児童虐待について(その1)

日本では毎年、何人もの子どもが保護者からの児童虐待によって亡くなっていきます。その子どもを死に至らしめた虐待の内容を知れば知るほど、誰もがなぜこんなひどいことができるのかという驚きや怒りを感じないではいられません。そのような怒りは、虐待をした「鬼親」や、虐待を知っていながら何もしなかった(できなかった)児童相談所や学校の職員に向かいます。しかし、児童虐待を考える上で重要なことは、このような児童虐待は、ある意味で、必然的に起きているいるし、どの家庭でも起きうる可能性はあるということです。そのような虐待が起きた原因を、個々の保護者の特性や異常さに求めることは、問題の理解をねじまげてしまいます。実際のところは、「児童虐待はどの家庭でも起きうるし、現に起きている」のです。そこから考察を始めなければ、児童虐待を防ぐことはできません。


児童虐待によって子どもの人権が侵害される典型的な例を考えてみましょう。ここでもパワーハラスメントのところで説明した構図を、そのまま当てはめることができます。「強い立場の人」は親(おとな)です。「弱い立場の人」は子どもです。親は子どもに愛情を持つために、「この子にはこうでいてほしい」とか、「この子にはこうなってほしい」という思いを必ず持ちます。そして、さまざまな具体的な生活の場面の中で、親は、子どもに「こういうことをさせよう」とか、「こういうことをやめさせよう」と思う時、そう思う自分自身を疑うことはありません。なぜなら、少なくともおとなの自分の方が、子どもよりは、ものごとをよくわかっていて「正しい判断ができる」と考えているからです。しかも、親は「子どものためを思って、こうする(言う)のだから、子どもはそれに従って当然だ。」と考えています。しかし、子どもの方は違います。多くの場合、子どもは親と違った思いや考えを持っていますから、時によっては親の言うとおりにしないことが必ず起きます。そんな時、子どもは拒絶(「嫌だよ。」、「そんなこと無理だよ。」)したり、無視(聞こえないふりをする、逃げ出す)したり、逆らったりします。おとなしい子どもの場合は、「できない」とわかっていても、親の言う通りに振る舞おうとして失敗します。


ただ、ここまではどんな家庭においても、日常的に起きていることです。これだけでは虐待(暴言や暴力等)は発生しません。虐待は、このような子どもの態度に、親が「怒り」を感じた時に起きるのです。


では、その怒りはどのようにして発生するのでしょうか。すでに述べたとおり、心理学では正義感からくる怒りのような持続的なものを除き、怒りを「二次感情」と考えます。怒りは、「一次感情」である不安や恐れや焦りのような感情がまずあり、それが何かをきっかけにして一瞬で別の感情である「怒り」に変わるのです。そして、ここで重要なことは、怒りに変わった瞬間、怒っている当人は、自分がさっきまで(怒りではなく)不安や恐れや焦りを感じていたことをすっかり忘れて、最初から自分が(正義感などで相手に)怒りを感じているのだと思い込んでしますことです。


親(もしくは、「強い立場のおとな」、例えば、教員や少年スポーツの指導者など)が、子どもに暴言を放ったり、暴力を振るったりする場合、おとなは怒りの前に、必ず、不安や焦りや屈辱感やみじめさを感じています。いつまで経っても試験前の勉強を始めない子どもに対して、不安(「また、ひどい点を取ったらどうしよう。」)、焦り(「もう試験まで1週間しかないのに、間に合わない。」)を感じます。そして、注意したり叱ったり(「いつまでゲームしてるの、もう来週試験でしょ。さっさと勉強しなさい。」)します。子どもが素直に言うことを聞いて親が望むような行動をする場合はいいのですが、子どもがそんな自分に口答えしたり、無視したりした瞬間、言うことを聞かせられない自分に強く「みじめさや屈辱」を感じます。しかし、このみじめさや屈辱感は、ほんの一瞬で怒りに変わってしまうために、当人にはほとんど意識されることがありません。せいぜい、子どもの態度や言葉に、「カチンときた」くらいの感じしか残らないのです。気がついた時には、子どもを怒鳴りつけたり、罵倒したり、殴ったりしてしまっているのです。このような怒りが何度も何度も繰り返されるうちに、やがて怒りは憎悪に変わっていき、何気ない子どもの癖やしぐさにまで、一瞬で怒りを燃え上がらせるようになります。子どもに虐待をしてしまった親が、必ず言う言葉に、「この子がわたしを怒らせるんです。」という言葉があります。これは何気ない子どもの癖やしぐさにまで、一瞬で怒りを燃え上がらせるようになってしまった自分の状態を言い表しています。加害者である自分を、まるで被害者(わたしが悪いのではない、この子が悪いんだ)であるかのようにとらえているところが、パワハラの加害者がパワハラを非難されていくうちに、自分を被害者だと思い込む心の動き(わたしが悪いんじゃない、あの人がちゃんとやらないからこんなことになったんだ。わたしは被害者だ。)とよく似ています。さらに児童虐待が進むと、そんな「自分を怒らせる、どうしようもない子ども、許しがたい子ども」が「罰」を受けて苦しむことに、ざまあみろという快感を味わうようになっていきます。これも、嫌がらせのための嫌がらせになってしまったパワハラの状態とよく似ています。虐待が、自分の中に潜んでいる、自分でも気づきたくないみじめさや無力感や屈辱の埋め合わせになっていくのです。こうなってしまうと、虐待は外からの力が加わらない限り止まりません。


ただ、子どもが自分の言うことを聞かなかった時、親がみじめさや屈辱感を味わうのは、実は自分がわが子のためを思って言っているのに(しているのに)それを受け入れてもらえなかった、つまり、単に自分の愛情を目の前のわが子に拒絶されたからだけではありません。このことの背景には、個々の親子を囲むもっと大きな社会的背景があります。


現在の日本社会には、「子どもをコントロールできない親は、親として失格だ」という考え方が根強くあります。同じような考え方に、「子どものしつけは親の責任だ」、「人に迷惑をかけないように育てるのが、親の最低限の義務だ」というような考え方があります。このような考え方は、親を取り巻く、祖父母、親戚、ご近所、保育所・幼稚園、学校などの中に広く、根強く存在します。しかし、一番、問題なのは、親自身の中にこのような考え方が強力に存在することです。わが子が、自分の指示や要求に従わなかった時、つまり子どもが自分(親)の思う通りに動かなかった時、親は強烈に「自分は親としてダメなんだ。」という思い(みじめさ、屈辱感、不安等)に襲われます。その結果、怒りとともに、暴力を使っても子どもを従わせようとしてしまうのです。


わたしの考えでは、おとな(親や教師等)が、子どもにできること・すべきことは、大きく分けて二つしかありません。一つは、「子どもをコントロールすること」です。子どもをおとな(親や教員等)の思い(「こうであってほしい」などの思い)のとおりに成長させることです。もう一つは、「子どもをエンパワメントすること」です。エンパワメントとは、子どもの持っている力をさらに大きく・強くすること、子どもの持つ力を伸ばすことです。ひと言で言えば、「力づける」ということです。どうもわたし自身を振り返って見ても、われわれ日本のおとなの頭には、「子どもをコントロールすること」しかないように思います。


ここで考えておかなければならない重要なことが二つあります。一つは、子どもを完全にコントロールすることは、誰にもできないということです。子どもは、生きています。生きているものを完全にコントロールすることは、誰にもできません。もう一つは、コントロールとエンパワメントの両方をしっかり行うということは、そもそも不可能なことだということです。コントロールを強めれば強めるほど、エンパワメントはむずかしくなっていきます。おとなが子どもをこうさせたいと思っていることが、子どもがこうしたいと思っていることと一致している場合は問題がないのですが、多くの場合、程度の差はあれこの二つは一致しません。その時、おとなが子どもの「こうしたい」を否定して、自分(おとな)の「こうしたい」を子どもにやらせた(これがコントロールです)時、たとえそれがどんな上手なやり方で、子どもの方からそれを望んだかのように仕組んでも、結果として子どもの持っている力は、おとなの力によって否定されているのです。


もちろん、だからと言ってコントロールは完全にやめて、エンパワメントだけにするべきだということを言っているわけではありません。子どもを育てるということは、常に両方の要素を持っています。ただ、育児とか教育の「目的」は、コントロールではなくエンパワメントだということは、しっかり踏まえておくべきだと思います。実際に、コントロールの観点だけで子どもを育てようとしても、それは必ず不可能の壁にぶつかります。そしてその壁にぶつかったところで家庭では児童虐待が、学校などでは教員の児童・生徒への嫌がらせ、暴言、暴力等が発生しているということは、すべてのおとなが理解しておく必要があると思います。