児童虐待について(その2)

児童虐待に関連して、親子関係について少しふれさせてください。親子関係がこの後、ふれたいと考えている学校でのいじめや、おとなの被害者意識、被害妄想等につながるものを持っていると考えるからです。


おとなになっても自分の中に、「自分」、「わたし」というものができていない人がいます。実は、わたしも含めて今の日本のおとなのほとんどがこのような傾向を持っているとも言えるのですが、この「自我の未成熟」、「自我の幼児性」とも呼べる傾向は、心理学の観点からは、その原因をその人の幼児期、または子どもの時の親との関係に求めることができると考えられます。この自我の幼児性(「わたし」がおとなになりきっていないこと)の性質をひと言で表現すれば、それは「ナルシシズム」ということになります。


(注:これから書くことは、「大阪神戸の心理セラピー・カウンセリング Prado(https://prado-therapy.com)」で、そこの代表である足立由布子さんが書いていらっしゃる内容に多くを負っています。ただ、わたくしが勝手に解釈したり、つけ加えたりしている部分もありますので、以下の内容についての責任はわたくしにあります。)


子どもは、生まれた時から基本的に「ナルシシズム(自分の生きている世界の中心は常に自分だという思い)」の中で育っていきます。自分の欲求(「お腹が空いた。ミルクがほしい。」等)は、通るのが当たり前で、自分の欲求が通らなかった時は、泣いたり、あばれたりしてそれを実現させようとします。多くの場合、親や周りのおとなはその欲求を満たしてやりますが、その欲求の実現が危険をもたらすものであったり、不都合をもたらすものであったりした場合は、それを拒絶します。その時、子どもは泣き叫んだり、物にあたったりして自分の欲求を満たそうとしますが、親たちは拒絶します。このようにして子どもは、自分の欲求を拒む、妨げる人(自分と対立する人=他者)の存在にぶつかります。それまでは、無限大に広がっていた「自分」が、「他者」という壁に遮られて、「自分」というものの限界(自分の領域)がこのようにしてでき上がっていきます。子どもからおとなに成長していく中で、人は、自分と同じように「感情や欲求を持った人」が自分の周りにたくさんいて、自分はその中の一人にすぎない、自分とそういう人たちは「ほぼ対等」の存在としてこの世界の中にいるのだということを学んでいきます。このような経験をとおして、その人の「ナルシシズム」は少しずつ終わっていくのです。


しかし、理屈としてはこのようであっても、実際に人が「ナルシシズム」から抜け出す、つまりは「おとなになる」ことはなかなかむずかしいことです。結果として、年齢ではおとなになっていても、「ナルシシズム」から抜け出せずにいる人、つまり「自我が未成熟な人」が生まれることになります。


このような「ナルシシズム」から抜け出せずにいる人には、いろいろなパターンがありますが、最近多く見られるようになったのが、「よい子」のパターンです。子どもは自分の欲求を満たそうとして、自分より力の強い(自分を支配してくる)親やおとなとぶつかります。その時、子どもは自分の欲求を少しでも多く満たし、自分の安全を確保するために、親やおとなの力に従うことを選びます。親たちの言うことに従い、親たちの欲求を満たすことによって自分の欲求を満たしたり、自分の安全を確保したりしようとするのです。このようにして、自分を親たちにとって「よい子」にしていきます。このようなことが繰り返されると、結果的に「自分は『よい子』にしているのがいいのだ。『よい子』でなければ、あの人たちに認めてもらえないし、認めてもらえなければ、わたしが生きている価値がないんだ。」という思いが、どんどん心の中につくり上げられていきます。それに伴って、その人の中の「わたし」はどんどん小さく弱いものになっていきます。つまり、他人に全部、自分をあずけてしまった状態になっていくのです。ここ十年くらいのことでしょうか、学校や職場で「わたしはほめられて伸びるタイプなんです。」と口にする若者に出会うようになりました。このような若者は、まさに「よい子」として生きることを自らに命じてきた人たちなのだと考えられます。


このような「よい子」として生きてきた人は、「他人と自分が別々のもの(人は人、わたしはわたし)で、しかも(ほぼ)対等の存在である」ということが理解できていません。自分と他人が、体が別々であるように、それぞれ違った別々の価値観や感情で生きているということが、理解できていないのです。結果として、他人の言動で簡単に傷ついてしまいます。「わたしは何も悪いことはしていないのに、何であの人はあんな態度をとるのだろう。」、「わたしはこんなにあの人に良くしているのに、なぜあの人はわたしにこんなことをするのだろう。」こんな思いをずっと持ち続けながら生活をしていくことになります。つまり、「わたしは、理由もなく被害を受けている。」という思いです。ここからさらに一歩進んでいくと、「わたしは何も悪いことをしていないのに、あの人があんな態度を取るのは、そもそもわたしに対して『悪意』があるからだ。」になっていきます。ここまで来ると、軽い被害妄想になってしまいます。


毎朝、すれ違う時にあいさつを交わしている職場のAさんが、ある朝、わたしが「おはようございます。」と言ったのに黙ったまま行ってしまった。現実生活の中では、いくらでも起きることなのですが、今、書いてきたようなタイプの人は、「わたしがあいさつしたのに、なぜ、Aさんはあいさつを返してくれなかったんだろう。」と悩みます。「きっと、わたしに腹を立てているんだ。ああ、そうだ。昨日、わたしはAさんに仕事を頼んだことがあった。Aさんは引き受けてはくれたけど、ちょっと嫌そうな感じだった。そうだ、あのことで腹を立てていて、嫌がらせでわたしのあいさつを無視したんだ。」などと考えてしまいます。実際には、Aさんは何か考えごとをしていただけだったのかもしれません。今朝、家を出る時に家族とけんかして、そのことで頭が一杯だったのかもしれません。しかし、「いい子」で生きてきた人は、そんなAさんの事情にはまったくおかまいなしに、Aさんの不機嫌そうな行動の原因を、全部自分に持ってきてしまいます。このような人の場合、「わたし」と「Aさん」の間には、言ってみれば、それぞれの自我の壁はなく、わたしの自我がそのままAさんの中にまで広がってしまっている状態だと考えられます。そのような人の心の中では、「Aさんの行動や思い」と「わたしの思いや行動」は、切れ目なくいっしょになっているために、Aさんの行動や思いを、「わたし」と切り離して考えることができないのです。その結果、Aさんの行動や思いは、必ずわたしと結びついている。つまり、わたしがAさんの態度の原因になっていると考えてしまうのです。このような人の場合、他人の行動や思いは常に自分が原因であり、他人の行動や思いは常に自分への評価になってしまいます。その人が住んでいる世界(学校や職場等)のすべてに「わたし」が広がっていて、世界の反応はすべて自分への評価になってしまっているのです。世界で起きていることが、すべて自分(の行動や思い)とむすびついています。このような人にとって、自分と無関係なことは、世界には起きないのです。小説でいえば、完全な一人称小説の世界に住む人と言ってもいいかもしれません。


このような「いい子」タイプの人は、他人の目を通してしか、自分を見る(評価する)ことができません。しかし、わたくしを含めて、日本のおとなの心のどこかには、このような「いい子」タイプの傾向が存在すると言っていいのではないかとわたしは思っています。


これと同じように一人称小説の世界に住む人で、しかし、その中身は「いい子」タイプとは対照的な人がいます。それは、ASD(自閉症スペクトラム障がい)の人たちです。ASDと言っても、実際の表れ方は一人一人すべて違っていて、簡単にこういう人と言い表すことはできません。しかし、共通する特徴として、「想像力や社会性の欠如」ということが言われます。これは、具体的にはどういうことなのでしょうか。わたくしが実際にASDとされる子どもたちと話をして感じたことで言うならば、ASDとされる子どもたちは、「こういうことを、あなたがあの人にしたら、あの人はどう思うと思いますか。」という質問をした時に、実感をもってその問いに答えることが非常にむずかしいようです。つまり、自分以外の人の思う、感じることを、自分も実感として感じること、ふつう共感とか感情移入と呼ばれることをするのが、非常に苦手のようなのです。もちろん、ASDとされる方の中にもそのような問いに、「それは嫌な感じがするでしょうね。」というような答えをすぐに返すことができる人もいます。しかし、それはこういう時にはこうだろうと頭で割り出した答え(知識)であることが多いようです。つまり、実感が伴わない答えになりがちです。むしろ、わたしが話をしたASDの方たちは、「なぜ、そんなこと(相手の気持ちなど)を、わたしが考えなければならないのか。(あなたの質問の意味がわからない。)」という反応をする人がほとんどでした。わたくしは、これがASDの人の特徴としてよく言われる「想像力や社会性の欠如」の中身ではないかと思っています。簡単に言ってしまえば、ASDの人にとって、感情を持っていると感じられる存在はこの世で自分一人なのだと思います。ちょっと考えると、そんな馬鹿なと思うかもしれません。しかし、よく考えてみれば、本当は、誰にとっても実際に感じることができるのは、自分の感情だけなのです。わたしが、あの人は今こんな気持ちを抱いているんだろうなと考えた想像が外れることはよくあることです。ところが、ふだんわれわれは、あたかも自分以外の人の感情も、自分は感じることができるように思い込んでいます。実際に、悲しそうな顔をしている人を見れば、わたしの気持ちも悲しくなってきます。しかし、あくまでそれはわたしの思い込み(感情移入)なのです。本当はその人はお腹の調子が悪かっただけかもしれません。もともとそういう顔つきをする癖があるだけかもしれません。繰り返しますが、「あの人は、今、ああいう気持ちだろうな。(わたしだって、同じ目にあえばそういう気持ちになるから。)」と思っていたら、実際のその人の気持ちはわたしが想像(または、共感)したものとは、まったく違っていたということはよくあることなのです。そういう場合は、わたしは勝手に想像して、こうだろうと思い込んで共感、同情していたにすぎないのです。そう考えれば、ASDの人たちのとらえ方の方が実は現実に則した正確なものとも言えるわけです。


結果として、ASDの人たちもまた、「いい子」タイプの人と同じように、自分だけが主人公として存在する世界に生きていることになります。ただ、他の人との関係は、「いい子」タイプの人とは正反対になります。「いい子」タイプの人たちが、人の目、人の評価を通してしか生活していないのに対して、ASDの人たちは自分の目、自分の評価を通してしか生活していないことになります。ただ、実際の生活の中では、当然のことながら自分の目、自分の評価、価値観、考えだけでトラブルなく生きていくことはできません。自分の評価、価値観、考えは、必ず他人の評価、価値観、考えとぶつかるからです。その時は、ASDの人の前に、他人はきわめて理不尽な壁、一方的に何かを押しつけてくる暴力的な存在として立ちはだかることになります。ASDの人たちも、さまざまな当惑、怒り、屈辱等を経て、他人も自分と同じように「感情」を持つ存在であること、そのような存在とどうつき合っていけばいいのかを学ぶことで、自分と他人を(ほぼ)対等な存在と考える人(言わば「おとな」)になっていきます。そして、そのような経緯自体(人はそれを成長と呼びますが)は、すべての人に共通のものです。ただ、ASDの人の場合はそれらをすべて知的に、もしくは習慣的に行っていかなければならない(共感や感情移入という手段が使えない)点が、とてもむずかしい点かもしれません。


ここで話はようやく親子関係に戻ってきます。現在の親子関係の問題の多くは、親自身がしっかりしたおとなになり切れていないことから生まれてきます。親(または、おとな)が、「子どもをコントロールしたい、しなければならない、コントロールできないのは親として、おとなとして失格だ。」と思ってしまうのは、なぜでしょうか。それは、親自身、おとな自身が、「いい子」として生きてきたそれまでの生き方から抜け出せていないことを示しています。親や周りのおとなから、「いい子」と見られなければならない。「いい子」として見てもらえなければ、自分が生きている意味、価値がないという不安感が、今や、周りの人から「いい親」、「良いおとな」、「すぐれた教員」として見られなければ、恥ずかしい、みじめだという不安感、恐怖感に変わっただけなのです。


このような感じ方に根本的に欠如しているのは、「子どもとわたしは別の人間だ」という自覚(あきらめ)です。別の人間である限り、わたしとは別の感じ方、考え方をするし、それをやめさせることは誰にもできないのです。たとえ、わが子であっても、自分とは別の人間であること、別の自我を持つことは当然の事実なのですが、どうしてもそれを認めることができないことから、たくさんの問題が起きてきます。児童虐待はその典型です。


親である、おとなであるわたしの思い通りに、子どもが感じない、考えない、生きない様子を目の当たりにすることは、子どもが自分の思い通りにならなければならないと思い込んでいる親やおとなにとっては、不安であり、焦りであり、屈辱です。思い通りにならない子どもをなんとかして思い通りに動かそうとしたら、結局、自分の力を使って、子どもに恐怖を与えて思い通りに動かそうとするしかなくなってしまいます。「こうしなかったら、ぶつよ。」「こうしなかったら、ご飯は抜きだよ。」「こうしなかったら、あなたのこと嫌いになっちゃうよ。」こうやって、子どもを恐怖や孤立感、屈辱感で支配しようとすれば、子どもは多くの場合、おとなの言う通りに動くようになります。親はそうすることを「しつけ(=良いこと、正しいこと)」として行っています。しかし、そうやって力や恐怖で子どもを支配し、コントロールすることが続くと、子どもは親に、おとなに守ってもらうため、愛してもらうために、「自分」をどんどんすり減らしていきます。最後は、親やおとなが自分の前で怒る度に、「わたしが悪いからだ。ごめんなさい。」と思うようになるのです。両親が子どもの前で夫婦げんかをすると、けんかの内容が子どもとは無関係なことでも、子どもは「わたしが悪いのだ(自分が、何か気づかないことで、親から責められているんだ)」と強く感じるのです。他人の言動の原因をつい自分に引きつけてしまう「いい子」タイプの人は、このような「支配ー被支配」の親子関係の中から育ってきているのです。