河和田八景

 

 水戸藩主徳川斉昭の「水戸八景」に倣って、天保13年頃河和田八景が選ばれた。

 

 

報佛寺暮雪(ほうぶつじのぼせつ)

 宗祖親鸞の面授(直弟子)唯円房の事蹟や歎異抄で有名な寺。県指定文化財の大黒天像や、往昔河和田城主であった春秋尾張守幹勝が、前身の泉渓寺に奉納した阿弥陀像がある。河和田城址正門の近くに移ったのは元禄のはじめである。山門深く、境内の暮雪は幽玄である。

 

吉田晴嵐(よしだのせいらん)

 吉田神社は、佐竹時代は八幡社であった。2代目藩主徳川光圀の元禄9年、大和武尊を合祀して吉田神社に改められた。神体は軍扇、源義家の奉納という。高い森に囲まれ、見上げるような樅の木の枝を鳴らす風と共に<村の鎮守様>にふさわしい。

 

膳棚帰漁(ぜんだなのきぎょ)

 膳棚は、若芽や紅葉が美しい。水戸光圀が愛したというこの辺は、桜川流域でも風趣の良いところである。桜川の水が自然の岩石によってあたかも堰(せき)のように止められ、飛沫(しぶき)を上げて流れ落ちる上に、樹々の枝葉が深く繁るさまは、家族ハイキングにもいいだろうし、奇岩の観察もできる。というのは、大正の末、水流の砂岩の中に帆立貝や巻貝、その他の化石が発見されているからである。

 

高間原秋月(たかまがはらのあきのつき)

 現在は、高天原と書く。桜川が八幡橋の上流で左へ蛇行する崖渕のやぶに立札がある。しかし、もう少し坂を登って、現在の団地の入り口あたりが本当だろうと思う。桜川の流域が広く見え、遠く県境の連山とすすきのそよぐあいだに中天の月が、かいま見られたろう。

 

天徳寺晩鐘(てんとくじのばんしょう)

 天徳寺の、幾百年の年輪を刻んだ枯杉の塔は、森の深い中城の、一つの象徴であった。古城址の繁った森に、野面を渉り、鐘楼の鐘の音が吸われていくと、赤ん坊の泣き声などさせて、夕闇の中で畠を耕していた人達も、夕餉の支度に家路を急いだであろう。

 

建面落雁(たておもてのらくがん)

 八景の立札は<広面落雁>になっているが、正しくは<建面>である。河和田団地の見える処で、いまは雁の群れはなく、白鷺が田面をついばんでいる。よく晴れた冬の日に、日光連山も望まれる。

 

西宿夕照(にしじゅくのせきしょう)

 西宿は春秋氏が城主であった頃、宿場として栄えたところである。その外れの埃っぽい畠地の双方から窪んだところを長谷川が流れていた。河和田城の壕に水を引いたり、落としたりしたのだが、今は細い溝でしかない。この辺から、森に落ちてゆくオレンジ色の夕陽を見ることができる。

 

道場池夜雨(どうじょういけのよるのあめ)

 榎本、塩街道に面して田が尽きるところに小さな杜があり、藪の中に<心>の字を形どった池と大谷勝信師の碑がある。700年前念仏道場を開いた「歎異抄」の著者唯円房の旧跡で報佛寺発祥の地である。この付近の夜の雨には風情があったろう。

 

 

 

河和田十勝

 

 十色ともいう。河和田八景と同じ頃、地元の庶民の中から生まれた。

 

 河和田十勝は、河和田八景と同じ時期の天保年間に選定され、東茨城郡郷土史(大正11年発行)や東茨城郡史(昭和2年発行)等でも紹介されている。

 

 

桜川春風

 元禄9年、水戸光圀が真壁郡桜川の地より桜苗をとりよせ、両岸に植え、謡曲に因んで桜川と名付けた。享保、元文の頃は、花見客が沢山訪れたという。桜川由来の碑がある。

 

鹿島神楽

 河和田1丁目の鹿島神社。縁日などには笛や太鼓を鳴らし、賑やかな囃しがきこえたであろう。

 

外城秋月

 河和田城外の畠地である。吉田神社から、滝山、館氏の邸のあたりは比較的高みで付近にはすすき野などがあったかもしれない。

 

中城晩雪

 河和田城址は深い森である。藪や土塁、濠に吹き溜まりとなった雪は、人けのない夕べに浮きあがり、静寂にくれる。昔の三の丸。

 

広面各嶺

 八景の建面落雁と対をなす。遠く下野(しもつけ)境の山波、名嶺、そして日光・女峰連山から那須岳までも見える。冬は櫛の歯の積雪。

 

長谷原(ながらや)秋色

 長谷原は長谷川(現在若干溝が残っている)の水源、隣接する弁天とともに民家は少なかった。林がおく、弁天池があり、春秋兵部の首塚もあったというが今はない。

 

谷中朝霧

 国道50号バイパスが通り、面影はもうないが、低地で桜川に沿う広い田から霧がたちこめ、畠地や道を這うのであろう。

 

榎本自雨 (自雨は、白雨が正しい可能性が 高いが、資料不足の為に現在未確認)

 自ら降るのは、つゆかもしれない。塩街道沿いの一帯、農地と田、畔草、そして道場池がある。市が立つと旅人の笠がゆれる。

 

庚申(こうしん)台帰馬

 丹下は水戸藩の牧場(まきば)であった。一の牧、二の牧、桜の牧など地名、堤が残っている。 庚申塚は、50号バイパスの下になってしまった。(500メートルほど東北の林の道にもある)

 

下ノ内砧(きぬた)声

 下ノ内、砧は碪。布板(きぬいた)の略で、織った布や洗濯した布をたたいて柔らかくし、また織目をつめてつやをだす作業。またはそれに用いられる木槌、と百科辞書にある。昔、農家では、機織りと共に夜なべでそのような作業が行われた。「碪打ちて我に聞かせよや坊が妻」と芭蕉の「野ざらし紀行」にある。秋の夜の詩情を誘うものとして、古くから詩歌にうたわれ、能や邦楽の題材ともなっている。

 

(このページは、ワードの文書をHTML変換したものです。エクスプローラー以外のブラウザでは正しく表示されないかも知れません)

<終了>

 

HOME