。秋夫とは親友だったのに、誰かに知らせることもせずに逃げ帰ってしまった。
教室は徹たちで最後だった。最終下校時刻間際で、あれから他の誰かが教室に戻ってくるとは考えにくい。秋夫は教台の前に転がっているはずだ。
徹は秋夫をなんとかしなければと思った。あの時、自分がすぐに助けを呼べなかったのなら、もう一度、自分が見つけて誰かに伝えたい。
そうして、普段よりもずっと早起きをして、彼は学校へ向かった。
しかし徹は肝心なこと、なにが秋夫を襲ったのかについては、意識を向けることができないでいた。
7:13
教室のドアの前まで来ると、恐怖がこみ上げてきて、すぐにドアを開けられなかった。しんと静まり返った廊下で、ドアノブを握りしめながら、徹は怯えた。
あの後、秋夫はどうなったのか?
しかしここまで来て、いつまでもこうしてはいられない。ありったけの勇気を振り絞って、徹はドアを開けた。
予想に反して、教台前にはなにもなかった。
いつもと変わらぬ教室の風景があるばかりだ。教室内はひんやりとしてよそよそしい感じがするが、それは徹がいつも登校する時間よりも早いためだろう。普段の習慣で、まずは自席に鞄を置く。
徹は、呆然としながらもっとよく調べてみようとよろよろと教台に近付いた。
昨日のあれは夢だったのだろうか? そんなはずは……それとも、秋夫のことが誰かに見つけられてなんらかの処理がなされたのか? それにしては、教室も学校も静かすぎた。
その時、徹の目に一輪の花が映った。 昨日秋夫がジュースの空缶にさしてそこに置いたものだ。珍しく、美しい花。
徹は突然思い出した。なぜ今まで忘れていたのだろう。この花のために秋夫はあんな風になってしまったのだ。この花が秋夫をあんな風に変えてしまったのだ!
秋夫がどこからか摘んできた花。珍しい花を見つけたと、秋夫から連絡があったので、二人はここで落ち合うことにしたのだ。
徹は花を捨てなければと思った。窓辺に飾られた花は、今も妖しく美しい花を咲かせている。
すべての原因、すべての悪の源。徹は花に手を伸ばした。すべての怒りをこめて。
茎に手が触れた瞬間、チクリと指先に痛みが走った。よく見ると、茎にびっしりと産毛状の毛が生えている。それが指先に刺さったのだ。毛を刺すことはわりにある。無意識に徹は指先をさすった。
7:24
見れば見るほど美しい花。こんなに美しい花は今まで見たことはなかった。茎は黒っぽく、太い。八重咲きの花は萼と花弁の区別がつきにくく、金属光沢を持つ花弁はちょっとした光の加減で七色に変化する。複雑で微妙な色彩変化は、うっとりとさせられる。ちょっと考えても、この花の属が思い浮かばない。
それを捨て、踏みにじろうとしている。なにということをしようとしているのだろう。そんなことをしたら罪だ。痺れるような感覚が身体中に走った。
徹は完全に魅入られていた。
7:27
徹の目はうつろだった。もう秋夫のことを、秋夫がこの花のためにどうなったかを忘れた。
花は、美しいこの花は、接触によって、徹の脳を幻惑した。花の色加減によって、思考を鈍らせ、奪った。その都度、徹の心は花の虜となっていった。
7:30
花は、触手を伸ばしはじめた。徹の思考のすべてはこの花で埋まっていた。徹は花とひとつになりたいと思った。つまり秋夫のようになりたいと願ったのである。
花から延びたつるは、すばやく徹の体を抱くように包んだ。包むと同時に針のように細い先が皮膚の中に入った。
痛みは感じなかった。痛みは快感にすり替わった。触手が体内をめぐる度に、徹の心は快楽で満たされる。肌を割らないでいるつるは、徹を覆い、白い粘液を出して塗り込めた。徐々に白く繭玉のようになっていくその上で、美しい花がかすかに震えた。
7:33
徹の体は繭玉のようだった。
ほんのり薄黄緑色の大きな繭。花は繭玉のてっぺんに誇らしげに咲いていた。徹は壊されていく意識の中で、自分がどのようになっているかを知っていた。
昨日、秋夫がこの花にとりこまれていく様を見ていた。見ていた自分が今同じ目にあっている。しかし徹はそのことを恐ろしいとも悲しいとも思えなかった。むしろ歓喜にみたされていた。
花のつるが徹の体内で蠢いている。痛みは感じない。徹の意識は麻薬によって巧みに痛みや恐怖から遠ざけられ、そのかわりに歓喜に満たされて薄れていく。そうして異様な姿へと変化していく。血と肉の塊。その中に白い骨がのぞき、それらにつるが絡まっている。肉片はひくひくと痙攣していた。脳とそれにつながる神経が無傷でてらてらと光った。
花はさらに美しさを増して、触手を引き戻し、もう後にはなにも残っていなかった。
8:10
教室のドアが、がらりと開き、美奈が入ってきた。普段から彼女は誰よりも早く教室に入る。だからドアを開けて、教室に誰もいなくても、なんの感慨もわかなかった。後数分もしないうちに、次々に人が入ってくる。美奈はただ、歩くのが少し早いだけだ。電車を降りてから、学校までの道のりはちょっとした散歩という程度の距離がある。だらだらと集団の中を歩くのが嫌なので、美奈は到着した電車に乗る生徒達の流れの先頭集団にいるようにしているだけだ。
自分の席で鞄の中身を整理していたとき、吉本徹の机の上に鞄が置いてあるのに気づいた。辺りを見回したが、人の気配はない。第一彼女自身、来てから教室に誰も入ってきていないとわかっている。
ということは、私よりも早く来たのかしら。いつもはそんなに早く来る方じゃないのに変ねと思ったとき、何気なく、一輪の美しい花が目に留まった。
なんて綺麗なのかしら。この花、もしかしたら吉本君が持ってきたのかな? だけどすごい綺麗な花。なんていうのかしら、こんなの見たことないわ……瞬間、美奈の瞳はうつろになり、よろよろと花の方へ歩み寄っていった。
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