雲の上の魚

第3回

 廊下は相変わらず暗い。部屋を出て四回目に曲がった角くらいまでならわかったような気がした。けれどもその先はわからない。まるで迷路のような廊下。どこをどう曲がったのか知らないが、今まで通った階段とは装飾が違う階段を上った。手摺りにアールヌーヴォー風の意匠が施してある。段も緩く螺旋を描いている。どこにつながっているのか鹿子が疑問に思っていたところで、田久保祐司が説明してくれた。
「この先は屋上なんだ。この学校は大窪教授の趣味でできている。それに佐渡教授の味つけが加わってもいるけどな。俺でも時時迷うんだ。規則がつかめれば、覚えられるんだけどよ」
「ふうん」
 屋上へ通じる扉は、西洋の中世時代にタイムスリップしたかのような荘厳な造りだ。雰囲気が校舎の中とは違っている。田久保祐司はジーンズのポケットから、およそそぐわない大ぶりの鍵を取り出して開けにかかる。がちゃりとまことしやかな音がして、錠がはずれた。扉を押し開ける音までもが時代がかっている。現れた屋上は、地面がコンクリートなのにも関わらず、そこいら中に緑がはびこっていた。
「うわ、この前刈ったばっかなのに、もうこんなにのびちゃって……」
 呟きがもれた。手近な葉っぱに触れて、その植物がアイビーだと確認する。
「ちょっと待ってて、今通る分だけ刈っちゃうから」
 そういいおくと、田久保祐司は深呼吸して目をつむった。鹿子はなにがなんだかわからなかったけれど、いわれたとおり、じっとしていた。

 徐々に、緑が後退して、道のようなものができた。
「ふう、こんなもんかな」
「ちょっと、ちょっと、すごいじゃない。どうやったの」
「え、どうって……つまりよ、ここは夢の世界なわけだ。夢の中ではなんでも自分の思うとおりになるってよくいうだろ。俺は自分が今夢の世界にいるってことを意識してるから、自分に都合が悪ければそれがたとえ地球の自転だろうが、時間だろうがなんでも修正できるんだ。だから、俺は緑が少し引っ込んで欲しいと思っただけ。ここの緑は佐渡教授の趣味なんだよ。あの人の趣味は園芸なんだ。機会があったら散策してみるといいぜ、結構珍しい植物があるから」
「わたしにもできる?」
「できる。ただ、できないだろうと考えたらできない」
 鹿子は彼の言葉をまた頭の中で繰り返して、その意味をつかもうとした。

(信じればできるってこと?)

「おい、ぐずぐずしてる暇はないんだぜ。ちゃんとついてこいよ」
 数歩先から呼びかけられる。彼は大股で歩いていってしまうので、ついていくにも大変だった。

(もう、わたしは女なんだからねっ、そんな歩幅で歩けないのよ。一度ハイヒール履いて歩いてみるといいんだわ、女の偉大さがわかるわよ)

 外に出た最初から意識が別のところへ向いてしまったので、鹿子は雨が止んでいることに気づかなかった。雲は低く垂れ込め、雨が降っていないという方がおかしな感じだったが、雨は止んでいた。雷はまだ聞こえているから、しばらくすれば再び降り出すに違いない。
 緑はアイビーの他にも、ヘリオトロープやグロキシアのような花々、ユッカやバラ、シャラなどの木々がある。こうもたくさんの緑に囲まれると、名前を知らないのが残念に思う。知っていたら、もっと楽しめるし、もっと認識することができるのに。
 名前のわからない、大きな木を田久保祐司が左に曲がったのが見えた。
 緑を観賞しながらついていっているだけに、ただでさえ遅れている鹿子はもう半分諦め気味だった。道は通る分だけしかできていないようだし、大丈夫だろうと高をくくる。数十歩ほど遅れて鹿子も道を曲がる。すると、正面に白い塔がそびえているのが目に入った。といっても、場所が学校の屋上だけに、人の背の三倍ほどの細い塔ではあった。塔のように見えるだけで、本当は塔と呼ぶべきものではないのかも知れない。
 田久保祐司に聞いてみようとして、彼の姿が見えないのに気づく。

(しまった、見失っちゃった)

 鉄砲で撃たれたみたいに、どきりとして、突然のパニックに頭の中が白くなる。けれども、こうして塔が見えるのだから、彼の行き先はあそこしか考えられない。とりあえず、落ち着くことにして、深呼吸する。緊張に心臓はどきどきしているし、体は固くなっている。それでもどうにか気持ちがほぐれると、ゆっくりと塔を目指して歩き出した。

 少し前から、後ろを歩いてきているはずの連れの気配が遠いことに田久保祐司は気づいていた。しかし、今の彼には彼女に歩調を合わせてあげるほどのゆとりはない。打ち合わせの時間に少し遅れていた。それが彼を焦らせている。
 道は一本でここへ向かっているし、彼女は自分よりも頭はいいはずだから大丈夫だとは思った。それでも頭の片隅で不安を感じるのは、あいつが女で俺が男であるというところなのだ。仕方ないにしろ、あいつを見捨ててきてしまった自分に後悔している。
 なにしろここは夢の中なのだ。現実では考えられないほどばかばかしい危険がいっぱいある。けれど、今俺が間に合わなかったら、馬鹿らしい危険ではすまない事態になる。だから仕方ないことなのだ。そう自分にいい聞かせつつ、ここまで来た。

 塔の外壁に取り付けられた電話が鳴っている。それに気づくと彼は駆け足で電話に向かい、受話器を取った。
「少し遅れたな」
 佐渡教授からだった。恐縮して、相手には見えないと知りつつも姿勢を正してしまう。
「すみません。考えていたより時間がかかりました。事態はまだ動いていませんか」
「大丈夫だ。それより彼女はどうしているかな、私の緑をどう思ったかな」
「気に入っているみたいですよ。彼女は教授と趣味が合いそうな気がします」
 苦笑して答える。なるほど、教授がここへ電話をかけてきた狙いはこれらしい。
「いいぞ。今度ゆっくり私の緑に紹介してあげるとしよう。さて、もうこれ以上は時間の無駄だな。きるぞ。邪魔してすまなかった」
「とんでもありません」
 自分の言葉が耳に入ったか疑うくらいに、素早く受話器は下ろされていた。

 ほうっと溜め息をつく。どうやら間に合ったらしい。教授があんな話題を口にしたのもそのせいだ。壁に背をもたれてくつろぐ。急いだせいで足の筋肉が固まっている。大学に入ってから体がなまっているよな、と彼は呟いた。
 出し抜けに電話のベルが鳴る。今度は大窪教授に違いない。ぱっと受話器を取った。
「はい、こちら田久保……」
 いい終わらないうちに、向こうから話を切り出す。
「瀬尾です。こちらはスタンバイオーケイ。そっちはどう?」
「まだ田中が来ない。こっちは電話をつなぐだけだから、来たらすぐやる。こっちからまた電話するよ」
「そうか、なるべく早くと教授がいってる。あ、待って電話替わります」
「田久保君、先ほど佐渡教授から電話で聞きました。この晴れ間は後五分ほどしか続きませんから、雨が来る前に見つけてあげてください」
「わかりました。準備でき次第、連絡します」
「頼みましたよ」
 受話器を置くと、辺りを見回した。もう近くまで来ていて、姿が見えるかも知れないと思った。だが、それはやはり希望的観測というものらしい。少し歩き回るしかない、と決断して、来た道を引き返した。

 ここの緑はある規則に従って植えられている。塔への目印はユリの巨木で、それが遠くからこちらをうかがうものの目を塔から隠していた。だから、ユリの木を曲がるとすぐ近くに塔が現れるので誰もが驚く。ユリの木から塔までは蔓薔薇の群生地だった。季節的に今が盛りなので、目を楽しませてくれる。握り拳の半分ほどの花が、幾重にも先分かれした枝の先に咲いている。むせ返るような甘い香りも、たまに嗅ぐなら気分のいいものだ。普通の薔薇のように個々の花の形を愛でるのではなく、固まって咲く花のこんもりした感じがかわいらしい。
 質より量の花だな、と思う。きっとここら辺りではまっているに違いない、と田久保は推測した。ユリの木を曲がるまでは、彼女の気配を背中に感じていたのだ。男の自分でさえ、ここの薔薇には目を奪われる。彼女ならば、推して知るべしだ。

「田久保さーん」
 声が聞こえた。反射的に振り返る。
「田中っ。どこにいるんだよ」
「後ろのほうよ。棘にスカートが引っかかってしまって取れないの」
 冷静になって、いわれたところを捜すと、田中鹿子は少し先にしゃがみこんでいた。その場へ走る。
「なにやってんだ、見せてみろ」
 スカートの下のレース地に薔薇が絡まっている。
「破いたりしないでね」
 という彼女の注文を守るのに難儀したかが、ほどなくしてスカートは薔薇から解放された。
 鹿子はスカートを翻して、損傷がないか確認する。大丈夫のようだった。
「器用なのね。どうもありがとう」
 彼女は感嘆していった。実際自分でとろうとしていたときは、絡まりがひどくなりこそすれ、よくなりはしなかったのだ。破けたり、穴が開いたりするのを心配していたせいもある。
「お前が不器用なだけだよ。急ぐぞ、教授がもうすぐ雨が降り出すといってる」
 今度は鹿子の歩調に田久保は合わせてくれた。駆け足を命じられてはいたけれども。

 ここから塔まではすぐだった。塔の壁面に電話が据えられており、そこから左に回ると扉があった。田久保祐司を先頭に中に入る。薄暗かった。どうしてどこもかしこも薄暗いのだろう。誰かに聞いてみなきゃ、と鹿子は思った。右に階段があり、正面に扉がある。正面に進んだ。
 次の部屋は、コンピュータと電話ののった机があるばかりだった。田久保祐司はすぐにコンピュータを立ち上げ、電話をかける。
「もしもし、こちら田久保」
 相手がなにをいっているか、鹿子にはわからなかったが、電話の相手は教授らしい。短い会話を終えると、電話を切って、受話器をコンピュータにつなげた。
「よし、準備オーケイ。俺たちはここで見物だ」
「なにをしたの」

 田久保祐司は説明してくれた。
 鹿子がパネルに向かって作業している間に、隣の部屋では状況を分析していた。各部署からの情報と、過去のデータを比較して、パターンを出す。攻めてくる場所は毎回違うにしろ、動きにはある個性がある。それがわかれば敵の次の動きを推測することは可能だ。そういう意味で、まだ姿を見たことのない敵ではあったが、思考の輪郭は理解できる。しかし、今回の敵はいつもと様子が違っていた。
 学校の正門から、敵を偵察していた班から、妙な報告が入った。今日出現した窓の周りは晴れているらしいというのである。窓の向こうは青空が見え、そこから光が射している。窓の上空の雲は丸く穴が開いているというのだ。キーボードを操作して、窓付近の天気図を出す。確かに穴が開いている。その部分を避けるように雲は流れ、雨が降り、雷が打たれ、その部分だけに日が射し、晴れている。神秘的な眺めだ。大窪教授の提案で、ホールの中の気流が調べられることになった。ホールの中の状態がわかれば、学校の敷地大に拡大して、学校を包み込むことができるかもしれないというのだ。
 ただちに観測が開始された。そして、学校の上にホールの中と同じ気流をつくれると判断して、作業にかかったのだ。学校の敷地を八等分して、それぞれに一つずつ疑似気流発生装置を効果点の高い場所に設置する。発生装置は大窪教授の扱うメイン・コンピュータに接続され、更にそこから校舎の中にあるコンピュータに接続してコントロールする。田久保祐司の役目は、校舎のコンピュータとメイン・コンピュータをつなげることだった。

「……だから、後俺達のすることは、うまくいくかどうか見守ることだけさ」
 話の締めくくりに彼はそういった。なるほど、鹿子達が一番簡単な仕事をしているらしい。
 それにしても、と鹿子は考える。コンピュータの画面の明かりしかない部屋で、二人っきりって、変な感じ。夢の中で、ということを抜きにしてもよ。それとも夢の中だからこそ、田久保祐司の顔がわたし好みに見えるのかしら。その論理でいくと、彼にはわたしがちょうど彼の好みの女の子に写っているわけか。なにか複雑ね。田久保祐司には最初からテストの縁があるけれど、本当に彼は田久保祐司なのかな? 夢は無意識の意思の発現っていうじゃない、わたしの無意識の記憶から取り出されただけの虚像なのかも知れないでしょう。
 なにが本当で、なにが嘘なのか。そんなことを考えるのには、夢の中は不都合なのかも知れない。間違った答えが本当で、正解が嘘。考え方次第でどうにでもなってしまう。
「おい、田中。それ以上そんなことを考えるな。みんなを殺す気か」
 鹿子の耳に苦しそうな田久保祐司の声が聞こえた。いつものように考え事に熱中して、周りの声が聞こえなくなっていたらしい。
「えっ?」
「お前な、夢の中でみんなが虚構かも、なんて考えるな。お前はあの窓をつくっちゃうくらい力が強いんだ。みんなが幻じゃないかなんて想像されたら、俺達はお前の前から消されちまうぜ」


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