なぜ迷うのか、なぜ決められないのか
なぜ迷うのか、なぜ決められないのか
ここで人権の話という本題からは少し脱線しますが、先ほど少しふれた「選択の自由」があっても、それを使えない人の話をしておきたいと思います。それが、人権の中身である「自信」や「自由」ということを理解する上で役に立つと思われるからです。
右に進むか、左に進むか、いわば人生の分かれ道に来て、どちらを選ぶこともできない人、つまり決められない人がいます。これが、子どもの時のような自分より強い立場の人(おとな)がいて、実質的に「選択の自由」がない場合は仕方がないのですが、そうではなくなって、自分で決めることができるようになってからも、決めることができない(「右に行けば、こういう心配がある。かといって、左に行けばこういう目にあいそうだ。」と考えて決められない)人がいます。こういう人は、「自分に対する自信」がないのだと先ほどお話しましたが、違う言い方をすれば、こうしたいと考える「自分」そのものがないのだと言うことができます。
「ビュリダンのロバ」というお話があります。ひどくお腹を空かせて死にそうなロバが分かれ道にさしかかります。ふと見ると、右の道の行く手にも左の道の行く手にも、同じくらいの距離のところに、同じくらいの量の同じくらいおいしそうな干し草の山があります。しかし、あまりに条件に差がないために、ロバはどちらに進んでいいか迷って、結局、どちらを選ぶこともできずに、分かれ道のところで餓死してしまうという話です。もちろん、これは一種の思考実験で、実際にはそんなことは起きません。生きているロバが本当にそれほど飢えているならば、すぐにどちらかの干し草の山の方に行って干し草を食べ始めるからです。距離や量やおいしさの比較は、食べたいという飢え(死にたくないという欲望)に比べれば、ほとんどなんの意味も持たないからです。
では、なぜ決められない人は迷うのでしょうか。生きている人も生きているロバと同じで、さまざまな生活や人生の場面で、自分の考え(欲求)に従って迷うことなく(または、ほんのちょっと迷っても)次々に何かを選んでいきます。意識しなくても、自分の中の自分の声が呼びかけるままに人は選んでいるのです。それが、生きるということであり、自由ということです。つまり、このような状態では自由は必然と同じになっています。もし、タイムマシンで「あの時」に戻れたなら、自分は別の選択をするのになあと思うことは誰にもあります。しかし、実際に、「あの時」以降の記憶を失って、自分の心身も「あの時」の状態に戻って、「あの時」を迎えれば、自分は必ず同じ選択をするのです。つまり、自分の自由な意思に基づいて行った自由な選択は、実は自分にとって必然的な選択なのです。そういう見方をすれば、そこには必然だけがあって、自由はどこにもありません。ところがあまりに迷っていると、結局、他人や状況(期限が来て、自動的に選ぶ権利が失われる等)が、自分の代わりに結論を出してしまうことになります。これも、見方によっては、そうなることを本人が選んだ(つまり、ある意味でそのような結果を自由に選んだ)とも言えるのです。つまり、決めても決めなくても、それはその人の自由な選択の結果であり、見方によってはそれ以外の選択はその人にはなかった(必然)と見ることもできるわけです。
そうであるにも関わらず、なぜ、どうしようか迷い続ける人は、自分で選ぶことができないのでしょうか。それは、その人の中では、自分の選択の結果を評価するのが自分ではないからです。それを評価するのが、自分以外の人(親であったり、友人であったり、職場の人であったり、近所の人であったり、漠然と世間の人であったりします)であるからです。評価の基準が人である場合は、自分の選択を人がどう評価するかはよくわかりません。よくわからないからこそ、右に進めばこういう目にあうだろう、左に進めばこういうことが起きるかもしれないと考え、いつまで経っても決めることができないのです。この状態が、「自分に自信のない状態」、「(決める)自分がない状態」です。
このことはこんなふうに考えることができます。「ナルシシズム(自分の生きている世界の中心は常に自分だという思い)」の強い人は、一見、「自分」がはっきりあるように見えますが、実際には前にもお話ししたように、人と自分との境界がないので、自己中心的ではあるものの、何かを自分で決めることができない状態になりがちです。ナルシシズムの強い人は、結果をコントロール(自分に都合よく)したいと考えます。こんなすばらしいわたしなのだから、誰からもほめられたり、うらやましがられたりしたいのです。しかし、右に進めば人はこう思うかもしれない。左に進めば人はこう思うかもしれない。評価は他人の気持ち次第です。結果を自分がコントロールすることができないまま、どちらかを選ぶことはナルシシズムの人にとってはきわめてむずかしいことになります。
このようなことが起きやすいのは、子どもの頃から「良い子でいなければ」と思い続けてきた人の場合です。「良い子でなければ、親に、教師に、友だちに、認めてもらえない、愛してもらえない」と思い込んだ人が、このような選択のできない、決められない人になりがちです。こういう人は、人にうらやましがられるような人になることが、価値のすべてだと考えています。それが自分の人生の目的、生きる意味になっています。「17 『自信』について」で述べたように、人と比べて自分がどうか、自分は人からどう見られているかが、自分の「自信」になってしまっている人です。言わば、子ども時代のナルシシズム(自己愛)をおとなになってもずっと引きずっていて、人から「すごい」とか、「うらやましい」と思われなければ、安心できない人です。
こういう人が、人から「すごい」とか、「うらやましい」と思ってもらえない(と本人が考える)状態に落ち込んだ時に、それまで自分を支えてきたものがすべて崩れるような恐怖感に襲われます。そして、そんな自分よりさらに弱い(本人からみれば「みじめ」な立場の人で、自分と立場の入れ替わる可能性のない)人を探し出して、その人たちを、「間違っている人=人に迷惑をかけている人=悪人」として攻撃することによって、崩れかけた自分をなんとか支えよう(優越感を味わおう)とするのです。具体的には、生活保護利用者への執拗な攻撃やヘイトスピーチになります。こういう人たちは、人がどう思うかが一番重要なことなので、できる限り大々的に街頭宣伝をしたり、SNSを使って自分の意見を拡散しようとします。自分の考えに自信のある人にとっては、自分の考えを今、人がどう評価するかはあまり重要ではありません。正しい理論や考えは、一般の人に理解されるまでには相当の時間が必要だとわかっているからです。それに対して、このようなヘイトスピーチや生活保護利用者への執拗な攻撃をする人は、スピーカーを通して今、どれくらい自分の声が大きく響いたか、SNSでどれほどの数の「いいね」があったかが何よりも重要なのです。