冷房機のきいた社内から、一歩外へ出ると、息詰まるような夏の夜気に、私は軽い眩暈を覚えた。「今日は早く帰ろう」などと思っていたことも忘れ、私は馴染みの居酒屋へ足を運んだ。
カシマイル通りにある居酒屋は、今夜も程よい人混みで、カウンターの空いた席に身を滑り込ませると、早速ビールを注文した。
「いらっしゃい、今日も暑いね」
店主の言葉と一緒に冷えたジョッキと黒枝豆の小皿が差し出される。
半分ほどを一気にあおると、生き返ったような心地がした。
落ち着いてみると、この世の店はいつもとフンイキが違っていた。なにか軽い緊張感みたいなものが流れている。なんだろうと思って、何気なく店内を見渡すと、なるほど、あれが原因に違いないと思われる存在に気が付いた。
カウンターの角の席に絶世の美女が一人で座っていた。皆、なにかをはばかってか、彼女の側には人気がない。馴染みの店の中にあって、そこだけがよそよそしく見えた。
「凄い美女がいるね」
私は店主に小声で声をかけた。
「彼女はヴェガですよ」とすぐに返事が返る。
「ヴェガ?」
思いがけない外国の名に私は少したじろいだ。
「なんだ、御存知ない。今日は……」
言いかけていたが、彼は他の客に呼ばれて行ってしまった。言葉をとぎらせたまま、謎めいた微笑みを残して。
私は途方に暮れた。
ヴェガ。少し気の強そうな名。私はまた彼女をチラリと覗き見る。
密かに彼女を伺うのはなにも私だけではない。彼女はその視線に気付いているに違いないのだが、見事なまでに自然な様子で無視していた。
彼女は、赤いカクテルの入ったグラスの口を指でなぞりながら、どこでもないどこかを見つめている。
彼女の連れは、かなり遅れているらしい。
カラン、と入口の扉についた鐘の音がして、スーツに身を固めた長身の男が入ってきた。私たちは一目でこれが彼女の待っている男に違いないと確信した。
ヴェガは店内のただならぬ興奮に気付いて振り返る。男と目があった。
「アル……」
彼女が呟いた。キッと男を睨みつける。
「遅れてすまな……」
言い終わらぬうちに、ヴェガは男に酒を引っかけていた。
「いつまで待たせるのよ。もう時間切れだわ」
やっと男が着いたばかりだったが、彼女は男を押し退けて店を出て行ってしまった。ぴんと張りつめた空気がふと緩んで、冷やかしの口笛が吹かれる。男は泰然とした顔でかかった滴をハンカチで拭い、彼女の料金を払うと、彼女を追いかけて店を出た。その様子が割合潔かったので、その場にいた男どもは皆一様に感心した。
「彼は?」
「アルタイルさ」
── アルタイル。やっと私は合点がいった。
今夜は七夕、年に一度の逢瀬の日だ。ここ数年は雨続きだったが、今夜は晴れている。
あっ、と思って私は時計を見た。
11時45分。
彼女の言う「時間切れ」とはこのことだったのだ。
私は人ごとながら、彼がヴェガに追いついて、キスの一つもしてやれる時間が残っていたらいいなと思った。