日本社会の特性

さまざま規模の社会や集団(国家、都道府県、区市町村、地域、学校、友だち関係等)を、ひとまとめにして「共同体」と呼ぶことにします。共同体を構成しているのは、もちろん個々人です。人間の社会は、大きく二つのタイプに分けることができそうです。Aタイプは、個人の都合よりも共同体の都合を優先するもの、Bタイプは、個人の都合を共同体の都合よりも優先するものです。もちろん、これはあくまで程度の問題で、どちらかの都合ばかりが優先されて、他の都合は無視されるということでは、その共同体はふつう成り立ちません。歴史的に考えれば、本来、人間の共同体はAタイプであったと考えられます。そのような社会では、共同体の意思(あくまで比喩的な意味でですが)と個人の意思は明確に区別されてはいません。近代になるまでは、そもそも「個人」という概念、「個人」という意識自体が存在しないわけですから、必然的にそうなります。「個人」という意識や概念が生まれたのは、近代ヨーロッパにおいてです。そして、「個人」というものが生まれる(または、発見される)と同時に、対立する個人と個人(「個人」という概念は、鈴木さんと山田さんは、違う人間であり、違う考えや欲望を持つということと一緒です。その結果、違った考えや欲望を持つ者は、必然的に対立します)がどうして、共同体(国家等)をつくれるのかという問い(謎)が生まれます。この謎に対する一つの答えが、ホッブズやルソーが出した「社会契約論」になります。


日本人がつくっている社会は、AタイプかBタイプかと問えば、ほとんどの日本人は、Aタイプだと答えると思います。Aタイプである日本人の特徴がよく出ているのが、「人に迷惑をかけるな。」という考え方です。子どもを育てる時に、「とにかく、人に迷惑をかけるようなことはするな。」と言って育てたという話はよく聞きます。しかし、よく考えてみると、「人に迷惑をかけない」というルールは、実は道徳的(倫理的)なものをほとんど含んでいません。どの社会にもある基本的な道徳の一つと呼べそうな「困っている人を見たら、助けてあげよう。」と比べるとその違いは明らかです。「人に迷惑をかけない」というルールは、ひっくり返すと、「人に迷惑をかけなければ、何をしてもいい。」という理屈になります。さらに言えば、困っている人、人に助けてもらわなければ、生きていけない人は、結果的に人に迷惑(めんどう)をかけることになりますから、本来、助けなくてもよいし、本人のためにはむしろ助けてあげない方がいい、非難されてもいい人になってしまいます。そうなると、「困っている人を見たら、助けてあげよう。」という道徳的な考えと、この「人に迷惑をかけるな」という考え方は、むしろ対立してしまうのです。


「人に迷惑をかけるな」というルールは、周りの人に非難をされるようなことはするなということです。自分が所属する集団の人々が、不快に思うようなことはするなということです。そのためには、あらかじめ自分が所属する集団の人たちが、どのような考えを持っているのかを知っていなければなりません。あらかじめ自分が所属する集団の人たちが、どのような考えを持っているのかを知って、それにそった行動を取ることが、良いことで、それに逆らうような行動を取ることが悪いことだということになります。自分が所属する集団の人たちの考えが、本当は正しいのか、それとも間違っているのかということは問題になりません。そこには、「困っている人を見たら、助けてあげるのが善いことだ。逆に、困っている人に気づいても、気づかないふりをしたり、助けなかったりするのは、善くないことだ(悪いことだ)。」というような善悪の基準に基づいた変わらない行動の指針のようなものはありません。また、自分が所属する集団の考えが、今までのものとは変わってしまった時も、今と昔とどちらの考えがより良いのか(善いのか)は問題になりません。今の考えを知って、それから外れないようにすること、合わせることが良い(善い)ことなのです。このような日本人のあり方が、現在、「同調圧力」と呼ばれるものを生み出すことは容易に理解できます。


このような日本人のあり方は、この章の最初に述べたAタイプの典型的な例の一つであると言えるでしょう。ここでひとつ確認しておきたいのは、わたしはAタイプよりも、Bタイプの方が正しいとか、優れているとか考えているわけではないということです。世界中のすべての人や国が、ヨーロッパのような近代化を進めなければならない、それが人間としての進歩なのだとは考えません。それぞれが、欠点や問題点を含んでいるのです。ただ、当然のことですが、日本型のAタイプの問題点をいくつか挙げることができます。一つの問題点は、日本人の場合、自分の所属する集団が持っている考えや価値観というものが、実際にはきわめてあいまいで、はっきりしていないということです。「人に迷惑だけはかけないように生きよう」と考えても、なにが迷惑で、なにが迷惑でないかは、きわめてあいまいです。結果として、自分はだれにも迷惑はかけていないと思っている人が、結構、周りの人の迷惑になっていることはよくあることです。逆に、本人は周りの人に迷惑をかけているから恥ずかしいとか思っているのに、周りの人は気にもしていないということもあります。「人に迷惑をかけるな」の変型版として、ここ何年か言われている「空気を読めよ」という言葉がありますが、ここで言われる「空気」の中身は、実はきわめてあいまいであり、結局、言っている本人も言葉にできないものです。だからこそ、「空気」とか、「読む」とかいうつかみどころのない言い方が使われるのです。その証拠には、「空気を読め」と言っている人たち同士が、本当に同じものを「空気」として読み取っているのかどうかは、問題にされません。実際には、「空気を読んでいない」と感じられる言動をしている人への違和感や、非難の感じだけで、感情的につながりあっているのです。ここで問題になっているのは、「こういう場合は、こういう言動をするべきだ」ということではなく、「今、この場にいる人は全員、こういう言動をすることを期待されている(または、禁止・抑制されている)ということを読み取って、それに沿った言動をせよということなのです。その結果、どのような場合にも一定の行動を取ること(「困っている人を見たら、助ける」)が重要ではなく、その時、その時の周りの人の心の動きに気分的に合わせることが重要になってしまうのです。


ここから、日本型の行動の仕方の二つ目の問題が明らかになります。自分が所属する集団の人々の思いや考えがこういうものだろうということは、今述べたようにきわめてあいまいであるために、結果として、各自が勝手に自分の解釈を「正しい」解釈だと思い込みがちだということです。「世間がそんなことは許さない」というような言葉は、「世間」という言葉は使っているものの、その「世間」の考えや価値観は、「わたしが考える世間」の考えや価値観ですから、結局、「わたしはそんなことは許さない」ということとほとんど違いがありません。つまり、本人は「世間」に合わせているつもりでも、実際は、自分の中にある「こうでなければ」という考えや価値観に自分や目の前の人を従わせようとしているだけのことになります。


しかし、このような考え方は必然的にそういう考えを持っている人を苦しめます。「人に迷惑をかけるな」と人に言い、自分にも「人に迷惑だけはかけないぞ」と言い聞かせている人も、人が人である限り、実際には生まれた時から死ぬまでの間、ずっと人に迷惑をかけなければ生きていけないからです。「子どもや年寄りはそうだろう、しかし、自分は親からも独立し、自分で稼いでいる。家族も養っている。老後のために、貯蓄もしているので、子どもの世話にならなくてもいいはずだ。だから人に迷惑はかけない。」そう思っている人もいるでしょう。しかし、夫婦関係だけを考えても、パートナーに何の負担も迷惑もかけていないと言い切れる人はいないはずです。(もしいたら、それは相当思い込みの強い人で、その点だけでも周りの人には相当迷惑をかけているはずです。)いろいろな意味で負担をかけ迷惑をかけ、助け合って初めて人は今日一日を生きることができるのです。そういう意味で、「人に迷惑をかけずに生きる」ということは、原理的に無理なことです。結果として、自分が人に迷惑をかけて生きている現実に目をつむる(相手は、そのくらいして当然だ)と考えるか、人に迷惑をかけて(人に助けられて)生きている自分を見て、絶望するしかありません。この絶望の蟻地獄から抜け出すには、「人は、人に迷惑をかけなければ(人に助けてもらわなければ)生きていけないものなのだ」という事実を認めることが必要です。つまり、「人に迷惑をかけてもいいんだ。そのかわり、自分が迷惑をかけられた時も、それに腹を立てたりせず、自分にできることは相手にしてあげよう。」と思うことが必要です。


「人に迷惑をかけるな」という考え方は、わかりやすく言ってしまえば、「わたしはあなたに迷惑をかけない。だから、あなたもわたしに迷惑をかけることは許さない。」ということです。この考え方は、共同体に所属する人間を完全に個々に切り離してしまいます。結果として、今の日本は、「困っていても誰も助けてくれない」社会になっています。また、この「わたしはあなたに迷惑をかけない。だから、あなたもわたしに迷惑をかけることは許さない。」という考え方は、人は努力すれば人に迷惑をかけないで生きていけるはずだという前提に立っています。しかし、実際には、努力してもできないことは(その内容は人それぞれ違いますが)いくらでもあります。つまり、この考え方は、人間の能力は無限大だという錯覚に基づいていることになります。