自閉症児者の「こころ」を自閉症児者自身が探し求める場
ーー高機能広汎性発達障害(高機能自閉症・アスペルガー症候群)への心理療法的接近からーー

中京大学助教授 辻井正次


1.高機能自閉症・アスペルガー症候群の子どもーー「普通の中の変わった」子どもたち


4.「自閉的ファンタジー」を抱えること

自閉性スペクトル(PDD)の子どもたちは共通して特有の自分たちの世界を持っているように思われる。こうした自閉的な世界に彼ら自身が入っていってしまった場合には現実の世界での他者との関わりはおこなわれにくく、人を避ける動きのようにとられる。もちろん、こうした世界を構成すること自体がきわめて早期の自我のおこなう防衛であり、それは母親との身体的水準での分離にともなう想像を絶する不安を覆うための殻として働いているというような見解も成り立つであろう(例えば、フランシス・タスティン(1991)等)。こうした見解こそは十二分に検討されていく必要があるが、本論考では紙面の都合上、そうした検討をおこなう前にまずより一般的に日常臨床場 面でよくみる現象面に近い部分に着目し、とりあえず彼らの世界をPDDであるということが判明した(診断された)際にすでに持っている世界という形で、あらかじめ彼らに備わっていたものとして仮に扱って、それを記述する試みをおこなう。そうした彼らの世界を仮に「自閉的ファンタジー」と命名し、彼らがもっているのはそうしたファンタジーに彩られた世界だとしてみよう。それらは発達水準ないし知的な能力によってその形態が異なるように思われる。

その初期の形態ではドナ・ウィリアムズが生き生きと示しているような非ー人間的・物理的環境内の視覚的・触覚的な刺激に同一化した世界のようである。これらは(感覚運動的な)常同行動や同一性の保持、独特の視行動のなかに華やかに見られる。これらは彼らの幼児期やあるいは重度の知恵遅れを伴う自閉症児者に極めてしばしば見ることができる。例えば、治療的関わりの上でも身体を使った単純な反復的遊びのレベルで関わる際に体験する。こうした世界は言語以前のものであり、彼らも十分には説明出来ないような種類のものであるようだ。また年長PDDでも全くなくなるわけではないようで、筆者の症例でも断片化したシンボル(その多くは身近なものの部分)を楽しそうに書いては教えてくれる女性がいる。あるいは、ボーリングの途中にふっと間があくと「よくわからない(説明不能の)こと」が浮かんで常同行動をしている青年がふっと浸る際の世界はこうした水準のものの時もあるように思える。次の段階での言語・象徴機能の獲得と関連してではあるが、そうした視覚的シンボルの一つとしてかなり早期から文字記号を書き連ねる者もある。

言語・象徴機能を獲得してからは、その形態は一連のことば表現やことばと連なる簡単なやりとりの反復的イメージが加わってくるように思われる。「独り言」はこうした表れであるように思われるが、高機能の場合には、「こころの理論」の獲得の前後でこうした「独り言」は人前ではしなくなっていくことが多い。自閉症・PDDでは想像力の問題があるとされているが、こうした反復的に展開されるファンタジーを劇化することについては、それを共有する他者がいれば、「〜って言って!」などと相手とのやりとりのなかで展開していくのはよくみられるように思われる。それはごっこ遊びのようにもみえるが、相互のやりとりでなく彼らのファンタジーそのものの劇化である点で異なる。従って、他者からのアイディアが柔軟にうけいれられて、ファンタジーそのものが構造的に変化することはすくないと思われる。

さらに、学校などでの学習体験が増して、また認知機能の発達を受けて、そうした反復的なやりとりのイメージは友人たち同士の面白かったことやテレビ番組やファミコンゲームの一場面、「おたく」的な興味の世界などのより構造化されたものに移り変わっていく。こうした内容になってくると、それは私たちも思い出し笑いをしたり「普通に」する空想と内容的には大差ないと思われる。しかし、その体験様式は大きく異なり、そうした自閉的ファンタジーのなかではかなり生き生きとそこでの反復的な体験を想起し、非常にリアルな体験をしているようである。そうした「リアルさ」自体が特徴的である。私たちの空想が現実的に生きる世界とは柔軟かつしっかりと距離がとれているのに対して、彼らの脆弱な「自分(自我機能)」はそうした距離感をとることを難しくしているようだ。

こうした自閉的なファンタジーが何故に重要であるかというと、相反するように思われる3点があげられる。1つはこうした自閉的ファンタジーに圧倒されて劇化しまうことなく、現実世界での現実的学習と自閉的ファンタジーとの切り分け(区別、明確化)が適応できることでもある。自閉 的ファンタジーはそうした意味ではよりよく現実に合わせていくためには有害なものであるともいえる。特に、現実のストレス場面に際して過去の記憶があたかも現実かのように想起される(タイム・スリップ現象)場合は、外傷的な記憶表象が「もうひとりの自分」を生み出したかのように、外傷的ファンタジーそのものが劇化されてしまう。こうしたファンタジーの劇化は一般常識からいうと排除されるものであるため、周囲が「そんなことをしてはいけない」というが止まらない。むしろ、(家庭であれば自分の部屋やトイレなど、学校なら放課中のトイレなど)そういうファンタジーに浸っていていい(時間的・空間的に限定された)場と現実的な場とを切り分ける(明確化・区別する)ことを学習することが大切である。しかし、こうした切り分けは徐々に進むと言うよりは、ある時から構造的に急速に進んでくるような感じを筆者はもっている。おそらくは「こころの理論」あたりの発達と関連しているのであろうが、他者から見てどうか、ある状況の中で自分がどうしたらよいか等を、自分のなかのファンタジーと距離をおいて、「自分」あるいは「こころ」の全体像のなかでとりまとめることが出来ていくようになるように感じさせられる。実証的研究でもPDDの「こころの理論」の獲得訓練に関する研究は概ね般化の困難さを示している。こうした「こころの理論」は他者との関係性の発達と密接に関連していると考えられ、それ自体の学習だけで何とかなるものではなく、他者との情緒的関係の発達が必要となるのであろうか。実際的には、現実的なトラブルへの対応を両親を中心におこないながら、子どもにむしろ心理療法という自閉的ファンタジーを積極的に受ける受け皿となる場があることで、先に述べた切り分けの作業は促進されていくように実感している。

2つめは彼らは自閉的ファンタジーの中で、あるいはそうしたファンタジーを共有する他者との関係の中で(「普通でも」そうであるように)自分自身の体験する内的葛藤を再現していくので、そうしたファンタジーに触れていくことはこころを癒すこと、つまり治療的なことであり必要なことである。しかし、最も早期の形態に付き合っていくことはかなりしっかりした治療構造と治療者のかなりの没頭(ないしはα機能)とが必要とされる。こうした没頭の中で彼らの象徴機能の獲得過程をみることも稀ではなく、ファンタジーの質が「もの」的なものから言語的なものに変換されるには、まずは人間的な関係の成立が必要なのであろう。それ以降の形態にある子どもについては治療的に十分に扱いうるものである。さらに、先の切り分け作業が現実との間で円滑にすすめば、ファンタジーを扱う場所と現実の場所との区別は彼らは十分にでき、きわめてユニークなファンタジックな遊びから、徐々に現実感を持った現実場面での葛藤の再現をうかがわせるような遊びへ、共通の(「一緒の」)話題をめぐって、「自分」のありようについて言葉によってやりとりしていけるようになっていける。こうしたなかでの心理療法的関わりは子どもの「こころ」を扱うことであり、それは情緒的な自己調整機能の発達に十分に寄与する。

3つめは最も重要な点だが、そうした自閉的ファンタジーにこちらが触れられることが子どもとの関係性を作りあげる上で非常に有効に機能することである。彼らのファンタジーに触れているときには、いつもは表情に乏しく他者とは積極的には関わろうとしない彼らが実に生き生きとした表情を見せる。友人も少なく学校でも孤立している青年が好きなアニメの話題になると目を輝かして、話題を共有しようとする他者に向けて数時間も語り続ける。こうした際の彼らの一方的な語り口はこちら側を圧倒し、うんざりさせるほどの迫力をもつ。それでも治療構造の中での枠組みは維持しながら、彼らの些末で、どうでもよいように感じられる話題に付き合っていると、彼らの「自分」という感覚がまとまりをもったものになっていくように治療者側に感じられるようになってくる。彼らにとって両親以外にも「自分の世界をわかってくれる人が居る」ということは彼らの自閉性を維持しながら脅かされずに他者とともに居られる感覚につながる。社会的な適応性が高い、つまり先にいった切り分けがうまくいっている場合は、彼らは現実的な場面では過剰に適応的に(機械的でさえあることもある)振る舞い、他者との話題の共有も乏しいが、ファンタジーを共有する他者の前ではむしろ人なつっこい姿を見せる。彼らの好きなこと、彼らの「こころ」につきあおうとする態度の前では彼らの「他者とつながれている」感覚を味わえ、それこそが彼らの発達援助の中核部分である。おそらく、こうした作業は行動療法的なオリエンテーションが強い治療家は「ラポールがつく」というシンプルな用語で説明し終え、その後に何をしたかを熱心に語るのであろうが、そうした「他者とつながれている」感覚を治療関係の中で育てていくことは視点を変えれば、現実の学習と同等に、症例によってはより以上に、いや決定的に治療的に重要でさえある。適当に「他者とつながれている」感覚が持てていることは、他者の中で「自分」が居られることでもある。この「他者とつながっている」という感覚は特に青年期以降の彼らのあり方を考える上できわめて重要で、彼らのファンタジーに没入する治療者との「つながれる」という感覚は日常的な信頼できる他者との間で関係性を十分に実感できていくための橋渡しの役割を果たすと思われる。これについては、両親面接などで子どもたちの行動について上記のような文脈での発達的意味づけ(翻 訳)をしていくことで、さらにそうした橋渡しの機能が有効に働くよう補完されていくように思われる。

こうした彼らのファンタジーに触れる場合の危険性について少し触れておきたい。PDD(高機能自閉症やアスペルガー症候群)の場合、精神分裂病と比較可能なくらいに「こころ」がナイーヴで、「自分」がうまく機能していない(自我が弱い)。彼らの自我機能の脆弱さについては、詳細は割愛するが、筆者らの心理検査(投影法)による研究成果でも実証されている。自我強度の問題のある患者への心理療法の危険性と同様に、アスペルガー症候群の心理療法においても、時に衝動性が高い症例の場合に治療者との距離感が近くなりすぎることで、一過性のタイムスリップ(杉山(1995))や憑依現象のような精神病理現象を示すこともある。こうした場合には、あまり精神病理の側面に注目することなく、(いったん落ち着かせてから)自我支持的に本人のできている側面を十分に指摘し、安定した「自分(自己像)」にまとめていく、あるいはそれを維持できるように配慮していくことが重要である。こうした意味では特に年長のPDDの場合、デューイ(1991)などの指摘に加えて、サリバン(1962)の修正精神分析治療論など精神分裂病の治療技法が参考になる。自閉的なファンタジーに触れながら、彼らのそうしたファンタジーが外傷的に働かないように抱えていくことが周囲の大人としては重要なことである。

また、特に幼児期から児童期の子どもで、心理療法において「まさに他者と[つながれている]感覚を得ようとする瞬間(時期)」に、現実場面でも周囲へのいたずらを頻繁におこない、他者と関わろうとしてトラブルになったりすることがある。そうしたトラブルが生じてきた際には現実に携わる大人たちの協力関係の中でファンタジーと現実との切り分け作業を繰り返しおこなうことが大切である。こうした「瞬間」は自他間での境界(自我境界)を一瞬脆くするように感じられる。しかし、こうした「瞬間」を越えてこそ本当に彼らが実感をもって(他者にも受け入れてもらえるような仕方で)他者と関係性をもてるようになれると思われる。

5.PDDの子ども、青年の集団場面での動き方

「他者とつながれること」、集団にいられること、集団で抱えられること 発達の当初から集団になじまないPDDの子どもたちを集めて集団にすること自体をナンセンスなように思われるかもしれない。しかし、近年、慢性精神分裂病者に対する集団心理療法が一定の成果をあげており、そこでの理論的な進歩がPDDの子どもたちの集団を考える上でも参考になる。小谷(1995)の提唱する精神分析的システムズ理論では、慢性の精神分裂病者の自閉状態に対して、自閉の殻を打ち破って集団活動をしようというのではなく、自閉状態にある個々の患者を自閉状態にある状態で小集団に状況のなかにおき、そこから集団のなかに居られるということを大切に扱っていくことで患者たちがグループに抱えられて、自閉の殻から他者との関わりへと出ていくとしている(モザイク・メイトリックス)。先にあげたように、PDDの青年たちは精神分裂病者と自我の脆弱性という観点で見た場合に一定の類似性をもっている。集団のなかに居ること自体が強い不安を喚起することはPDDの青年たちにとっても同様である。しかし、実際に集団心理療法的介入をおこなってみると両者の動きはかなり異なっている。その詳細については別の機会に譲るが、慢性分裂病者の方がグループのなかに居ることの不安は見るからに強いが、他者との関係においては一定の距離感をもてている。PDDの青年たちは自分の好きなことを考えていたりしてそうした自分の世界(ファンタジー)に浸ることで集団からの不安はあまり意識化しないようである。しかし、自分たちの興味ある話題についてはマニアック(「おたく」的)な知識もあり熱中して語るが、他者の興味に付き合うことは苦手で、興味の題材を数人で話し合う感じで、それ以外には他者の話をあまり聞いていない。こちらがリーダー役割をとると、それがあたかも学級会のように構造化したやり方ならまるで小学校の学級会のような口調で話し合いが成り立つが、そうでないと何かを決めたりしようとするとリーダー役割にあるこちら側に対して、皆が各々別々の仕方で「つながろう」とするので、こちらの方がふっと(おかしくなりそうな)わけがわからない感覚にふれる。彼らは他者とつながりたいという強烈な欲求があり、一方で他者との関わりを避け、自分のファンタジーにいてしまう。リーダー役割の治療者と個人的につながれているという感覚が基本的にあり、そこでは自分のファンタジーが尊重されるならば、彼らにとっても集団のなかに居ることは快いものであるようだ。彼らは喜んで集まりたがる。そして、徐々に集団としての凝集性を高めていける。

より低年齢の学齢期の子どもたちの場合も、集団の場であるアスペの会には最初は参加したくなく戸惑う。しかし、2回目からは皆喜んで参加する。学校のように自分の空想的世界を限定させ、皆と同じようにすることを暗黙のうちに期待される場合は混乱してしまっても、1対1で相手をする担当スタッフが基本的に彼らの世界を尊重しながら、ある程度構造化された設定課題(学習課題)を体験したりして一日を過ごしていく。こうした内容についての詳細は紙面の都合で割愛するが、初めは自分の世界での遊びに担当スタッフを付き合わせたりすることが多い子どもたちも、慣れるにつれて高学年の子どもたちは担当スタッフに手伝ってもらいながら、彼らだけで野球やサッカーをするようになる。ルールはなかなか把握しにくいようだが、日頃の学校生活では排除されることが多いこのだが、そこでは集団の中の一員であることを喜べている。彼らの内的世界に十分に付き合うことで、彼らにとっての他者とつながる実感ができ、そうした感覚のもとではかなり適応的に振る舞うことも可能である。一方で、こうした変化には、彼らが日常の学校生活で適応的に過ごせるような介入をかなり積極的に学校においておこなっていること(彼らの個性を多くの関係者に理解してもらうこと)、それに加えて、「こころの理論」の獲得などの認知的な発達的変化が背景にあることも付け加えておく。こうした関連性についての実証的なデータは別の機会に譲る。

6.おわりに:

PDD(高機能自閉症やアスペルガー症候群)への心理療法的接近自体は長年の実践の蓄積がありながら、一方である意味で始まったばかりの課題であり、今後の研究と実践の双方の発展が待たれる。PDDの青年の在り方をみていくと、そこには自分たちのユニークさを自覚しながらも自分たちの「こころ」を、不安に揺るがされて持て余したりもしながら、しっかりと探し求めていく姿がある。心理療法の場はまさしくそうした彼らが彼ら自身を探している場でもあるのであろうか。紙面の都合もあって、症例報告や実証研究の成果の紹介は大幅に割愛した。その点については、別の機会に譲りたい。(なお、この論考はメンタルヘルス岡本財団からの研究助成(代表:杉山登志郎静岡大学教授)をうけた実践研究の成果の一部をまとめたものであることを付記しておく。)


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(つじい・まさつぐ 発達臨床心理学)