「安心、自信、自由」について
「安心、自信、自由」について
もう一度ここで、パワーハラスメントの話に戻ってみます。パワーハラスメントの加害者も、パワーハラスメント自体を良いことだと思っている人はいません。また、相手の人権を侵害して良いと思っている人もいません。だから、パワーハラスメントの加害者に、パワーハラスメントがいけないこと、許されないということ、人権は尊重しなければならないということを何回繰り返して言っても、効果はありません。「そんなことはわかってるよ。」と言い返されるのがおちです。しかし、加害者、そして加害者に共感している人たちの本音は、「もちろん、パワーハラスメントはいけない、人権は尊重しなければならない。でも、あの人はひどすぎるから、そんなこと言ってられない。あんなの放っておいたらみんなが迷惑する。」というものなのです。つまり、加害者などが認めている「人権尊重」は、「条件つきの人権尊重」なのです。そして、その条件から外れてしまう人に対しては人権尊重など無理だし、する必要もないし、したらとんでもないことになる、そう思っています。その結果、さまざまなところでパワーハラスメントが起きているというのが現実なのです。つまり、相手がどんな「ひどい人」、自分や周りの人に迷惑をかけ、被害を及ぼしているように見える人であっても、それでも、その人の人権は尊重しなければならないということが納得できない限り、パワーハラスメントもさまざまな人権侵害もなくなることはありません。
では、なぜ相手がどんな「ひどい人」であっても、その人権は尊重されなければならないのでしょうか。かつてわたしは、それは「どんな人でも、その人が人である限り、人としての尊厳を持つからだ」と考えてきました。しかし、人権よりも、「人としての尊厳」の重要性の方が、実は説明しようとするともっとむずかしいのです。
そんな時、森田ゆりさんの本を何冊か読んでいて、これだと思ったことがあります。森田さんは、児童虐待などについて書いた本の中で、基本的人権の柱は「安心、自信、自由」の三つだと書いていました。それを読んで、わたしは、「これだ。これが人権の、人としての尊厳の中身なんだ。」と思いました。森田さんは、「安心、自信、自由」の三つが保障されなければ、子どもは生き生きと生きることができない。だから、この三つはすべての子どもに保障されなければならないと書いていました。しかし、このことは子どもに限ったことではありません。おとなもまた子どもと同じように、自分の「安心、自信、自由」が保障されなければ、生き生きと生きていけない、生きていてうれしくないのです。
「安心、自信、自由」ということを、わたしなりに言い換えてみると、こんなふうになります。「安心」とは、ひと言で言えば、「わたしはここにいていい」という思いです。「自信」とは、「今のわたしはこれでいい」という思いです。「自由」については、森田さん自身が、日本人は「自由」と言うと、すぐに「わがまま勝手」と考える。しかし、本来の自由はそういうことではなくて、「選択する自由」のことだと書いています。ただ、それでも日本では誤解が生まれそうなので、わたしとしては、ここで言う「自由」を、「わたしのことはわたしが決めている。つまり、わたしがわたしの人生の主人公だ。」という思いだと言い換えたいと思います。例えば、学校でいじめにあっている子が、まず奪われるのが、「安心(わたしはここ(この教室)にいていいんだ)」という思いです。この三つの中で、「安心」は比較的理解しやすいのですが、「自信(今のわたしはこれでいい)」という思いと「自由(わたしのことはわたしが決めている。つまり、わたしがわたしの人生の主人公だ)」という思いについては、もう少し説明が必要になると思います。