静かな夜だった。木の葉の散る音さえも聞こえそうな夜。晩秋の冷たく透明な空気に、世界は満たされていた。
空にはさざ波のような雲が幾重にも幾重にも動いていき、そのあいだを月が渡っていく。
「やあ! なんてきれいな月だ」
イシマカルの原っぱに、一人の男が横たわっていた。
男は、こっそりと病院から抜け出してきた若者で、これが初めてのことではない。
「お月さんが波乗りをしている!」
若者は、そっと呟く。
「また、やけに上手じゃないか!」
心の中身を口にするのは、彼が孤独だからだ。
それは、若者も充分に承知していることだった。けれども解っているからといって、なんの慰めにもならない。こうして、言葉を口に出してみるしか・・・・・・。
しばらく若者は、黙って月を眺めた。
こうしていると、体が芯から凍っていこうとするのが解る。夜中にこんなところで横になるには、世界はもう寒すぎる。けれども、彼にはそんなことも、もうどうでもよいことだったのだ。
ふいに激しく、彼は咳き込んだ。寒さのためではない。横たわったまま、体をくの字に曲げて、彼は咳の納まるのをいつものようにただ待った。
まだもう少し、大丈夫なはず・・・・・・!
しまいに血を少なからず吐いたが、それで発作は納まった。
それも、常のこと。
再び身を仰向けにおこし、荒くなった息が、白く染まる夜気を若者はぼんやりと眺めた。そうして、首筋に伝ってくる己の血を服の袖口で拭う。暗くて、服にうつった血の色は見えない。それを知ると、若者は、うっすらと微笑んだ。
「ああ、こんな、・・・・・・こんな夜に、俺は死んでいくのだ」
口にしてみると、長い時をかけて、固めてきた心が鈍るような気がした。
若者は、多分、今夜死ぬ。
それを悟ると、彼はベッドでじっとなどしてはいられなくなり、外へ出てきたのだ。
病院のうすっぺらな白壁とも、両親とも、思うように動いたためしのない体とも、今夜でなにもかもから解き放たれて、自分はどこへ行くのだろう?
この日を待ちこがれたときもあったけれど、今は、もう少しと思ってしまう、この心はどうしてなのだろう?
あと少し、あと少し、このまま月を見ていたい・・・・・・美しい月を見て・・・・・・。
ほう。
若者は、微かに息を吐く。
美しい月の光から、目を閉ざす。
それでも、冴え冴えとした月は、若者の体を照らし続けた。