女性の人権

女性への差別は、ジェンダーの問題と切り離せません。世界経済フォーラム(WEF)が2019年12月に発表した「世界ジェンダー・ギャップ報告書(Global Gender Gap Report)2020」で、2019年版「ジェンダー・ギャップ指数(Gender Gap Index:GGI)」を公表し、対象となった世界153カ国で、日本は121位に後退し、世界でも最低レベルであることがあきらかになりました。たとえば、そこで取り上げられた女性の国会議員の少なさ、女性の賃金の低さ等は、すぐに解決しなければならない問題です。


昨年度問題になった、東京医科大学を始めとする医学部入試における女性差別を見ても、いくつかのことが明らかになります。これはわたしの記憶違いかもしれませんが、女性受験生の点数を一律減点していたことが明らかになった時、テレビや新聞は当初、「不正入試」という言い方をしていました。「差別」という言い方をしたのは文部科学省が初めてだったと思います。また、さらに問題なのは、このことが報道された時、医師などから、「女性医師を育てても、眼科や皮膚科の医師にしかならない。」とか、「女性医師が妊娠や出産した時、回りが迷惑を受ける。」というような大学の措置は理解できるという趣旨の発言が出てきたことです。


このような医療現場の問題と、入試で男女で不公平な扱いをしてもよいかということは、本来、まったく別の問題なのですが、そこの区別がまったくなされていないのです。確かに現在、女性医師の比率が一番高いのは皮膚科ですが、女性医師の絶対数が増えていけば、当然、皮膚科の医師は余ってしまい、別の科を選ぶ女性医師が増えるはずです。また、女性は妊娠や出産があったりするので、一人前の医師として働いてもらえないというような不満は、現場の率直な本音ではあるかもしれませんが、おかしな意見です。現在、人を妊娠したり、出産したりすることが、女性にしかできないことである以上、そのことが就業について不利にならないような制度、組織、施設等を整えることが、社会としての責任であるはずです。


このような採用する事業所の都合に基づいて、ある特定の条件を持つ人の採用を控えてよいということになれば、例えば特定の障がいを持つ人を雇用することが事業所にとって不利益な場合は、それを理由に採用しない事業所があっても仕方ないという理屈になってしまいます。ハンディのある人を雇用すると不利益だから雇用が増えなくても仕方がないと考えるのでなく、ハンディのある人が、そのハンディを気にしないでも働ける・雇用できる社会・職場をつくることが必要なのだと考えなければ、差別のない、人権の尊重された社会・職場は生まれません。


すでに法律でも保障されている権利(男女の雇用の機会均等、産休、(男性を含めた)育休の保障等)の場合は、法律によって一定の基準で規制や義務づけが行われているので、まだいいのですが、一方では法律ではすぐに解決ができないような女性への人権侵害、女性への差別が各職場では起きてきます。これには、前章の「8 セクシュアルハラスメント」でふれたようなジェンダー(「男は男らしく、女は女らしくすべきだ」)がその根底にあることが多いので、その解決は簡単ではありません。


例えば、女性は感情的になるので、管理職には向かないというような考え方が、多くの職場に潜んでいます。このような考えが、先ほど述べた、女性は家事や育児で早退したり、残業ができなかったりするという考えと結びついて、日本では女性管理職の比率がきわめて低いままであったり、非正規職の7割が女性であったりする状態が続いています。


一般的に、女性または男性の傾向、特徴とされてきたものは、生得的なものと後天的なものに分けられます。しかし、具体的なある特徴(例えば、あの女性は数字が苦手、地図が苦手だ、等々)が、どこまで生得的なものなのか後天的なものなのかを分けることは、非常にむずかしいことです。一時期、女性の脳と男性の脳の形態的違い(例えば、脳梁の太さの違い)等で男女の違いを説明しようとする動きもありましたが、今は下火になっています。一方では、女性と男性の行動や思考や感じ方の違い(性差)を取り上げること自体を、差別的行為として批判する動きもあります。実際には脳の性差にしても、行動や感じ方の性差にしても、事実の分析よりも判断や価値観が先にあって、後付けで説明をつけている傾向が強く、根拠のある議論になっていない感じがします。


現時点で、現実的な考え方と思えるものは、女性と男性の行動や思考や感じ方の違いは傾向として存在することを認めつつも、そのような男女の差よりは、個体差の方が大きいと考えるものでしょう。例えば、男性よりも女性の方が数字や地図を苦手とする傾向があることは、調査の結果として認めつつも、現実の場面では、Aという女性よりも、数字や地図を苦手とする男性はいくらでも存在するということも認めるということです。女性、男性とひとまとめにして見ずに、個々の人を見るべきだという考え方です。女性の管理職が多い事業所は、基本的にこのような考え方に基づいて運営されていると思われます。つまり、性別に関わりなく、そのことについて能力の高い者が、その役割を果たせばいいという考えです。ただ、機能的に動いている組織(事業所等)ではそれでいいのですが、そうではない組織や集団ではこの考え方では解決しない問題が出てきます。その典型は、家族です。


家族の基本は一対の男女です。(性的少数者の場合も考えれば、このように簡単に割り切ることはできませんが、考えやすくするために、ここではこのような従来からの考え方を使います。)一対の男女は、性愛によって結びついており、その背景には抜き難く、前にふれたジェンダーが潜んでいます。ジェンダーの上に成り立っていない男女の性愛関係は、現実的には存在しません。家族もまた、ジェンダーの上に成り立ちます。ジェンダーという考え方は、もともと人間集団内または家族内の性的役割分担の研究から生まれてきたものです。1960年代から1970年代の頃のフェミニズム運動は、社会(政治や組織等)においても家庭内においても、男女平等を主張しました。結果的に、社会(特に、機能的に動いている組織)においては、男女に関係なく、集団の中で能力が高いものがその役割を担うという方向に進みました。しかし、夫婦は二人しかいませんから、企業のような理屈(その分野の能力の高い方がそれをすればいい)は通用しません。女性の方が料理が得意な人が多いから、女性が料理を受け持つというような理屈を認めていたら、昔ながらの役割分担を女性に一方的に押しつけることにしかなりません。結果的に、家事や育児を機械的に「均等に」負担することが正解のような結論になります。しかし、これはこれで現実的ではありません。


この後ふれる性的少数者の人権も同様ですが、性愛に関わる人権の問題はきわめてむずかしいものを抱えています。わたしなりに、女性の人権の問題を整理すれば、現時点においては社会における男女の人権の問題と、家族・家庭における男女の人権の問題は、分けて考えるべきだと思います。と言うか、分けて考えざるを得ないと思います。社会においては、女性と男性について違った扱い(役割分担)をすることは、なくしていくことが目標になります。例えば、現在、非正規職で働いているのは、女性の労働者の約6割であり、男性の場合は約2割です。さまざまな事情があるにせよ、このような結果はどう考えてもおかしいことなので、女性の再就職の保障も含めて、5割に近づけるべきだということになります。


職場で働く上で女性のハンディとなること、例えば、「女性だけが妊娠、出産をする」ということについては、妊娠、出産をすることがその人にとって、不利(金銭的な不利、キャリア・昇進等の不利等)とならないように、国は法律や制度、事業所は制度や運用を変えていかなければなりません。実際にそのような制度等を実施していくと、男性よりも女性、子どもを産まない女性よりも産んだ女性の方が有利になったかのような印象を持つ人もあるかもしれません。「これでは平等ではない、逆差別だ。」と感じる人が出るでしょう。しかし、それでいいのです。


ここで、考えてみたいのは、「平等とはどういうことか」ということです。わたしは、平等は「同じ扱い(均等な扱い)」とは違うと考えています。人はそれぞれ違った性質を持って生まれてきます。両親の経済状態もみな違います。そういう意味では、誰もが何らかのハンディと、何らかの有利さを持って生まれてきているということになります。平等(公正さ)とは、そのようにそれぞれ違ったハンディを抱えて生まれ、育った一人一人が、自分のハンディを気にしないで、同じように幸せに生きていかれることを言うのだと思います。子どもを妊娠し、出産するのは、労働者としては、多くの場合、女性だけのハンディになります。ですから、それがハンディにならないようにすることが、平等(公正さ)を実現することになります。これがアメリカで黒人や女性に対して行われてきた「アファーマティブ・アクション(または、ポジティブ・アクション)=積極的格差是正措置」の根底にあった考えだと思います。一見すると、一部の人だけが特別な優遇を受けていて、不平等な扱いのように見えますが、そうではありません。ハンディは放っておけば、いつまでもハンディのままです。ハンディのない人と同じように幸せに生きていくこと、人生をたのしむことはむずかしいままです。つまり、制度等の外側の力を使ってそのハンディの穴埋めをしない限り、平等な社会は実現しません。


簡単な例え話をすれば、人だかりがあって、なかなかその向こうでやっている劇やパフォーマンスなどが見られない時、背の高い人にも背の低い人にも同じ高さの踏み台を配るのは、「同じ扱い・均等な扱い」ではあっても、それでは平等(公正さ)は実現はしません。踏み台がなくても劇が見られる背の高い人にはそもそも踏み台は要りませんし、背の低い人には、もっと高い踏み台が必要になるからです。小さな子どもは、踏み台よりもおとなに肩車をしてもらった方が良いかもしれません。その結果として、すべての人が劇やパフォーマンスなどを見ることができるようになった状態が、平等(公正さ)の状態です。人は誰でもハンディ(少なくとも潜在的なハンディ)を抱えています。人生のある時期までは、自分の有利さを支えていた性質が、あることを境にハンディに変わることも良くあることです。そのようなその人が抱えるハンディが、制度や周りの人の力によって埋め合わされて、他の人と「同じように幸せに」誰もが生きていける社会が、平等な(公正な)社会ということになります。そんな社会は永久に実現不可能だという意見もあるかもしれませんが、わたしは「平等な(公正な)社会」という時にはそのような社会をイメージしますし、そのような社会は実現することは不可能であっても、今よりそれに近づけることは、われわれがそれを望むなら、できるはずです。


一方、家族、家庭内での男女の人権については、役割分担の均等化(育児時間の均等化等)を目標にすることは、あまり現実的な意味を持たないと考えられます。現実には、一対の男女の分担は一対の男女の間で決めていくことが望ましいし、ほとんどの夫婦はそうするしかないので、けんかや試行錯誤を繰り返しながら、徐々に自分たちの落としどころを見つけていると思います。その結果として、共働きを続けて、食事や育児は外部(外食、テイク・アウト、親、家政婦、ベビーシッター等)に頼ることもあるし、ある時点から、男女の片方が専業主夫(主婦)のような形になることもあり得ます。どのような形を取ったにせよ、夫婦が取りあえず今、そのような形を選択していることについて、周りの人たちや社会があれこれいうべきことではないと思います。


ただ、ここで重要なことは、現在、言われている「一億総活躍社会」という政府の呼びかけは、結果的に安い労働力として(つまりは、非正規の形で)女性を働かせることになっているということです。現在、多くの夫婦が共働きしている一番の原因は、夫婦二人が「活躍」したいからではなく、共働きしなければ生活していけないくらいの安い賃金しか得られないからです。つまり、ここに選択の余地はないわけで、選択の自由のないところに人権(幸せな人生)はありません。(このことについては、また後ほどふれます。)逆にもし、夫婦の片方が(それは、夫でも妻でもどちらでもかまいませんが)働くだけで、親子が生活していけるだけの収入や支援等(国や自治体からの支援、手当を含めて)が得られるのであれば、もっといろいろな働き方や家族のあり方が可能になるはずです。