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量子猫



 これは久しぶりに帰国した友人と飲もうということになって、待ち合わせのためのホテルのバーで聞きかじった会話だ。先程友人からバーへ電話があり、少し遅れると連絡があったので、わたしは、軽いカクテルを頼んで、酒がくるのを待っているところだった。

「……どこにもいない猫の話を知っているかい?」

 なんとなくミステリアスな気がして、わたしはこの会話に聞き耳を立てることにしたのだ。

「見るまでは、その猫はそこにいるのかいないのか、生きているのか死んでいるのかすらわからない。ただし見てしまったら、その猫は、かわいそうに、殺されてしまうんだ。……君はその猫を見る勇気があるかい?」

 すぐにこれが有名なパラドックスの猫の話だと察したが、話の趣旨が量子論ではないことにも気が付いた。
 返事は一間をおいてなされた。

「どうしても見なくちゃならないのかい。そっとして、ほっといてはあげられないのかな」
「でも、その世界には猫一匹しかいないんだ。ほっといたら餓死してしまうかも知れない。そうじゃなくても、寂しいじゃないか」
「寂しい?」
「その猫は孤独を感じるかも知れないだろ」

 その頃にはわたしも誰がこの話をしているのかわかっていた。わたしの座るカウンターの斜め後ろの座席だ。男が二人で酒を飲んでいた。

「でも、それで死ぬワケじゃない。食糧がないのは致命的だけど」
「お前は冷たいやつだな」
「そうかな。そもそもの最初から孤独だったら、自分が孤独だなんて感じないものじゃないのか」
「……確かに」

 答えられた内容に男は満足しなかったようだ。声には不満と、やりきれなさと、そして憐憫がこもっている。
 わたしも似たようなものを感じた。どのように生きてきたら、さらっとこのようなセリフを口に上らせられるのだろう。考えながら、カクテルを最後まで飲み干した。

「……だが俺はそういうのを見るとかまいたくなってくるな。だから俺はきっと猫を殺してしまうことを承知で猫を見てしまう。猫は死ぬ前に俺という存在を知ることができるかも知れない。──そんな俺をお前はどう感じる?」

 わたしが聞いたのはここまでだ。だから、相手がなんと答えたのかはわからない。
 会話に集中しすぎていて、友人が横に座るまで気づかなかった。
「おいおい、俺のことを忘れて一人で飲んでるなよ」
 友人は笑いながら文句を言った。




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