六 月


STORY BY 彩 都 


 右の耳たぶがチリチリと痛む。
 木曜日の朝八時、バス停に急ぎながら気になってしょうがない。
 三ヶ月前に開けたピアスの穴が膿んでいるのだ。
 つい先週までは何とも無かったのに、六月に入ってから急に穴は膿みだした。しかも今日は生理の二日目、下腹が鈍く痛む。
 この痛みを感じるとき、ついと赤く腫れ上がった自分の子宮を想像してしまう。
 新鮮なレバーのように鮮やかな鮮血に彩られ、大きく腫れあがり、てらてらと光る私の子宮。
 実物とはおおよそ異なるであろう痛みの原因を思いながら、重たい灰色の雲が垂れ込める空を見上げバスを待つ。
「もうそろそろ梅雨かしら?」
 雲の流れはなんとなしに速くなっている気がした。風は、水分を含んでいるかのようにのっぺりと吹いている。
 珍しく時刻通りに現れたバスは、私の体をその車内には抱えきれない程の『他人の体』と一緒に現実世界へと送り込む。
 埃と、バス独特の安っぽいビニール椅子と、溢れんばかりの人の匂いが、見えない水分に吸付き足元へと降りてくる。
 周りの人より頭ひとつ小さい私は、人でできた個室の中で匂いにまみれ、人でできた波にゆらゆらと揺られる。
 徐々に現実へ覚醒するいつもの時間…。
 でも、いつもと違う憂鬱な時間…。
 耳たぶはちりちり痛み、ほんのりと熱を帯びた。下腹は益々重く鈍く痛みだす。
 そして心の中は鉛でも抱え込んだように真っ黒く沈んで行く。
 心の奥がカリカリ音を立てている。言い知れぬ焦燥感と不安感が身体全体を侵食する。
 カタカタと食器がぶつかるような嫌な感覚が背中をそばだたせ、本当に自分のことが不安定に思え、涙が出そうな程の罪悪感が胸につかえている。

 プシューッ。と甲高い音がしてバスの扉がバタンと開く。終点でございます、お忘れ物のないようお気お付け下さい。
 団地から最寄駅まで四つほどの区間、1日に何度もこの往復をしているかと思うと運転手に同情のひとつもしたくなる。
 ぞろぞろと音を立て人がバスから真っ直ぐ駅の改札に吸い込まれて行く。
「まるで魚の大群みたい」その規則正しい流れに流されながらぽつりとそんな言葉が出た。
「ニシンの群れってこんなかしら?」そう思ったとたん身体がするりと流れから零れ落ちた。
 整然と進む日常から、突然自分だけがはじかれた。そんな感じだった。
 暫くすると改札には人がまばらになり、犬を抱えたおばさんが頼りなげに歩いていたりする。そして、また暫くするとバスから群れがなだれてくる。
 こんな光景を五回程立ち尽くしたまま眺めていた。視線の先に有る駅前広場の大時計は九時を回ろうとしていた。さすがにもう、群れはこない。
「あ、こんな時間…」
 言葉とは裏腹にそばにあったベンチに腰掛ける。
 無意識に右耳に手をやると、膿とも血ともつかぬ液体で濡れていた。
 どうしてこんなに絶望的な気分になるのだろう?
 どうしてこんなにも後ろめたさを感じるのだろう?

 どうしようもなく総てを諦めたような深い深いため息をついたとき、鞄の中の携帯がブルブルと振るえた。私はあのけたたましい機械音が嫌いだった。
「はい」
「あ、佳織か? 今何処にいんだよ」
 少し低い男の声が咎めるように言う。
「駅前のバス停…」
「は? なんだよ気分でも悪いのか? 今日は二人で朝イチにみんなに挨拶するって言っといたじゃないか」
「うん…」
 暫くの沈黙。先に耐えられなくなったのは男の方だった。
「…大丈夫か? なんか変だぞ、お前。今日は休むの?」
「ううん。これから電車に乗るわ。挨拶は午後でも大丈夫よね?」
「大丈夫だけど。あ、そうか今日は二日目か…」
 男はそう、一人ごちて無理はしないようにと、やさしく言い携帯を切った。
 佳織は携帯を鞄にしまってからまた空を見上げてみた。
 空は幾分雲が晴れていた(というより流されてしまったのかもしれない)。

「そうだ、私。あの人と結婚するんだった。だからこんなに……」
 こんなに……の後に続く言葉を飲みこんで、佳織は立ちあがり改札に向かう。
 はぐれたニシンが群れを追うように、佳織もまた現実世界を追って行く。
 そして、少しだけ戸棚に隠した紙切れの事を思う。
 精神科医から渡された「マリッジ・ブルー傾向のおそれ有り」という診断書。
 彼の知らない、私の秘密……。


おしまい

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