「自由」について

「自由」についても、もう少しお話します。「自由」とは、「選択する自由」であり、「わたしのことはわたしが決めている。つまり、わたしがわたしの人生の主人公だ。」という思いのことだとお話しました。そういうふうに言うと、なにかとても大変なことで、実際にはそんなことは不可能だと感じられるかもしれません。しかし、「選択の自由」は、生活におけるさまざまな場面で、必ず問題になっているのです。例えば、子どもが両親とともに、ファミリーレストランに行って食事をする時に、何を食べるか自分で決めさせるのも、その子の「選択の自由」を保障してあげることになります。子どもが、「カレーライスにしようか、それともハンバーグセットにしようか。」と迷っている時に、「明日の夕飯は、カレーにするつもりだから、ハンバーグにしなさい。」と親が決めてしまうのは、いわば子どもの「選択する自由」を奪っていることになります。こんなことは、ささいな例ですが、例えば、中学生がどの高校に行こうか迷っている時に、親がさまざまなことを考えて、本人に一番良いと思える高校に進むように誘導するのは、たとえそれが客観的に本人にとって一番良い(と思える)進路であっても、本人の「選択の自由」を奪っていることになります。「そんなことはしていない。うちの子は本人の希望第一であの高校に進んだんだ。」とほとんどの親は言います。しかし、実際に高校に入学した子どもたちに聞いてみれば、「わたしが決めたんじゃない。本当はここではなくて、あそこに行きたかったんだ。」と言う子どもは、実は相当な人数いるのです。


そういうことが、高校に入学した後で問題になった時に、多くの親は、「だったらそう言えばいいのに。言わなきゃわからないでしょう。なんで言わなかったの。」というようなことを言います。そのような場合は、「言わなかった」のではなく、「言えなかった」のだと理解するのがよいと思います。なぜ、言えなかったのか。子どもにそういうことを聞くと、「だって、言える雰囲気じゃなかった。」とか、「言ってもむだだと思った。」とか答えるからです。そういう場合、もし、中学の時に親が、「あなたはどうしたいの。」と聞いていても(実際、多くの場合、親は子どもに聞いています)、子どもは「こうしたい。」とはなかなか言いません。なぜでしょうか。自分の意思で選択することに慣れていない子どもは、特にこのような自分の人生に大きく関わること、親が「これはこの子にとってとても重要なことだ」と思っていること、親の経済状況等に大きく関わることで、選択をすることができません。親に、「あなたがそう思うなら、それでいいよ。」と言ってもらえる可能性が、このような場合にはとても低いことが身にしみてわかっているからです。だから、「こうしたい。」と具体的に言う場合も、親が望んでいる方向(それは、実は子どもにはよくわかっています)で答えることになります。結果として、親はこの進路は本人の希望だったと思っていても、子どもは自分で選択した気持ちはまったくないということが起きてきます。


なぜ、子どもは、「あなたはどうしたいの。」と聞かれても、「わたしはこうしたい。」と自分の本音を言えないのでしょうか。それは、自分のその思いに「自信」がないからです。自分に対して本当の自信(今のわたしはこれでいいんだ)という思いが持てない人は、そもそも何かを選択することも、こうすると決めることもできないのです。そう考えると、「選択する自由」の根底には先ほどお話した「本当の自信(今のわたしはこれでいいんだ、人がどう見ようが、どう思おうが関係ない)」がなければならないことがわかります。


このように見てくると、実は、「安心、自信、自由」というものは、一見、別々のもののように思えますが、実は密接に結びついていることがわかります。「安心(わたしはここにいていい)」がなければ、「自信」など持てるはずがありません。「本当の自信」がなければ、人は周りの目や、人と比べての自分の位置が気になって仕方ありません。「これでいいのだろうか。」という不安に常につきまとわれることになるのです。そして、「選択の自由」を持ち、それを発揮するためには、外側の条件(経済的条件とか、自分より強い立場の人の意向等)だけでなく、内側の条件、つまり「自分への自信(今のわたしはこれでいい、こういうことを思っていいんだ)」というものがなければならないのです。


そう考えてみると、この三つのことは、実はつながりあった一つのものであることがわかります。そして、この三つの中で基盤となっているものは、「自分への自信」であり、この三つが保障されているかどうかは、その人が「選択の自由」を自覚し、それを発揮して生きているかどうかによって判断できそうな気がします。