「能力主義者」について
「能力主義者」について
生きている一人の人の性質や行動は、数限りないさまざまな面や意味を持ちます。どのような観点からその人やその行動を見るかによって、さまざまな評価が成り立ち、それぞれの評価の結果はすべて違ってきます。そう考えれば、本来、人やその行動というものは、評価できないものだということになります。ところが、実際には一つか二つの観点で、その人やその行動が評価されます。そして、多くの場合、その評価は数値化され、その数値によって人は序列化されます。典型的な例は、学校の成績やスポーツの勝ち負け・順位です。数値化するためには、計測できるものだけ、目に見えるものだけを評価しなければなりません。そして、目に見えるものだけを問題にする人は、必然的に「能力主義者」になります。
目に見えるものだけを問題にし、ある限られた観点から人々を見ていけば、生まれた時から人はそれぞれみんな能力が違い、その点では平等ではないことになります。スポーツの能力がその典型ですが、よく考えてみれば、学習の能力にしてもまったく同じことです。そもそも、生まれた時に差がついている(スタートラインが違う)人たちを、「公平に」競争させて、序列(成績、勝ち負け)をつけていく。このような考え方(やり方)に基づけば、あることについて人より劣る能力の人(例えば、聴覚障がい者)は、そのことについて、人より勝る能力の人より、給料が安くていいことになります。一方ではそれとは逆に、障がい者は、できないことがあっても、それ以外の他の人よりも高い能力の分野を自分の中に探してそれを生かせばいい。それが自分の「個性」を生かすことだとする考え方も出てきます。ただ、障がいのある人もない人も、自分の中に人よりすぐれた分野の能力を探せと言われても、ふつうはそんなものはなかなか見つからないのが現実です。
このような考え方をする「能力主義者」は、そういう現実を前にすると、結局、能力の低い人間(たとえば、成績の悪い生徒、いいプレーのできない運動クラブの生徒)もいるのは事実だからそれは仕方がない。しかし、能力が低いままそこに自己満足しているのはおかしい、それは怠慢だ。みんなも迷惑だ。せめて、より良くなろうとする「努力」くらいは見せろという主張になっていきます。このように「能力主義者」は、「努力第一主義者」になります。もちろん、当然のことながら、努力したところで多くの場合、もともと勉強のできる生徒、もともと運動のできる生徒には及ばないのが現実です。それを現実として認めた上で、能力を高めようと「努力した気持ち」だけは評価してやるからがんばれというのが、「努力第一主義者」たちの考えです。そのような考え方の根底にあるのは、実は、自分が所属している序列を守りたい気持ちと、その序列から外れそうな人に、序列の価値を認めさせ、序列の中(の低位)に組み込まれることを受け入れさせようという意思です。
「能力主義者」の考え方を一言で言えば、「100点取ったら愛してやる」(Prado代表、足立氏の表現)ということになります。相手が自分が指し示した条件を満たした時だけ、相手を(自分と同じ)人間として認める(相手の人権を認める)という考え方です。結果として、このような考え方があらゆる人権侵害や差別を生んでいます。繰り返しますが、人権を認めるということは、「無条件」に認めるということです。あの人は○○な人だから、人権を認める。あの人は○○な人ではないから、人権を認めないということは、論理的におかしなことです。人権尊重の考え方を、「わたしはこれでいい。あなたもそれでいい。(I’m OK.You are OK.)」と表現することがありますが、ここで言われていることは、わたしもあなたも、無条件で(ありのまま、そのままで)「いい」ということです。逆に言えば、このことが納得できない人は、「能力主義者」です。「能力主義者」は、人とその行動は無限の性質と無限の局面を持つのに、あえて目の前の人とその行動を、限られた(目に見える、自分にとって都合の良い)観点からだけで捉え、人を評価し序列化します。そして、ある基準から下の人、ある基準から外れている人は、「自分と同じ人」という扱いをしない(馬鹿にする、見下す、非難する、攻撃する、つき合わない、差別する)で良いと考えるのです。
京都大学の出口康夫教授が、新聞のインタビューに答えて、「近代社会は、人間を『できる』ことの束としてとらえ、『できる』ことに人間の尊厳を見いだし、自分のことを自分で決めることが『できる』という自己決定を倫理や法の根本に置きました。」、「百八十度転換し、人間は『できない』ものと考えることから出発しようと私は主張しています。」と語っています。(2020年10月15日毎日新聞)
この発言を読んで、「○○ができる人」が、「よい、すばらしい人」で、「○○ができない人」が「人に迷惑をかけるダメな人」という考え方自体を、ひっくり返す必要があるのだろうと感じました。