学校でのいじめについて
学校でのいじめについて
学校でのいじめについて考えることは、職場でのパワーハラスメントについて考えることよりもむずかしいことです。それは、いじめがパワーハラスメントに比べて、より複雑で、はっきりさせにくいものを含んでいるからです。
学校の中でいじめは必然的に起きてきます。だから、いじめのない学校はありませんし、いじめを完全になくすことも不可能です。これが現に起きていることから生まれてくる考察です。しかし、そのような起きていること自体ははっきり見えていても、「なぜいじめは起きるのか」、「いじめは、学校という組織や子どもたちの人間関係のどこから必然的に生じてくるのか」、このような問いに答えることは、きわめてむずかしいことです。それがわかれば、いじめはなくすことはできなくても、相当程度、軽い段階で終わらせることができるはずなのですが、そのような考察には、まだお目にかかったことがありません。ですから、わたし自身もそのような考察をすることはまだできませんが、そのような考察への一歩として、ここでは大きく二つの観点から、どのようにしていじめが起きてくるのかを考えてみたいと思います。
ひとつの観点は、前章でも紹介した「大阪神戸の心理セラピー・カウンセリング Prado(https://prado-therapy.com)」の足立由布子さんの考え方によるものです。それは、幼児期に人間の中にある「幼い自我」(この世の中に「わたし」だけがいて、「わたし」は何でもできる(かなえられる)全能の王様(足立由布子さんの言葉で言えば「ウルトラマン」)である(はずだ)という思いを持つ人間)が、その満たされない欲求を、教室の中から自分の思い通りになりそうな相手を選んでぶつけるのが「いじめ」ではないかという指摘です。
この指摘の説得力は次の点にあります。たとえば、学校の教員が実際に校内などで起きた悪質ないじめについて、詳しい事実を調べていく中で、教員はいじめを行う子ども(以下、加害者と呼びます)に対して、「なぜ、そこまでやるのか」、「なぜ、そんなに相手が苦しむのがうれしいのか」という疑問を持ちます。加害者(ふつうそれは複数の集団になります)になぜそんなことをしたのかと聞くと、ほとんどの加害者は、いじめた相手(以下、被害者と呼びます)に対して、被害者が自分たちの気に入らないこと(許せないこと、間違ったこと等)をしたから、罰として被害者が嫌がることをして直させようとしたんだと言います。しかし、多くの場合、いじめが見つかった時点では、すでに罰としての嫌がらせに留まらないところまで進んでいることがほとんどです。被害者がさらに嫌がり、苦しむことをみんなで考え出して、被害者がさらに苦しむことをみんなで楽しむためにしているようなところがあるのです。(だからこそ「いじめ」と呼ばれるわけですが。)人によっては、そのような人が苦しむのを見て喜ぶようなところが人間の本質としてあるのだ、だから、いじめはなくならないのだというようなことを主張する人もいます。そのような主張は、人間には「悪」の部分があるのだという信念(一種の「性悪説」)と結びついていることも多いのです。しかし、このような発想(「いじめは、よくはないけど、仕方ない。」)を取ってしまったら、人権の問題の解決など、そもそも不可能なことになってしまいます。
そのような人間には「悪」がつきまとうなどという考え方とは違って、Pradoの足立さんの考察は、そのような加害者が被害者の苦しむところを見て喜ぶ面をよく説明しています。わかりやすいパターンで考えてみれば、先ほど書いたように、子どもに対して支配的な親は、わざとではなくとも子どもの全能の意識(幼い自我)を奪い、押さえつけます。このような全能の意識(幼い自我)は、子どもにとっては、生きていく上でなくてはならないもの(言わば、生きる力)です。子どもは満たされない幼い自我の欲求を、家庭以外の世界、具体的には学校の人間関係の中で満たそうとします。とにかく、自分の言うことを聞かせられる相手がいればそれでいいので、それに都合のいい相手として、多くの場合、逆らわない(逆らえない)「弱い」子が選ばれます。おとなしい、何かひどい目にあっても、それを誰にも言えないような子、こんなことをされるのも自分のせいだと思うような子(つまり、教師に訴えないような子、前章で述べた「いい子」タイプの「弱い」子など)を選ぶのです。
このような関係であれば、主になっていじめを行う子はもとより、それといっしょにいじめを行う子、まわりでそれをはやし立てる子のすべてが、自分の中にある満たされない思いを満たすことができます。自分の中にある「人を自分の思い通りにしたい」という思いを、その子に「(自分たちが言うことを)言う通りにやらせ」、「やらなければ苦痛を与える」ことによって満たすことができるのです。さらに、被害者が殴られ、蹴られ、土下座させられて苦しんでいる様子を見ることで、また、今まで友だちとしてつきあっていた子たちから干されて苦しんでいる様子を見ることで、自分たちの失われた「全能の王様(ウルトラマン)」の欲求を、その子の前では満たすことができるわけです。被害者が、自分たちの強制で苦しめば苦しむほど、自分たちの「全能の王様(女王様)」としての欲求は満たされます。こう考えれば、いじめが学校の子どもたちの関係の中で必然的に起きることであり、放っておけば自然に止まることはありえず、どんどん過激化していくことが理解できます。
しかし、一方では、学校におけるいじめはこのような個と個の関係だけでは説明できないものを含んでいます。学校という「組織(としての秩序)」が引き起こしている部分を無視できないからです。この観点については、『スクールカーストの正体~キレイゴト抜きのいじめ対応~』(堀裕嗣著、小学館新書)が参考になります。この本によれば、学校という組織は児童・生徒だけでなく教職員も含めて、ひとつの「正しさ」によって支配されているということになります。その「正しさ」の中身は、実はよくわからないものです。この点が職場におけるパワーハラスメントと違うところで、職場におけるパワーハラスメントの場合は、この「正しさ」の中身が、仕事の効率性や職場の習慣・伝統などの観点から比較的はっきりとしています。しかし、学校における生徒・児童集団が持っている「正しさ」というものは、きわめてあいまいです。それは暗黙のうちの了解事項になっている部分がとても大きくて、例えば、LINEでメッセージを受けたらすぐに返信する。トイレに誘われたら自分は行きたくなくてもいっしょに行く等々のように、比較的はっきり意識されているものはごく一部に過ぎません。しかも、この生徒集団の守っている「正しさ」は、一部の子どもの生活の仕方や発言によってつくり上げられることが多く、時とともに変化していきます。この一部の子どもというのは、「スクールカースト」と呼ばれる子どもたちの力のピラミッドの最上位にいる子どもたちです。
では、この力の序列(支配ー被支配の関係のピラミッド)はどうやって決まるのでしょうか。これについて、堀さんは、最上位を占める子どもが共通して持っている資質があると書いています。それが、「自己主張力」、「共感力」(人の喜びや悲しみがわかること)、「同調力」(人に合わせること、ノリ)に三つです。この三つをたくさん身に備えている者が、生徒集団を支配する力を持つというのが堀さんの意見です。
堀さん自身が中学校の教員であるということもあり、この考察はとても説得力のあるものです。わたくしがこの考察が有効だと思うのは、いじめが起きている現場の状況とこの考察がぴったり一致しているからです。現実にいじめが起きた現場では、多くの場合、児童・生徒の中にはそれを容認する意見が結構多いという事実があります。具体的には、「いじめは確かに良くないけど、あの子だって良くないんだから、しかたないんじゃないかな。」とか、「あんな子はあのくらいされても当然だ。」というような意見を、口には出さなくても相当多数の子どもたちが持っています。なぜそのような意見を子どもたちは持つのでしょうか。それは、子どもたちの多くが、いじめの被害にあった子がなんらかの形で、自分たちが暗黙のうちに守っている「正しさ」に違反したと考えているからです。つまり、いじめを行った加害者は、ある意味で、自分たちが尊重している「正しさ」を守るために違反者を罰しているのだという感じを持っているのです。同じような加害者の行為を認めるような意見は、職場におけるパワーハラスメントでもよく出てきます。パワーハラスメントの場合は、組織(会社など)の目的、しきたり、ルールを犯す者は、罰せられても仕方がない、罰せられても当然だという考え方となります。ただ、学校におけるいじめを理解する上でむずかしいのは、「組織の目的、しきたり、ルール」がきわめてあいまいであるということです。子どもたちの中でつくり上げられている「正しさ」は、多くの場合、教師や親というおとなにはよく理解できません。なぜ、女の子は、友だちからトイレに誘われたら、自分は行きたくなくてもいっしょに行かなければならないのか、男性教師や父親にはなかなか理解できません。男性教師や父親には、そんなことどうでもいいことにように思えるのです。子どもたちが尊重している「正しさ」を理解できないため、教師や保護者はいじめを支えたり、認めたりしている子どもたちの行動や意見を、頭から「いじめ、悪」として否定し、絶対許せないこととして、子どもたちの考え方や行動を頭から非難、攻撃することになります。当然のことながら、このようなおとなの態度は、結果として子どもたちの中に、おとなへの不信感や反感しか生みません。「いじめは絶対にいけないことだ。いじめは絶対に許さない。」とおとなが断言して、徹底的にいじめを排除しようとすればするほど、子どもたちは、だからおとなはだめなんだと考え、いじめは結果的に、証拠の残らない心理的ないじめになったり、SNSを使うような、おとなに見えないところで行われるものになったりしていきます。
「いじめは絶対いけない」という意見があります。まったくその通りです。しかし、それをいくら言っていてもいじめは永久になくなりません。人権の問題を考える上でも同じことが言えます。「これは差別だ、人権侵害だ、間違っている、絶対おかしい。だから、なくさなければならない。」その通りです。しかし、そんなことをいくら言っていても、差別やいじめや人権侵害はなくなりません。このことをわれわれはしっかり見つめなければなりません。「間違ったあり方」のかわりに「正しいあり方」をいくら主張しても、人々の行動は変わらないのです。