第2回
頭が麻痺したようでなにも感じられない。だって、ここは夢でしょう? いつでも目を覚ますことができるはず。論理的に物事が進まなくても、不条理な感じがしても当たり前の世界。鹿子の思考がどこか曖昧なのも、ここが夢の中だから。
黴臭い匂いのする階段を三階まで上った。外は黒雲に覆われて、雨が降り出している。彼女の前を歩く教授の傘は濡れていない。
(そうか、わたしたち雨の降る前にここへ入れたのね。どうしてこんな事もわからないのかしら)
建物の中は急に暗くなったせいでなんの明かりもついていない。ぽつぽつとある非常灯の赤い灯だけが辺りを照らしている。廊下の突き当たりを曲がると、二つ先の教室に明かりが灯っていた。光が廊下まであふれている。人の気配があり、時折光を遮って影を作った。がらりと扉を開けて中に入る。
「おお、やっと来たか。そっちは君の教え子か」
「ええ。なかなか優秀な人です。たった数回の授業でここまで来た」
「それは稀な存在だ。君も鼻が高いな」
そこで二人は笑い合った。
「皆さん、紹介します。田中鹿子君、新しい我々の仲間です」
教台の前に押し出されて、鹿子はなにをいっていいのかわからなかった。こういうとき、彼女はまともに話せないことをもどかしく思う。
「えっと、田中鹿子です。埼玉大学から来ました」
わき上がる笑い声。鹿子の顔が真っ赤になる。
(どうして大学名までいっちゃうのよ、聞かれもしないのに)心の中で自分を罵る。もう少し考えて話せればこんな失敗はしない、と思う。しかし、頭よりも口のほうが早く出てしまうのだ。
「すごい。素敵だ」
一番前の席に座っていた、同い年くらいのTシャツ姿の男が腹を抱えて笑い転げているのが、彼女の癪に障った。失礼な奴、と心の中で罵る。
改めて見渡すと、それほど大きくもない教室は半分くらいが人で埋まっていた。二十人もいなかったろう。そのうちの数人が教授のような先生で、残りは彼女と同じ学生らしかった。
「おい、おまえ、高校は神城だったか?」
目の前で笑い転げていた失礼な男は、今度は真面目な顔をして小声で質問する。いきなりなんなのよ、と思ったが、真顔の顔は存外鹿子の好みだったので、黙って頷いた。
「げえっ、じゃあお前、全国模試八位以内の田中鹿子か。なんだってそれが埼玉大学なんだ」
「よけいなお世話よ。……でもいっとくけど他の大学すべったからじゃないからね。わたしここしか受けてないもん」
「……なんて事だ。俺は絶対お前は東大狙いだと思ってたのに」
「なにそれ。第一あんた誰? わたしのことは知ってるみたいだけど、わたしにしてみれば気持ち悪いわよ」
「ああ、悪りぃ。知らないかも知れないけど、俺、田久保祐司っていうの」
(知ってるわよ、尻かじりの田久保祐司ね)
でも実物を見るのは初めてだった。鹿子にとって彼は、全国模試の順位表に出る名前で見知っているにすぎない。それがこうして名前を覚えているのは、彼は彼女の浮き沈みする順位のすぐ真下にしっかりついてきたからだった。
(あれは結構不気味だったわ、だって万年一位のすぐ下ならそうかとも思うけど、わたしの順位は定まる場所を持ってなかったのよ)
「知ってるわ。じゃ、あなたは東大に入ったの」
そう聞くと、彼は急に気弱な感じを見せた。その変化が劇的に見えたから、鹿子はまずいことを聞いたかしらと思う。ごまかさなくちゃと口を開こうとしたら、返事が返ってきた。
「そう、俺は東大に入った。……けどな、別に入りたくて入ったわけじゃない。俺が東大に入ろうと思ったのは、ようするにだな、お前もきっとここを受けるだろうと思ったからなんだ」
「なによ、それ」
しかし、田久保祐司は鹿子の言葉を聞いていなかった。堰を切ったように語り始めたのだ。
「俺はずっとお前を抜くことができなかったから、最初はお前のことがすごく嫌いだった。しかしあんまり長くその状態が続くと、人間は慣れを起こす。俺もお前の後ろにいることに慣れた。慣れると今度はお前に好感を持つようになった。逆転の発想だな。三年の最後の土壇場になっても、一番だったり六番に落ちたり二番に浮上したりしてるのを見るのが快感だった。それで、生身のお前はどんな奴なんだろうと興味を持った。最後の模試のときお前の第一希望が東大としてあったから、俺もそこを狙うことにした。なのにだ、どうしてお前は埼玉大学なんかに入ったんだ。俺はお前と同じ大学に入りたくてがんばったのに、捜してもお前がいないから愕然としていたんだ」
独白はいつまでも続いていきそうだった。制止の声がかからなければ。
「田久保君、君は結構抜けた男だったんだな」
佐渡教授がぼそりと感想を述べた。気がつけば、教室はしんと静まり返って、二人のやりとりを見守っている。
鹿子の顔がかっと火照った。すっかりここがどこかということを忘れていた。
田久保祐司は、彼の周りの者たちのからかいや、冷やかしの声に答えている。
「まあまあ、そのくらいにして、皆さん外を見てください。そんなことをしている場合ではないことがわかりますよ。ここはまだ安全だとしても、いつ結界が破れるか知れないのですから」
大久保教授が助け船を出した。一斉にその場の全員の顔が外を向く。真っ暗だった。つい先ほどまでの晴天はどこかへ吹き飛んでしまったらしい。いつの間にか降り出した雨が窓に叩きつけ、遠くごろごろと雷の音がする。外に植えられている木々はしなり、それは次第に力を持つようだった。 すべてが嵐の前触れを告げていた。しかも、嵐はすぐそこまで来ているのだ。雷は足早に近づいている。そうこうする間にも、ぴかりと辺り一面が光った。数秒の間をおいて大地を引き裂く音が響き渡る。
「こうしちゃいられない。戦闘準備開始だ」
誰ともなく呟きが漏れる。それを契機に皆立ち上がり、ばらばらと教室を出ていく。
呆気にとられて立ちつくす鹿子の手を田久保祐司が引っ張って、教室の外に連れ出した。
「お前はまだなにも知らないんだろ。とりあえず俺についてこいよ」
(そうはいっても、ね)
鹿子は目の端で大窪教授の姿を捜した。
「大窪教授なら、もう先に行ってると思いますよ。とろそうに見えて、素早い人だから。……あ、僕、瀬尾孝之っていいます。よろしく」
鹿子の不信に思った気持ちが顔に出たのか、田久保祐司の後ろを走っていた男は、最後に名を名乗った。
(それにしても、よろしく、か。わたしもそういうだけでよかったのよね)
非常灯が赤く灯っているだけの階段を駆け上がる。田久保祐司の話では、上の階に観測室というのがあって、自分たちの役目はそこで得られる情報を解析して仲間に知らせることなのだそうだ。その部屋の責任者が大窪教授で、そのほかにも作戦指揮を佐渡教授が受け持ち、後方指揮が遠藤教授、防御指揮が西村教授、衛生班に片桐教授がついている。
この五つのセクションがそれぞれの目的で建物の中を走り回っている。そして、敵と戦っている。敵? 敵ってなに? 一体なにが起きているというのだろう。ただ、大雨が降ってきただけではないか。
大窪教授は、この雨が降ってくることに最初からこだわっていた。この建物に入るときも、なにかおかしなことをいっていた。
(力とかいったかしら。そうだ、ちょっとした力だといって、鍵をかけたのだった。あのときはどうしてそんなことをするのか不安に思っただけで、その意味を考えなかったけれど、あれはどういうことなんだろう)
廊下を三回曲がった。次の曲がり角の手前に明かりのついた部屋がある。そこが観測室なのだろう。
廊下は部屋を通り越したすぐ先で、また曲がり角になっている。その先は闇の中だ。
(非常灯しかついていないなんて、経済的なのだろうけど、みんな怖くないのかしら。そりゃ目が慣れればそれなりに走ったりもできるけれど、恐怖心を押さえることにはならない。人間は、闇を嫌うのよ、少なくとも、わたしはそうだわ)
暗闇に慣れた目には部屋の明かりが痛く感じられたが、闇から解放されて、体から緊張感が去った。こんなに緊張していたなんて、今になるまでわからなかった。それとなく、田久保祐司や瀬尾孝之の顔をうかがったが、彼らもこの明かりの中に来てほっとしているようだった。
心に安堵するものを感じながら部屋を見渡す。二人はすぐさま、自分の受け持ちに散ってしまい、鹿子は一人所在がなくて入ってきた扉のそばに立っていた。
真ん中と左側に仕切が立ち、部屋を三等分に分けている。鹿子はちょうど左側に仕切られた部分の真正面に立っていた。そこはコンピュータや観測機器が並べられた机の他に、人一人が出入りできるほどの隙間しかない。その際奥に瀬尾孝之がコンピュータの画面に向かってキーを叩いている。軽快な音は彼が機械に慣れている証拠だ。
その隣は三つのうちで一番広く、ここからではあまり覗けないが、向こう側の壁に黒板があり、数字や計算式、図形などが殴り書きされているのが見える。床にはコードがガムテープで留めてあるのが見えるから、そこにも機械の類が置いてあるのだろう。田久保祐司はそこにいるはずだが、影が動くのが見えるばかりで、彼がなにをしているのかはわからない。
そしてなによりも、ここは緑があった。隙間があれば、観葉植物が置かれている。どれも青々として勢いがよく、きちんと手入れがされていた。
「……田中さん。こっちへ来て、手伝ってくれませんか」
教授が、部屋の右側の仕切の影からこちらを手招きしている。田久保祐司が一体なにをしているのかと思い巡らせていたために、気づくのが遅れた。
「はい」
短く答えて、そちらへ寄る。ついでに田久保祐司がなにをしているのか確かめた。 行ってみると、教授は入力ペンを持って、パネルに赤く点滅する光点を突いていた。ペンで突れたところは一定時間緑色に変わり、その後青色に変わって安定する。なにを意味しているのか見ようと身を乗り出すと、教授は顔を上げ、ペンを鹿子に握らせた。
「パネルの赤く点滅したところをそのペンでつついてください。このパネルはここら一体の地図です。青く光っているのがわたしたちの領域、オレンジ色が敵の勢力です。そして赤は交戦勃発を表しています。赤い部分を押さえることによって、天から稲妻をくりだすのです。一時しのぎにしかなりませんが、敵の威力をそぐことになるし、その間にわたしたちの味方が配置を整える時間稼ぎにはなります。やれますか」
「ええ。でも、敵ってどういうことなんですか」
とりあえずは教授が教えてくれたように、ペンを動かす。教授は様々に色変わりするパネルを見つめながら頷いて、数瞬沈黙した後口を開いた。
「現在、わたしたちのいる世界は夢と呼ばれている世界です。授業でも簡単に述べましたが、夢は無意識の心証の現れであり、それは個人の自我からの影響が主ですが、中には集団の無意識から発せられる心象や、ある特定のものから干渉されている心象があります。大抵は無害なもので、その人の考え方によって力の強弱があるくらいなのですが、最近、明らかに悪質と思われる夢が流行しだしました。わたしは自分の研究の中で、夢世界に自我とともに訪れる術を発見しました。こうしてここに存在できるのも、そのおかげなのです。そして、わたしたちはあの勢力を見つけたのです。……今のところ、あれが何者なのかわかっていません。しかし、あの勢力にやられ、精神の均衡が崩れた者、眠りから目覚められなくなった者がいるのです。見つけてしまった以上、そしてわたしたちしかあれを見つめている者がいない事情から、わたしたちはあの勢力と戦うことにしたのです」
説明を終えると、教授は鹿子がちゃんと理解したかどうか確かめるように彼女の顔を覗き込んだ。正直にいって、鹿子は理解できたとはいえない。教授も鹿子にすべてを理解してもらおうとは考えていなかったに違いない。彼は当惑の表情を隠す余裕もない彼女を見ても、あの例の微笑みを浮かべたのみだった。だから、鹿子が理解しているか見ていたのではなくて、鹿子がどう反応するのか見たかったに違いない。
「今はこれだけしか述べている暇がありませんが、今度ゆっくり説明する機会もあると思います。そのときまで、質問事項は保留にしておいてください」
彼女は了解の意志表示をした。教授は頷くと、後は任せました、といって、田久保祐司のいる隣へ姿を消した。
教授がいなくなって、鹿子はほっとした。
(今も教授が側にいたら、緊張してよく考えることができないもの。材料がそろってきたからには、わたしも考えなくちゃね。ゆっくり熟考してわたしの方針を決めるの)
目では赤い点滅を追いながら、鹿子は起こっている出来事を改めて見直し始めた。(まず、ここにいるのは教授のためらしいこと。あの窓はわたしがつくった。ここにいる人達は同じ目的を持って行動している。目的は敵を倒すこと。敵は夢を脅かす存在。誰なのかは謎。でも彼らは天気の形で侵略している。それに対抗する教授たちも天気を使っている。これにはなにか意味があるのかしら。それからあの蝙蝠傘の男。わたしが雨を呼ぶっていった。どういうこと、それって)
こうしてみると、なんだか出来事を羅列しているだけのような気もする。これじゃ前に進まない。なにか他にはないかしら?
でも、ここは夢の中なのよね。そう思うと、今まで考えていたことが馬鹿らしく思えて、くすりと笑ってしまう。
真面目に考えたって仕方のないことだ。だいたい考えるというそのものがおかしい、夢の中で夢の出来事を分析するなんて。そうだ、今どこの夢がどういう意味を持っているのか調べてみよう。よく本屋さんで見かける「夢診断」って類の本。前にフロイトの夢分析を流し読みしたけれど、あんな面倒臭そうなものではなくて、……もっと具体的なことよ。そりゃ、それなりにおもしろくはあったけど。
「なににやにやしてんだよ、不気味な女だな。さっきから声かけてんのにちっとも気づかないしよ」
「ええ?」
考え事に六十パーセント、パネルに三十五パーセントづつ神経を集中していて、他のことには気が回らなかった。
(いやだわ、わたしってばそんなに顔の筋肉が緩んでいたのかしら)
振り返ると田久保祐司がむっとした表情を隠さずに立っている。
「ご、ごめんなさい。考え事をしていたものだから。その、なにか用?」
「……そうだよ、用がなきゃ呼ばないぜ」
田久保祐司は罰が悪そうに顔を赤らめる。
「ちょっとばかり局面が変わったんだ。その仕事はもう終わりにして、俺と一緒に来てくれ。教授と瀬尾はもう先に行ってる。俺たちも急がないと時間が合わない」
頷いて席を立つ。入れ替わりに田久保祐司が席に座り、パネルを操作して、画面を終了させた。
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