「ねえ、あなた、御存知ですかな」
居酒屋で知り合いとなった紳士が、ふと話のとぎれたあとにそういった。わたしは目で先を促した。
「この宇宙には、巨大な振り子時計があるというのですよ。その振り子というのが、お月さんだというじゃありませんか。近頃の天文学者どもときたら、まるでお伽話のようなことを真剣に話し合っているのですな」
わたしはどきりとして、少しばかり身じろいだ。
なぜならわたしの職業は件の天文学者だからだ。というより、わたしの仕事は、その時計のネジを巻くことなのだ。
振り子時計の存在が知れたのは、もうずいぶん昔のことだ。気付いた者は少なかった。
しかし必然的に、次にネジを巻く者が必要なのは明白だった。不幸なことに振り子時計はネジ式だったので。
「お月さんが振り子だなんて、この現代に全くおかしな話もあったものです。地球は、太陽を巡り、月は地球を巡る。そういったことは天文学の常識の一つじゃなかったでしょうか? それが突然に、振り子だなどと。世紀末が近いせいでしょうかな」
紳士は、そういうと、手元のバーボンをちびりと嘗めるように飲んだ。
「そうですね。世紀末が近いせいに違いありません」
それは事実だった。ふとしたことから漏れてしまった振り子時計の話は、本来なら隠されているはずの事柄で、バレてしまっては、笑い話になるようし向けるしかない。
世紀末、またネジを巻く時期がやってきたのだ。
わたしは、飲み干してしまったグラスに新しいウィスキーを注いだ。一つ、大きな氷を入れ、軽く揺すって香りを楽しむと一口、口に含んだ。
芳醇な味わい。躰に熱い火がともるようだ。ウィスキーは、三、四杯目くらいから、劇的にうまくなる。水の甘さも、酒の苦みも、全てが絶妙に混じり合って複雑でまろやかな味をつくる。 ── 炎の味だ。
「南極の万年氷です。先日昭和基地にお勤めの方がお越しになって、みやげにおいていかれたのですよ。ロックや水割りには最高です」
店主がそう口をはさんだ。わたしは同意を示す。隣の紳士も頷いた。
「まずい水では、酒の味が台無しになりますからな。それくらいならストレートでいただいたほうがましというものです。今日の氷はやけにうまいと思っていたら、そういうわけでしたか」
上機嫌に躰を揺する。そろそろ紳士も酔いつぶれてきているらしい。わたしは曖昧な笑みを漂わせ、鷹揚に頷いた。
さて、間もなく時間だ。
腕時計に目をやり、時間を確認する。23:29。振り子時計の針が、重なるときがやってきた。今晩は満月なのだ。
わたしは密かに身構える。普通の者には、なにも感じないのだが、ネジ巻きの仕事をするわたしはもちろん、少し敏感な者にも、振り子時計の時間がきこえるのだ。
ぐらりと視界が傾く。ビリビリと空気が震える感じ。
頭の奥隅で「ぼーんぼーんぼーん……」と時計の音が響く。一種船酔いに似たものと思っていただければ、感じがつかめると思う。
慣れているわたしは、ただ、不用意に躰が傾かないよう注意を払えばよいだけだ。それだって、大したことではない。
振り子時計は、そうしてしばらく、わたしの生理を刺激していたが、始まったのと同様唐突にやんだ。
緊張が緩む。
紳士が、潤んだ目をこちらに向けた。
「……ああ、なんだか酔ったようです。時計の音が聞こえましたよ。懐かしい振り子の音でしてな。ここにはそんな時計はないですのに。おかしなものです」
しばし、紳士の心は、追憶を彷徨った。
「昔の時計は、今のようにすぐに壊れたりはしませんでした。ゼンマイ式で、わたしも子供の頃毎朝ネジを巻くのが仕事でした。毎日毎日、ネジを巻いたものです。時計は、そうして大事にされると、不思議と壊れたりはしないものなのですな」
わたしは賛同の意を示した。まったく、そのとおりだ。紳士と二人、かちりとグラスを鳴らし、中身をあおった。
ほどなくして、お開きになった。冷たい夜の空気に躰を冷ましつつ、わたしは家路につき、今日という日がまた無事に終わったことを宇宙に感謝した。