性的少数者の人権
性的少数者の人権
LGBTという言葉を聞いたことがあると思います。LGBTは、現在、性的少数者(セクシュアル・マイノリティ)を表す言葉として使われています。LGBTのLはレズビアン(女性同性愛者)、Gはゲイ(男性同性愛者)、Bはバイセクシュアル(両性愛者)、Tはトランスジェンダー(トラスセクシュアル、トランスヴェスタイト等)を表す頭文字です。LGBTとひとまとめにすることが多いのですが、その内容を考えると、「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル」と「トランスジェンダー」は分けて考えた方が良いと思います。
現在、LGBTという言い方が新聞やテレビ等でも、よく使われるようになりましたが、後でも述べるように、本来のLGBTという言葉が指す対象(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)は、性的少数者の一部です。そのため、正確に言えばLGBTという言い方で「性的少数者」を表してしまうことには、問題があります。むしろ、現在は、LGBTではなく、SOGI(ソジ)という観点で性的少数者を理解することが必要なように思います。
SOGIとは、SO(Sexual-Orientation(性的指向))とGI(Gender-Identity(性自認))の英語の頭文字を組み合わせたものです。性的指向とは、自分がどのような性の人に心を引かれるかということであり、性自認とは自分はどのような性であると思っているかということです。ここで重要なことは、どちらも「どのような性」であって、女性と男性の「どちらの性」ではないことです。さらに、性的指向も性自認もあくまで「程度(グラデーション)」の問題であって、「女性か男性」の二者択一ではないということが重要です。
先ほど、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)ではなく、SOGI(ソジ)という観点で性的少数者を理解しようとする方が望ましいというような言い方をしたのは、LGBTが、従来からある「性的少数者は特別な人たち」というとらえ方に結びつきがちであるのに対して、SOGIはすべての人を、さまざまな違いはありながらも「同じ人」としてとらえることを可能にするからです。人権という観点からすれば、SOGIの方が好ましいことになります。
ちなみに、現在、「人の性」というものは、1 生物学的な性(体の特徴、遺伝子等)、2 性的志向、3 性自認、4 性的表現(どのような服を着たいと思うか、どのような振る舞い(言葉づかい、しぐさ等)をしたいと思うか等)の4つの観点でとらえることが基本になっています。もちろん、それぞれの中身は、「男/女」の2つに分かれるものではなく、さまざまなグラデーション(程度)を持つことになります。
性的少数者の人権は、実は、女性の人権と深く関わるところがあります。具体的な例としては、1970年代のアメリカにおいて、女性の人権活動家(フェミニスト)たちが、トランスジェンダーを、フェミニズムの敵として攻撃したことがありました。トランスジェンダー(特に、遺伝子的には男性だが性自認は女性の人たち)は、女性らしさを身につけようとしている点で、女性らしさの呪縛から逃れようとするフェミニズムの運動の方向に逆行するものあと考えられたこと。また、遺伝子的に男性であるにも関わらず、そういうトランスジェンダーがフェミニズム運動に加われば、「本物の女性」の活動の足を引っ張ってしまうだろうと考えられたことが原因です。
このような主張が行われたことは、今から考えれば信じられないようなことですが、実はこのような問題は今後も起きる可能性があります。社会的に女性とされている人たちが、人には「女性か男性かの2つしかない」と考え、「女性であること」とは、「生物学的に女性であり、性的志向が男性であり、性自認が女性であり、性的表現が女性である」ということだと考えるならば、同じような問題はまた必ず起きてきます。
また、1970年代のアメリカでは同性愛者の一部からも、トランスジェンダーへの攻撃が行われました。彼らの主張は、同性愛者は私的な空間で同性と性行為を行うだけなので、社会から非難される理由(社会的な問題)はない。それに対して、トランスジェンダーは、外から見て一目でわかるので社会的に問題だというのがその主張でした。これも今から振り返れば、信じられないようなことですが、実は同じようなことが、姿を変えながら今後も性的少数者の中で起こりうるとわたしは考えます。
先ほども延べたように、LGBTは厳密には性的少数者の一部しか表しませんが、現在、LGBTという呼び方で、性的少数者を表すことが定着しています。そして、このLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)のうち、「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル」と「トランスジェンダー」は異質なものです。例えば、「社会的に男性とされていても、自分自身の性を女性ととらえている人(性自認が女性)」である場合(MTF)も、どういう人に性的にひかれるか(性的志向)については、「男性と女性と両性」の3種類があることになります。また、そもそも性的少数者を分類しよう(分類できる)という考え方そのものにも問題があることは、よく考えてみればわかることです。性自認も性的志向も、すべてグラデーションであって、どこかできっちり線を引けるものではないからです。あくまで、それぞれの特徴や性質は「程度」の問題であり、さらに、性自認も性的志向も時間とともに変化することもわかっています。つまりは、性的少数者と性的多数者という区分そのものが、本来、できない(両者は連続している)ことであるということをよく踏まえて、「人の性」を考えるべきです。
話が少し脱線しますが、差別について考える場合は、差別する者と差別される者との間にある「違い」と「共通性」の両方をとらえることが重要になります。性的少数者については、これまで性的多数者との「違い」を強調することが多かったように思います。具体的には、「同性愛なんて趣味や嗜好の問題だ。だから、すぐにやめて多数者に合わせろ。」というような非難に対して、「趣味や嗜好ではない。性的少数者は性的多数者とは、生まれた時からあきらかに違うんだ。」というような主張が行われてきました。しかし、このような主張は、一方で少数者を多数者とははっきり違った存在だとしてしまう可能性があります。違いを強調する一方で、連続性(共通性)も強調する(「誰にでも女性的な要素と男性的な要素はある。」とか、「誰にでも同性愛的な要素はある。」というような見方)も重要になってきます。特に現時点においては、後者の見方が重要になってきているように思います。
話をもとに戻しますと、わたしが見るところでは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルとトランスジェンダーの間にも、溝があるように思います。前者は自分と同じ性自認の人に(も)ひかれるという点で理解し合えるし、異性愛しか認めない社会に対して、共同で戦うことができます。これに対して、社会的性別と性自認のギャップまたは対立を抱えているトランスジェンダーのつらさというものは、たぶん異質です。
さらに、わたくしは、性的少数者の中でもっとも異質と呼びうるのは、ノンセクシャル(無性愛)とか、アセクシャル(非性愛)と呼ばれる人々ではないかと考えています。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルとトランスジェンダーの人たちも、性的多数者である人たちも、性愛の世界に住んでいることには、変わりがありません。その結果として、ノンセクシャル(無性愛)とか、アセクシャル(非性愛)と呼ばれる人たちは、性的少数者と呼ばれる人の中でも、さらに少数派の、異質な存在ということになります。もちろん、実際の性愛のあり方はすべてグラデーションですので、ノンセクシャル(無性愛)、またはアセクシャル(非性愛)的な要素も、実は誰の中にもあるわけです。しかし、一方で、ノンセクシャル(無性愛)、アセクシャル(非性愛)な人を、どう考えるかは、性愛を考える上で相当、根本的な意味を持つはずです。つまり、それはジェンダーを代表とする現在の人間の社会を作り上げている「性愛的なもの」(家族制度等)自体を、問い直すことになるからです。
ここまで考えてくると、「性的少数者の人権」という観点と「女性の(または男性の)人権)」という観点が、実は両立しないものであることがわかってくると思います。「性的少数者の人権」という観点は、人間の性はグラデーションであり、分類はできないという考え方を基本としているのに対して、「女性の(または男性の)人権)」という観点は、人間の性は女と男の二つだ(このような考え方を二分法とか二項対立的な考え方と言います)という考え方を基本としているからです。