雲の上の魚

第1回

 窓の内側から覗く空はとても青く見えた。気持ちよく、開いたノートを照らす日差し。
 教室の中は柔らかな光に満ちて、幻の中にいるよう。すべてがオブラートにくるまれた夢。瞼が重くなる。
 春先の生暖かい気候は眠気を誘い、必死に鹿子はそれと戦い……しかし、勝利することができなかった。

 夢の中で見た物は、マシュマロのような無数のクッションだった。鹿子はその上に身をうずめて横たわっており、なんともいえぬ幸福感に満たされていた。
 空はやはり青く……信じられぬくらいに青い……霞のような雲がうっすらとそこに貼りついている。それらを見つめているうちに瞼は重くなり、けれども眠たくはなかったので、目をつむったままとりとめもなく揺らぐ心に身を任せて身じろぎ一つしなかった。
 気持ちがいいのでいつまでもこうしていたい、と考えたとき、いずれともなくカラーン、コローンと重たく間延びした鐘の音が聞こえてきた。どこから、というのではなく、もうそこいら中から鐘の音はカラーン、コローンと聞こえてくる。
 高く、低く、重く、軽く、しかしうるさくはない。
 どこか音程のはっきりしない感じは、彼女の心の動きにも似て耳に心地よく響く。

 目をつむったまま鹿子は鐘の音に心を添わせ、響きを楽しもうとした。
 そうしてふっと気が遠くなったと感じる間に、教室の一番前の窓際の席で頬杖をついていたのだ。
 はっとした鹿子は、まず教台の前にいたはずの教授がいなくなっている事実に気づき、次に教室には自分一人しかいないということにも気がついた。頬を真っ赤にした、彼女はノートや筆箱をしまい、あわてて教室から飛び出す。

 まったく気づかないなんて、と鹿子は本当に恥ずかしい気がした。ぱたぱたと日陰の廊下を走り抜け、裏庭の出口を力任せに押し開けて外に出る。通い慣れた欅並木をお気に入りのベンチに向かって猛烈な勢いで歩き出した。すれ違う学生の視線も気にならなかった。それくらい気が舞い上がってしまっていたのだ。
 目的のベンチが見えてくると、それまで気負って歩いていた足取りもゆっくりになり、気分も落ち着きを取り戻した。腰かけて溜め息をつく。
 なんて恥ずかしかったことだろう。授業が終わったことにも気づかずに、眠り惚けていたなんて。誰か起こしてくれてもよさそうなものなのに。考えていくうちに、気持ちよく和やかな夢の余韻は鹿子のうちから完全に消え失せた。

 次週の授業、二、三日前から降り続いていた雨が上がって、久々に麗らかな日和だった。授業前の人影もまばらな教室の前の方の席に座って、アップル・サイダーをちびりちびりと飲んでいた鹿子は天気とは裏腹に憂鬱だった。

 ああ、今日はなんていい天気、最悪だわ。ほら日差しが真綿の布団みたいに感じる。始まる前からすでにうつらうつらしているようでは先が思いやられる。サイダーで胃を刺激しながら、今日こそは寝ないでいようと心に誓う。
 実は前回だけではないのだ。春の授業登録の日から、ずっと眠気に襲われていた。この授業のある日だけは、前日がどんなに悪い天気でもからりと晴れて、薄暗い教室の中でまんじりとしているにはもったいない気候となるのだ。そのせいか、授業に出てくる学生も少ないものだ。

 教室の窓から降りそそぐ日差しは、その反対側の壁に窓枠の影を映す。少し斜めに傾いた影は、目を凝らすと陽炎のようにゆらゆらと揺れて見える。水蒸気の蒸発がそんな風に見せているのだ。窓に据えつけてあるレースのカーテンが風になびいて、これが影の世界ではオーロラのように濃くなり薄くなりで幻想的な印象を与えている。飲んでいた炭酸のしゅわしゅわとはじける音がBGMとなって、それがよりイメージを強めた。
 かたや窓の外は、透き通るばかりのブルーで、その下をゆっくりと雲が横断している。まるで船みたい、と思う。空を渡る巨大な帆船。そんなものが本当にあったとしたら、船底はやはりあんな風に移動して見えるに違いない。そんな空想を頭の中で作っていたとき、前のドアが開いて教授が入ってきた。あわてて現実に立ち返り、今日こそはと気を張りつめる。教授は鹿子の顔を見て、少し微笑んだように見えた。
「授業を始めましょう」
 そう前おいて、教授は話を始めた。
「今日は眠りについてです。眠りには記憶の整理、または忘却の役割を果たします。もちろんそのほかにも体の調整を行うという仕事もあります。ということは、眠りの効果には調整、整備、記録の三つがあるということはもうみなさんおわかりになると思います。眠った後ですっきりとした感覚があるのはこのためなのです。そして時が立つうちにすべての機能の上に可付加がかかり、肉体や精神の受容量が満杯に近づいたときに人は眠気を催すのです。
 深層心理をイメージ化したものが、夢と呼ばれているものです。御存知の通り人の意識は、氷山の一角である個人の自我とその水面下の膨大な無意識とがあります。人は一晩のうちに夢を五、六回見るといいます。夢を見る睡眠をレム睡眠といいます。レムという言葉はラピッド・アイ・ムーヴメント、の略です。レム睡眠中の眠りは浅く、脳は目覚め、純粋にコンピュータとして働いています。世界のいかなるスーパー・コンピュータも脳と呼ばれる生きたコンピュータにかないません。
 ……少し、話がずれたようですね、夢の話に戻ります。先ほども申しました通り、夢は真相心理、すなわち無意識の現れです。無意識が自我に訴えかけるメッセージなのです。メッセージはあまりに抽象的で、解読するには直感に、非論理的な直感に頼らざるを得ませんが、そう思って夢を見るならば、なにか得るものがあるものです。意識集中の効果ですね。
 また夢は集団の無意識として、何人かの人と分かち合っている場合もあります。あるいは、何者かに干渉されている場合もあります。無意識の中で、人と人は互いに他人ではないという説があります。無意識というものは目に見えない地下の水脈のようにつながっている、というものです。ですから、蛇口をひねって出てくる水、地下水を汲み上げていることは個人の自我に当たるわけです。その奥の水脈は一つなのです。力あるものが水脈から個々の蛇口、つまり自我に向かって夢のメッセージを送るということ、それが干渉や融合といわれる夢です。私も以前からこの実験を手がけております。被験者を私の想像世界である夢の世界に案内し、他者との融合度、干渉がどのくらい受け入れられるのかを試しています。この実験の成果は、精神の健康をはかる医療の役に立つことでしょう。無意識の中で人は自分でもそうと感じぬくらい自分を素直に見つめられることが実験でわかっています……」

 ああ、どうしてかしら、こんな風に眠くなるなんて。今まで気がつかなかった、これじゃあまるで、教授が今話しているような……。

 目の前がくるくる回って、螺旋を描いている。教台に立つ教授もその背後にある黒板も間延びして、タオルを絞るような渦に飲まれていく。

 目の端にいた教授がちらりと鹿子を見つめて、笑いかけた気がした。

 ……さっきもあったわね、こんな事。

 教室はぐにゃりと回転して、壁に映る影の窓枠の中に吸い込まれていく。影の窓? 陽炎のような影の中、光を遮ってできた世界……そう、世界は常に対になるものがある。じゃあ、夢の世界はなにと対になっているのかしら? ……まさか、現実……。
 春特有の暖かい風の毛布にくるまって、彼女は巨大なクッションの上に横たわっている。風は彼女になにも考えるなといっているよう。猛烈な眠気と格闘して、鹿子はなんとか重い瞼を押し開けた。
 頭上の真っ青な空に浮かぶ窓。両端のカーテンがはためいてばさばさと音を立てている。窓の向こうには積乱雲がかかっていて、その間を魚が優雅に泳いでいる。
 おかしい、あの窓の向こうだけ、景色が違うなんて。何の支えもない空に窓がかかっていることにはなんの違和感も感じずに、鹿子はそのことが気になった。

「お嬢さん、もうじき雨が来ますよ」
 雨? こんなに晴れているのに。
 いつの間にか、黒い傘をさした男が鹿子を見下ろしていた。ビジネス・スーツに身を固めた、年齢不詳の顔立ちをした男は、無表情だ。
「どうして、雨なんか降ると思うの? それに降る前から傘をさしたりして」
「備えあれば、憂い無しというでしょう? 雨は来ますよ、お嬢さん。貴女が呼ぶんです」
 依然無表情のまま、男は話を続ける。

(……あら? この人に会ったことがあるような気がするけど、思い出せない)

「そんなところにいてはびしょ濡れになりますよ、さあ起きて。私の傘に入れてあげましょう」
 そういって、男は彼女の腕をつかんだ。
「やめて! 信じない、いえ、信じられないわ。あなたはなにをいっているの? 消えて! いなくなって!」
 まさか、本当に消えてしまうとは思わなかった。
 霧が霧散するように、男はかき消えてしまった。彼女は驚いて、男のいた空間を穴のあくほど見つめた。こんなに暖かな気候だというのに、背筋に寒いものが走る。
「嘘」
 なんだか気楽な夢の探訪者でいられなくなった気がして、心細くなった。

(夢なのはわかっているんだけど、もともとただの夢じゃない気がするのよね。だって、あの窓は、教室の窓だもの。わたしが描いた夢の世界。教授が来るまで考えていた空想)

「そうだったのか。どうしてあんな窓ができたのかと思っていました。貴女のイメージだったのですね」
 飛び上がって振り向くと、教授が立っていた。鹿子と目が合うと、頷く。
「貴女は優秀な生徒さんですね。一回も欠かさず授業に出てくれているでしょう。助かりました、なんの説明もしていませんでしたから。さあ、起きて、避難しなくては。雨が来ますよ」

(雨? さっきの人もそういっていた。じゃあ、本当に降るのかしら。空には気配もないのに。見も知らぬ男よりも多少は見知っている教授にいわれると、急に雨が降ってくる感じがするのは、ちょっと現金だとは思う。でも、それは仕方のないこと、誰だってそうだわ)

 教授の空色の傘に二人で入って、急ぎ歩きを始めた。
「あの、でもわたし、いつも居眠りばかりして、実をいえばほとんど聞いていなくて」
 なにか話さなければと思って口を開くと、ろくな事をいわないと鹿子は我ながら恥じ入った。もっと気の利いたことをしゃべればいいのに。まったくしどろもどろな事をいうのだから嫌になる。
「いいえ、貴女はちゃんと聞いています。ここまで来てくださる生徒さんはそうはいないのですよ。さ、あそこに学校があります。あそこまで天気が持てばいいのですが」
 そういうと、教授は気遣わしげに天を仰いだ。

 ごろごろと遠雷が聞こえた。まだ空は青かった。ただ少し空気がひんやりしてきた気がする。柔らかいクッションの上を急いで歩くのは、ちょっとした技術がいったが、すぐに慣れた。最初は教授の早足についていけなかったから、慣れるまで遅々として進まなかったのだ。
 遠雷は回数の上がる度に大きくなっていくようだ。つまり近づいている。背後には真っ黒い雲が覆い被さるように空を塗り替えていく。空に浮かんだ窓も、端を雲に飲まれていた。
 こんな事なら、ハイヒールなど履いてこなかったものを。踵の高さがあまりないのがせめてもの救いだ。普段は滅多に履かない靴なのだが、そういうものは都合の悪いときに必ず身につけているものなのだ。

 教授の指差した学校は、彼女の見慣れた学校ではなかった。赤煉瓦の敷地に緑の生い茂った、古びた建物。校門にはアイビーが茂り、学校名は蔦に隠れて読めない。木々の間を抜けると、思いがけない場所に壊れかけた扉があった。
 扉を開けて中に入る。二人とも入ってしまうと、教授は扉を閉めた。ノブについている鍵をかちゃりと回す。
 鹿子はその手元を見つめた。
「ああ、心配しないでください。これは敵の侵入を阻むちょっとした力なのです。貴女もすぐにわかると思います。教室に仲間が集まっているはずです。貴女はここまでなんの疑問も口にしなかったけれど、そこで説明します。……こんな事なら、貴女を連れ込まなければよかったと後悔しているんです。でももう仕方ありません、行きましょう」
 教授は一人で説明して、一人で後悔して、そして開き直って歩き出した。鹿子はただ頷いてついて行った。


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