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「かわわだ」(河和田及び水戸郷土資料より)

河和田の歴史

 < 河和田の語源 >

河・・・・・川・箕川(みがわ・見川)・桜川
和・・・・・歪曲(輪・和)
田・・・・・湿地帯・水田
「水に恵まれた、川(桜川)の周辺の湿地帯(稲作地帯)」という意味であると思われる。

 水戸市と笠間市の境の山麓と内原町あたりに発する細流が東に流れ、その本流は千波湖を経て那珂川に入る桜川の周辺は、古来より水に恵まれた地域だった。
 河和田周辺には、桜川の他にも、河和田小学校の西方より流れる長谷川があり、その西には弁天池もあり、周辺を潤していた。また、現在赤塚小学校があるところは、耕地整理前はこの辺りの水源池であった善兵衛池の大半を埋め立てた場所である。
 奈良時代には、那珂郡隠井(かくらい)郷の「川和田」と記されていた。
 鎌倉時代の資料には、「河和田」と表記されたものがある。
 江戸時代、寛永11年(1635)の水戸領郷高帳先高には「川和田村」とみえ、天保郷帳では「河和田村」とある。「加藤寛斎随筆」の四郡村名沿革の項には「河和田古名川和田 文政二改」とあり、「水府志料」には「近く川和田に作る。今河に改め古に復す」とみえるが、同書の他村の項では、「川和田村」「河和田村」とみえる。また「新編常陸国誌」は「川和田」で立項し「川又河ニ作ル」とあるから、川と河の区別はさほど厳密でなかったと考えられる。
 明治維新後、新政府になってからは「河和田(かわわだ)」で統一された。

 < 郷土の黎明・原始時代 >

 日本列島にいつごろ人類は登場するのであろうか。かつては、縄文時代以前の日本列島には、人類は住めないと考えられていたが、今では日本列島各地で、縄文時代以前の旧石器時代の遺跡が発見され、人類の生活の痕跡が明らかにされた。
 旧石器時代は、土器の使用は見られず、打ち欠いた打製石器を使用して狩猟や採集の生活をしていた。この時代は、地質学上からは新世紀代第4紀のなかの更新世にほぼ一致し、寒冷な氷期と比較的温暖な間氷期が繰り返された時代である。人類は、更新世初期の300万年前ごろ地球上に登場し、猿人から原人そして旧人へと進化し、さらに3万年前ごろに現在の直接的な先祖である新人が登場したといわれている。
 日本における旧石器時代の上限は、近年の発掘調査により50万年前に遡る可能性があり、原人(ホモ・エレクトス)が存在したものと考えられている。茨城では、3万年以上前の前期旧石器時代の遺跡はまだ確認されていない。後期旧石器時代、リス・ヴィルム間氷期が終わり、最終氷期であるヴィルム氷期に入り、最も寒冷の時期を迎えた2万年前から18000年前には、海水が低下し、日本は大陸と陸続きになっていた。この時期に、マンモス・ヘラジカなどの動物群は、大陸から渡り東日本まで到達している。また、在来種のナウマンゾウ・ヤベオオツノジカは北海道にまで拡がって生息しており、旧石器時代の人々は、これらの大型獣を狩猟の対象として生活していたのである。
 茨城県内の最古の石器は、山方町山方遺跡から発見されている。水戸市域からは、赤塚遺跡から出土したものが今のところ一番古く、そのほか、成沢遺跡・十万原遺跡・馬場尻遺跡など数遺跡が確認されている。桜川左岸標高34mの台地上に立地する赤塚遺跡は、国道50号線バイパス道路工事に伴う事前調査によって発見されたものである。調査結果によれば、赤塚遺跡では母岩から剥片がはぎ取られ、石器作りが行われていたことが確認された。石器の形態から考えて約2万年前の時期であると思われ、最終氷期のもっとも寒冷化が進んだ時期の遺跡であると推察されている。

       
     (旧石器時代の石器・赤塚遺跡)

 < 縄文時代(狩猟・魚撈・採集の生活) >

 今から、約12000年前ごろに、気温は、寒暖の時期の繰り返しを経て温暖な時代へ向かうようになり、ナウマンゾウ・オオツノジカなどの動物群は姿を消し、新たにシカ・イノシシなどの動物が生息するようになる。このような環境の移り変わりは、人々の生活にも大きな影響をもたらす。この時期になって、はじめて土器と弓矢が出現する。土器の出現については、日本発生説や大陸からの伝来説などがあって、はっきりしないが、これが食料の煮沸・貯蔵のためのものであることは確実で、弓矢は、ナウマンゾウなどの大型獣に代わるシカ・イノシシなど俊敏な小型獣の狩猟に威力を発揮し、狩猟の方法を一変させた。
 この時期の土器の表面は縄を転がしてできる文様であり、この土器を縄文土器、縄文土器が使われていた時代を縄文時代と呼ぶようになる。縄文時代は、今から約12000年前から稲作耕作が伝わるまでの約1万年もの長い期間続き、草創期(12000年〜10000年前)、早期(10000年〜6000年前)、前期(6000年〜5000年前)、中期(5000年〜4000年前)、後期(4000年〜3000年前)、晩期(3000年〜2300年前)の6期に分けることができる。
 赤塚西団地造成に伴う調査によって発見された赤塚西団地遺跡(河和田町)は、桜川右岸の標高33mの台地上にある。赤塚西団地遺跡からは、土器は発見されていないが、大型の槍先型尖頭器が発見されており、土器の発生期の遺跡のひとつと考えられる。
 早期には、地面に掘り込んだ竪穴住居が造られるようになる。このころは、気候の温暖化に伴い、自然環境の向上とともに生活は好転していったようで、水戸市内各地に小規模の遺跡が増えてくる。アラヤ遺跡(渡里町)からは7基の竪穴状遺構が発見されており、村の存在も考えられる。
 早期末から前期前半になると、気温の温暖化に対し海水面の上昇は最高に達し、海水面も陸地に侵入する海進(かいしん)がはじまった。貝塚は、那珂川流域の水戸地域では、現在の海岸線から直線距離で13キロも奥に入った柳崎貝塚(千波町)や谷田貝塚(谷田町)に存在する。海進がこの地域にも及んでいたことを示している。この時期の最大の貝塚は大串貝塚(塩崎町・国指定史跡)である。大串貝塚は、奈良時代に編さんされた「常陸国風土記」にも記され、貝塚が文献上に紹介された世界最古の例として広く知られている。
 縄文時代中期から後期になると集落の規模も広がり、また遺跡の数も増えて、各地に大規模集落跡を残している。高天原遺跡(河和田町)からは住居跡が発見されている。
 中期になると海水も減っていったと考えられるが、市域では、中期から後期にかけての貝塚として下の内西貝塚(谷田町)や吉田貝塚(元吉田町)がある。貝塚には、貝類だけでなく獣や魚の骨なども残されている。中期から晩期の遺跡にみられる多種多様な石器の用途から考えてみると、縄文人は自然の移り変わりのなかに身を置き、これに巧みに適応しながら、生活のサイクルを組み立てていたのではあるまいか。つまり、自然との調和を考えながら生活のリズムを工夫していたように思われるのである。ときには、自然の猛威に直面してひたすら天と地それぞれの神に対して祈りを捧げる日もあったと思われる。
 晩期の遺跡の数は、極端に少なくなってきており、自然環境に対応した生活の継続が困難になったのであろうか。土偶・土板などの呪術を物語る遺跡がこの時期に多くなるのもこの気候の変化と何かの関係があるのかも知れない。

         
       (縄文土器・高天原遺跡)

 < 弥生時代と農耕文化 >

 弥生時代は、わが国に水稲耕作が伝わった紀元前4世紀ころから、前方後円墳が造りはじめられる紀元3世紀後半までの約700年間をいう。
 稲作の起源は古く、中国ではすでに紀元前約5000年前ごろに発生したと推定されている。わが国に稲作文化が及んだのは紀元前4世紀ごろで、まず最初に北九州地方の北部に伝わり、各地に広まっていった。水稲耕作に基づく農耕社会の成立により、従来の狩猟・魚撈・採集の縄文時代の社会と は大きく変わっていった。木製の生活用具やこれらを作るための各種の石斧と、鉄の工具や武器等に初めて金属器が使用されるようになり、機織(はたおり)などの紡績技術も伝わってきた。水稲耕作の改良や栽培技術の進歩によって生活は向上し、人口の増加につながった。北九州に伝わった弥生文化は、前期(紀元前4世紀〜紀元前1世紀)末ごろまでには伊勢湾一帯まで波及し、中期(紀元前1世紀〜紀元1世紀)末までには、仙台湾沿岸まで広がっていったが、寒冷地の北海道までは普及するに至らなかった。
 茨城地方における最初の弥生時代の遺跡は、中期前半で、水戸市内では十万原遺跡(藤井町)から中期前半の土器が発見されている。中期の遺跡の広がりは決して大きくなく、当時は小規模の集落が点々と存在していたものと考えられる。わずかの水稲耕作では、1年分の食糧の確保には不十分であり、縄文時代からの狩猟や植物採集なども同時につづけられていた。
 後期になると、集落は、河川の沿線や小支谷の台地縁辺部に形成されるようになるものの、依然として小規模な家族集団による村が作られていたと推定される。桜川左岸台地上に位置する松原遺跡(加倉井町)は、後期前半の村である。
 後期後半の3世紀になると大きな集落が作られるようになる。このころの遺跡としては、桜川右岸の台地上に拡がる薬王院東遺跡などがある。

       
       (高天原古墳群)

 < 古墳時代 >

 3世紀後半ごろ、畿内地方に個人の埋葬のための大きな墳丘を持つ古墳が造られるようになる。古墳は、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳などのさまざまな墳形をもち、全国各地に普及していくので、3世紀後半から7世紀後半までの400年間を古墳時代と呼んでいる。赤塚遺跡(赤塚古墳群)は、この時期の集落跡である。
 弥生時代の稲作は、低湿地の水害や干害の防止、あるいは土地や水の管理などのために共同で作業しなければなかった。はじめ、彼らは数個の家族群を共同体として集落を形成していたが、やがてこれらの「村」の首長の中には、恵まれた肥沃な土地を背景に勢力を伸ばす者も出てきて、彼らは周辺の弱小な「村」を支配するようになる。この首長たちは、見晴らしのきく土地に大きな墓を築く。その数は、全国で数十万基にも達するといわれる。
 古墳時代は、一般的に前期(3世紀後半〜4世紀後半)・中期(4世紀後半〜5世紀終末)・後期(6世紀〜7世紀中頃)の三期にわけられる。
 赤塚遺跡では、中期の集落跡が発見されている。住居跡のなかから滑石製模造品の勾玉(まがたま)などが出土しており、これらの遺構では、特別な祭事が行われていたものと考えられる。
 前期から中期の竪穴住居には、中央床面に作られた炉があるが、中期後半になると北壁中央部に竈(かまど)が設けられるようになる。炉から竈の変化は、火力のコントロールとともに、コメを炊くことから蒸すことへという大きな食変化の結果である。水戸市域にみられる後期の住居跡はすべて方形で、北側の壁の中央部に竈が備えられている。
 6世紀の頃、この地域では、文化の光を浴びはじめた人たちが桜川両岸に住居を構えていた。とうぜん、稲作りも行なわれていただろうし、大和朝廷の勢力圏内に入っていったのであろう。赤塚古墳群は、団地造成と国道50号線バイパス道路工事のために、多くが破壊されてしまったが、河和田団地内の児童公園に貝式古墳が現存する。

   
  (須恵器と住居跡・赤塚遺跡)

 < 奈良時代 >

 大化改新(645年)のあと律令制度ができ、霊亀元年(715)に郷里制がしかれた。 那珂郡22郷の「隠井郷」の中に「川和田」の地名があり、那珂郡衙(が・群役所)が河和田にあったという説もある。 河和田は那珂郡隠井郷の東南端にあった。隠井郷は、桜山下の峡谷を堺にして東は常石(ときわ)郷に接し、南は桜川を堺として吉田郷、西は茨城郷、北は全隈(またぐま)郷と接していた。大体、県道岩間街道以北、国道50号以南の地で、西端大足(おおだら)、東端見川の略地がその広さであった。令(りょう)の基準通り計算すれば、当時の戸数50戸前後、人口1400人位であったろうと思われる。
 当時、京まで30日の日程を要し、毎年8〜12月の間に税をたずさえて、はるばる奈良の都まで往復したのは大変なことだったろう。それにもまして、防人(さきもり)、衛士(えじ)となって、西国や京の御所の警備に年交代で出かけた村人の記録は、苦汁を飲む生活であったろうと想像される。(兵士1人出せば1戸滅ぶ、と言うほどだった。)
 班田収受制(はんでんしゅうじゅせい)から逆算すれば、1400人の5分の2が正丁(せいてい)、5分の2が丁女(ていじょ)とみて、隠井郷全体で口分田(くぶんでん)は約186町あったと計算される。
 この頃(750年前後)、常陸国分寺建造と前後して、渡里に徳輪寺とよぶ壮大な寺院が建立されている。河和田の住人たちも、その偉容に驚嘆の眼を開いたであろうし、また、その建設に当たっては、わが家の生活は次にして、労役、資材の提供に相当の努力が傾注されたことであろう。

 < 平安時代・大掾氏の水戸地方支配 >

 諸国に下った京の貴族たちは、中央政府からの役人として、官をやめても、その任地にとどまる者が増えていった。常陸国でも、平国香(たいらのくにか・平将門の伯父)が常陸大掾(ひたちだいじょう)として赴任して、その子孫がそこに永住するようになった。常陸国の長官は皇族の親王で京にとどまり、現地には来なかった。その実権を握ったのは大掾たる平氏であった。平氏(常陸平氏)は代々、大掾を世襲したので、職名が家名となり、大掾氏(常陸大掾氏)と称して常陸国内に確固たる地盤をきずいていった。大掾とは、律令制の地方官で、守(かみ)・介(すけ)に次ぐ三等官である掾(じょう)の筆頭である。
 1193年頃、国香の8代目の子孫にあたる馬場小次郎資幹(ばばこじろうすけもと・平資幹)は、現水戸一高内にあった明神様の馬場に居を構え、大掾氏を継いだので、馬場大掾(ばばだいじょう)と呼ばれるようになった。ここより府中(石岡・常陸国の中心地)に通って、国司の任務をはたしていた。
 この時資幹が築いた館が、水戸城のおこりといわれている。

 建保2年(1214)の頃、浄土真宗の開祖である親鸞(しんらん)聖人が越後から稲田(笠間市)に移り住んだ。建保6年(1218)には、親鸞の直弟子唯円(ゆいえん)(唯円房・唯円大徳)が河和田の榎本(えのもと)に念仏道場を開いた。 親鸞もしばしば道場に来て布教したと伝えられている。唯円は親鸞の教えを記して「歎異抄」(たんにしょう)を著したといわれている。現在の河和田の報佛寺(ほうぶつじ)は、唯円が開いた道場を受け継いだ寺と伝えられている。

 < 武士の時代・江戸氏の登場 >

 北朝建武3年、南朝延元元年(1336)、大掾氏の家臣鍛冶弾正貞国(かじだんじょうさだくに・川和田入道)がいわゆる中妻33郷の地域(那珂西郡の南部、藤井川・桜川・涸沼川の上流地域)を支配するために、河和田に館を築いた。これが河和田城のおこりといわれている。

 南北朝の動乱のなか、常陸国内でもいつ果てるともない戦乱が繰りひろげられていた。健武3年(1336・河和田城築城と同じ年)、南朝方の拠点瓜連城(那珂郡瓜連町)の楠木正家(まさいえ)を足利方の常陸国守護佐竹貞義(さだよし)が攻めた(瓜連城の戦)。清和源氏の流れを汲む常陸国の名門豪族佐竹貞義は、前年の中先代の乱(1335年)の功績によって足利尊氏(たかうじ)から常陸国守護に任じられていた。戦いは佐竹軍の勝利となり、瓜連城は同年12月に落城した。この時、南朝方であった那珂通辰(みちとき)は一族とともに全滅したが、通辰の息子通泰(みちやす)だけが難を逃れて生きのびた。那珂氏は、伝説の将軍と云われる藤原秀郷(ひでさと)の流れを汲む豪族で、水戸の台地と那珂川北岸の平野を見はるかす、那珂西丘陵の突端に城を構えて、大きな勢力を擁していた。何故通泰だけが難をのがれることができたのか、その事情を明らかにする史料はないが、その後の行動から考えて、通泰は佐竹一族と何らかの親近関係があったのではないかと思われる。
 通泰は、その後足利方となり、足利尊氏軍の高師泰(こうのもろやす)に従って石見国(いわみのくに・島根県)で戦い、その戦功により江戸郷(那珂郡那珂町下江戸)を与えられた。通泰は佐竹氏の配下に入り、通泰の子通高(みちたか)は土地の名からはじめて江戸氏を称した。江戸氏は佐竹氏との姻戚関係を結んで関係を深め、一族同様に重んぜられるようになる。
 江戸通高は、難台城(なんだいじょう・難台山・西茨城郡岩間町)での戦(1387〜1388年)で、佐竹義宣(よしのぶ)の家臣として奮戦したが、城攻めの際に戦死した。鎌倉公方(室町幕府下の鎌倉府の長官)足利氏満(うじみつ)は、戦死した通高の戦功を認め、通高の子通景(みちかげ)に、恩賞として難台城の戦での活躍が不十分であった大掾氏の旧領河和田・鯉淵(こいぶち)・赤尾関(あかおせき)などの地を与えた。
 河和田城は貞国の子貞基(さだもと)が継いでいたが、応永年間(1400年頃)、江戸通景が恩賞として貰った河和田に入り、貞基は追放された。河和田城は、江戸氏の手に帰した。さらに、通景は加倉井の豪族加倉井氏などの在地勢力とも結んで、中妻33郷の地域に支配権を固めていく。
 こうして、一族滅亡の危機から脱して江戸氏として再生した那珂氏の子孫は、河和田城主となり、有力な豪族として水戸地方に登場した。那珂通泰は、江戸氏の祖となったのである。
 馬場の館(後の水戸城)にいた常陸大掾平満幹(みつもと)は、江戸氏の進出に対抗するために館の修築をおこなった。満幹は府中城に居住していたが、馬場の館は水戸地方支配の拠点であった。

 < 大掾氏の衰退・江戸氏の時代へ >

 応永23年(1416)10月2日、足利義嗣(よしつぐ)はじめ各地の諸氏と倒幕の密約を結んでいた上杉氏憲(うじのり・禅秀)が幕府に叛旗をひるがえし、鎌倉公方足利持氏(もちうじ)を突如襲撃した。これには、関東管領や上杉憲定(のりさだ・佐竹義人の父)に対して不満を抱いていた東国の諸豪族や国人衆が禅秀方に加わったので、関東一円は一時に収拾のつかない内乱状態に陥った。(上杉禅秀の乱)
 これよりさき、大掾満幹は上杉禅秀(ぜんしゅう)の四男教朝(のりとも)を養子に迎えていた。しだいに増強されていく佐竹氏の勢力をみて、大掾一族の前途に不安を感じていた大掾満幹は、反管領派の禅秀党に与することによって、一門の勢力回復を図ろうと考えていたのであろう。しかし、やがて室町幕府の支援によって禅秀党はついえ、応永24年(1417)1月10日、禅秀らは鎌倉雪の下で敗死した。ここに、さしもの大規模な動乱も治まり、この結果、大掾氏は管領方に降伏した。こうして、上杉禅秀の乱をきっかけに、大掾氏の勢威は一層弱体化してしまった。
 のみならず、この頃、旧支族が本宗の支配を離れて、それぞれの所領郷村などを拠り所に独立していき、本宗の勢力は急激に衰退していった。大掾氏の場合もその例に異ならず、禅秀党となった本宗家と離反して、管領方の手に属し、戦に功をたてた者もいた。水戸を中心とした常陸大掾氏も、同族的関係はほとんど有効な紐帯(ちゅうたい)ではなくなってきており、支族は旧来の秩序から解放され、みずからの実力でそれぞれの地域の支配者になっていった。こうして、大掾氏は常陸大掾の本宗から一地方領主化していたが、その上、水戸と府中との間には江戸氏をはじめとする勢力があり、しだいに孤立化した。

 応永33年(1426)、河和田城主江戸通房(みちふさ・江戸通景の子)は、上杉禅秀の乱後の大掾氏の衰退をみて、大掾氏の水戸地方支配の拠点である水戸城を奪った。
 しかし、江戸通房が水戸城に攻撃を加えた年代は、必ずしも明確ではない。それは、確かな証拠となる史料を欠いているからである。江戸氏の水戸進出については、確実な史料がほとんどなく、ただ徳川時代の史書に諸説が書き伝えられているにすぎない。応永29年説と応永33年説があるが、応永29年では通房はまだ13才であり、また同年は父親の江戸通景の没年であることを考えると、応永33年説が妥当であろうと思われる。
 6月21日、府中で青屋(あおや)祭(悪疫退散を祈る祇園会の祭礼)を執行するために馬場大掾満幹は一族家臣を伴って国府(石岡)に赴いていた。
 かねて水戸進出を企てていた通房は、満幹に自分の妹を嫁がせるなどして、見せかけの親交を結びながら、常に水戸城の隙を窺っていた。例年6月21日のこの行事には、満幹も参加して水戸城をあけることを、もちろん通房はよく知っており、この折りを絶好の機会としてねらっていたのであった。そして、6月23日、満幹がまだ府中に滞在して遊宴を張っているのをたしかめた通房は、その夜ひそかに兵を発して、春秋(はるあき)氏・加倉井氏・外岡(とのおか)氏など旗下の18人の精鋭とともに河和田から見川を通って笠原に至り、笠原の谷をわたって水戸城中に侵入、難なくこれを占拠してしまった。満幹はあわてて反攻を試みたが成らず、その後の幾度かの企ても空しく、ついに水戸城回復を断念して府中にとどまるに至った。
 以上が江戸通房の水戸城略奪事件のあらましである。
 水戸城を武力で押し取るに至った事情については、上杉禅秀の乱後、鎌倉公方足利持氏が禅秀党に与した大掾満幹から水戸の地を取り上げて、江戸通房に恩賞として与えたのではないかという説もある。(「東茨城郡誌」など)しかし、充分に説得力はあるがこれを証明する史料はなく、推論の域をでない。
 また、馬場大掾満幹の居城の位置についても、後の水戸城の地域ではなく、千波湖をへだてた吉田台地にあったのではないかと考える説もあるが、これも確たる史料がなく、徳川時代の学者たちはほとんど水戸城説に拠っている。

 大掾満幹とその子慶松は、永享元年(1429)12月13日、足利持氏によって、鎌倉雪の下の邸で攻め殺され、ついに大掾氏は水戸地方の勢力を失ってしまった。
 通房は河和田城から水戸城に移り、河和田城には旗下の春秋氏が城将として配置される。やがて春秋氏は江戸氏と血縁関係を結び、江戸氏の信頼できる重臣となった。
 また、この頃から、後の水戸城のあたりが「水戸(みと)」とよばれるようになったといわれている。
 江戸氏は、水戸を居城として支配圏を拡大し、天正18年(1590)没落まで、約1世紀半にわたって、中妻33郷を支配の基盤として、那珂川流域・涸沼(ひぬま)、更には鹿島・新治(にいはり)の郡域にまで勢力を伸ばした。春秋氏(春秋一門)は、河和田・見川・台渡(だいわたり)・田野を支配し、河和田城・見川城・長者屋敷(台渡)の城主であった。

          
          (江戸忠通の書状・鹿島神宮所蔵)

 < 河和田城主春秋氏・春秋一門について >

 中妻33郷とは、律令制下の正式な行政区画ではなく、その後、この地域の開発が進むにしたがって生まれてきた俗称であるが、その範囲は河和田を中心とする江戸氏の初期勢力圏とほぼ一致している。この地域で江戸氏の支配を支えたのは、鯉淵・赤尾関に分封された江戸氏一族、河和田を中心とする春秋氏一族、加倉井の豪族である加倉井氏、大足(おおだら)・開江(ひらくえ)の外岡氏などである。江戸氏家臣団については、当時の史料にも、後世の編さん物にも記されるところが少なく、詳しく知ることは難しい。断片的な史料をもとに史実と関連させるのみであろう。
 江戸氏の重臣としてもっとも有力な地位を占めたのが春秋氏であった。春秋氏はもと鹿島郡春秋村(大野村)に居た大掾氏一族であった。「東茨城郡誌」には「春秋氏は平氏にて、鹿島六郎宗幹より出つ、宗幹の次男立原次郎有幹の三男春秋三郎繁幹(鹿島郡春秋村に住す)と称せしものあり」と記されている。同族諸氏とともに早くから水戸地方に進出し、佐竹氏にも仕えていたと伝えられる。江戸氏の河和田占領に際し、その旗下に属し通房の水戸城進出を援けて、河和田城の守将に任じられた。この河和田の春秋氏に関しては、河和田の報佛寺に伝えられる、阿弥陀像台座の文明13年正月13日の造像銘に「檀那」として墨書される春秋尾張守幹勝が早い例である。文明13年(1481)といえば、江戸通房の嗣をついだ通長の時代であるが、この春秋幹勝はおそらく通房の代以来、河和田に居を占めていたものと考えられる。その後、通長の子(推定)通式が春秋幹勝の養嗣子となって、春秋上野介を名乗り、江戸・春秋両氏の関係はさらに密接となった。永正3年(1506)上大野極楽橋の勧進を行っている平通式がその人である。彼は天文末年頃に死没したらしく、六地蔵寺過去帳に「春秋上野道富」として書き載せられている。なお同帳にはこれに続けて、因幡守(道光)、能登守(道宗)、河和田林光(道晃)の名を記しているが、これを河和田春秋氏の歴代と見ることには疑問があり、通式の後については明らかでない。
 ところで、春秋一門には、この河和田の春秋氏のほか、台渡の春秋駿河守・田野の春秋兵庫助・見川の春秋石見守など諸氏の名が知られている。
 台渡の春秋氏については、台渡の勝幢寺棟札に「大旦那春秋駿河守」とあるのが根本史料である。摩滅のためいつ頃のものか不明であるが、これと同名の人物が、文明末年頃に江戸通長から小野崎越前守に送った盟約の起請文の中に現われてくる。すなわち通長が同書の末尾に「巨細は定めて春秋駿河守申すべく候間、略せしめ候」と記しているのがそれである。この時江戸氏は額田小野崎氏との関係を断って、石神小野崎氏との盟約を固め、佐竹氏の配下における自らの地位を有利に導こうとする策謀をめぐらし、家臣の春秋駿河守を使節として石神城に派遣しているのである。上記両史料の駿河守が同一人物とは限らないが、これが台渡の春秋氏であることはまず疑いないであろう。とすれば、台渡の春秋駿河守と河和田の春秋尾張守は、江戸通長の時代に共に江戸氏の権力首脳部をなしていた重臣であるということができる。
 見川の春秋氏については、延徳年間(1489〜91)見川城に春秋石見守幹光(河和田城主春秋尾張守幹安の第二子)という者がいた、と伝えられるだけである。しかし、見川城は水戸城にきわめて近く、現在も大規模な遺構をはっきりととどめていることを見ると、江戸氏がここに重臣春秋一門を配置し、水戸城の守りを固めたと考えられる。
 田野の春秋氏については、かなり時代が降って、天正12年(1584)田野の鹿島大明神再興の棟札に、大旦那として現われてくる春秋兵庫助重元が知られる。重元は江戸重通(しげみち)の水戸城没落と行をともにし、ついで結城(松平)氏のもとで重通の息子と共に仕官するなど、少なくとも江戸氏の末期には、重道の側近の地位にあったことが明らかである。重元は、江戸氏が結城へ落ちのびた後、結城秀康(ひでやす・家康の次男)・松平忠直(ただなお・秀康の子)に仕え、大阪の陣にも加わった。
 以上の春秋四氏がそれぞれの地にいつ頃分封されたかはわからないが、その分布状態を見ると、河和田と見川は桜川によって結ばれて水戸城に続き、田野と台渡は那珂川の自然堤防に沿って水戸城へと連なっている。つまり、これらの諸地は初期の江戸氏領国のいわば背骨のような形を示しているのであり、春秋氏一族が早くから江戸氏家臣団の中でいかに重要な地位を占めていたかが、充分に推測できる。(「水戸市史」上巻)

 < 佐竹氏の水戸進出・江戸氏の終焉 >

 天正18年(1590)3月1日、豊臣秀吉は大軍を率いて京都を出発し、4月初めには小田原城の北条氏政を包囲した。太田城(常陸太田市)を根拠地として勢力を伸ばしていた佐竹義宣(よしのぶ)は、石田三成らに迎えられて小田原へ参陣し、5月27日、秀吉に謁見した。これにより、豊臣政権下での佐竹氏の地位は保証されることになる。これに対して、水戸城主江戸重通は、小田原に参陣しなかった。このことが、江戸氏の立場を決定的に不利なものとした。
 8月1日、秀吉は、朱印状をもって常陸と下野(しもつけ)両国にある佐竹氏の所領を支配地として公認したが、その中には鹿島・行方(なめかた)などの常陸国南部諸郡や江戸氏の所領など、佐竹氏にまだ完全に服属していない諸氏の支配地もすでに含まれていたと推測される。秀吉は、義宣が「洞中の指出帳」(うつろちゅうのさしいだしちょう)として自己申告した「当知行」を、そのまま朱印状に目録別紙として添付し、佐竹領として保証したのである。
 義宣は、常陸国の中原に位置し、また水上交通の要地でもあった水戸城獲得を企て、江戸重通にその譲渡を求めた。しかし、重通が義宣の要求を強く拒んだため、佐竹氏は水戸城への武力進攻を決意する。とはいえ、すでに天下統一は成り、豊臣政権の支配秩序が成立しているこの時期で、秀吉の権力を背景とする佐竹氏に対し、江戸氏はいまやその公認を得ない地方の一勢力にすぎなかった。義宣にとって、水戸進出(江戸氏討伐)は、領国内部の内政問題として処理できたのである
 同年12月19日、義宣軍は太田を出発して、久慈川を渡り菅谷(すがや・那珂町)をへて後台(ごだい・ひたちなか市)にいたった。重通はこれを聞いて、わずか100騎ばかりを率いて那珂川を渡り、江戸氏一族の枝川重氏(しげうじ)らと合流して200騎で義宣軍と戦った。いっぽう、義宣の父の義重軍は久慈浜(日立市)をへて村松(東海村)より勝倉(ひたちなか市)にいたり、江戸軍の谷田部通直(みちなお)・同通明(みちあき)らと戦い、これを破った。義重軍は勝ちに乗じて枝川館を焼き打ちして那珂川を渡り、水戸城に迫ったので、重通は急いで水戸城に帰陣した。義宣軍は、青柳(あおやぎ)で那珂川を渡り、神生平に突入、このときすでに義重軍は天王郭(てんのうくるわ)に攻め入っていた。
 これよりさき、佐竹軍の別の一隊の長倉義輿(ながくらよしおき)は大沢氏・和田氏らを率いて中河内(なかがち)から那珂川を渡り、袴塚(はかまづか)に陣し、さらに、常葉(ときわ)にいたった。江戸氏一族の江戸兵庫がこれを防ごうとしたが破れ、兵庫以下27人が討死、長倉軍は進撃して義宣軍と合流した。
 こうして佐竹軍は、三方から水戸城を急襲し、郭内に火を放って攻め入った。重通も奮戦したが及ばず、水戸城は落ち、子実通(さねみち・宣通・重通の二男)とともに城を棄て、妻の兄結城晴朝(はるとも)を頼って結城城に落ちのびた。重道は、数年後結城にて失意のうちに死没する。実通は、佐竹義重の娘を妻としていたが水戸城落城の際に別離。後に「水戸三七」と改名して結城(松平)家に仕えている。
 翌20日、佐竹軍は、小幡・河和田・平戸の諸城10城・18砦を焼き払った。こうして、茨城・鹿島・那珂3郡の江戸氏領はすべて佐竹領となった。(「常陸編年」)
 水戸城の陥落によって、応永末年以来160余年、7代にわたって郷土(河和田)の歴史に画期的な影響を与えた水戸における江戸氏の歴史は終わった。

 < 河和田城について >

 天正18年(1590)12月20日の佐竹軍による河和田への進攻によって、河和田城は1日で陥落し、数千の士民が殺され、民家は焼かれて河和田一帯は廃墟と化した。河和田城も廃城となり、春秋氏も滅亡したといわれている。「常陸誌料」には、水戸城落城時に討死をとげた江戸氏家臣名が列挙されているが、その中に春秋上野八郎(勝倉台にて戦没、谷田部氏の記にあり「東茨城郡誌」)を見ることができる。
 河和田の地は、河和田城落城以降は衰微の途を辿るのみとなった。河和田城は再興されることなく、濠や土塁などの遺構が残るのみとなったのである。春秋氏滅亡までの河和田は、この地方の中心に位置を占め、河和田城周辺はにぎわい、一時は水戸以上の威勢を示したといわれている。
 河和田城は、現在の地域でいうと北に天徳寺、西に河和田小学校、南西に八坂神社、南に報佛寺、その他を内包した東西510メートル、南北600メートルにおよぶ広大な範囲にわたる見事な平城であった。往時の城郭をしのぶためには現存の遺構をもとにして復元的考察を行うことが必要であるが、その場合、「川和田故城往古之図」という古図は、貴重な資料である。これは、城図としてはずさんな部類に属し、写実性や精密性を欠いたものであるが、大きな学問的価値を持つ。この城図によれば、城の土塁のほとんどすべてが同心円的に本丸を取り囲んでいることが明示されており、また定口(大手門)が南東方の報佛寺付近に開かれていたことや、八坂神社前の道路が故道に相当することなどがわかる。
 「水府志料」には「また外城、内城、那珂城(中城)といえる三坪あり」(巻2、茨城郡中)とあるが、その外城は岩間街道の北の地域から東方寄り一帯の地域あたりに現在「外城坪」(がいじょうつぼ・とじょうつぼ)という地名があり、また「内城」(ないじょう)は天徳寺に始まる河和田小学校の南東の遺構の内側の地域を取り囲む部分を総称している。那珂城「中城」(なかじょう)は河和田小学校の南東の地域(土塁などの遺構に囲まれる一帯)に相当するものと考えられる。したがって、この地域が城の中核部、すなわち本丸であったことは疑いない。
 河和田城一帯の地は地下水が非常に豊富で、この城が使用されていた時代には、現存する複雑な空堀は湧水や西方からの引き水により、適当な水量をたたえた水濠であったと考えられる。本丸は、五重または六重の土塁、三重または四重の空堀(または水濠)で防御されていた。その規模は広大であるが郭の配置から考えれば、決して複雑な進歩したものではない。土塁と土塁の間に郭を設けるなどの進歩した縄張りもみられない。土塁・空堀(水濠)の形式からすれば、加倉井館跡(加倉井町)の土塁・空堀と大差はなく、それを複雑にし、規模を大きくしたものといえる。やはり、戦国時代後期の平城と見るべきである。
 河和田城の存立期は、南北朝時代から戦国末期に及ぶ、約二世紀半の長期にわたるものである。そして、現存する遺構そのものから考えると、春秋氏の時代と深く結びつくことになる。

 < 佐竹氏秋田移封と水戸徳川家の誕生・困窮する河和田 >

 天正19年(1591)3月20日、佐竹義宣は太田城から水戸城に移り、水戸を新しい領国経営の中心地と定めた。義宣は強大な豊臣政権を背景として宿願の常陸国の統一を達成したのである。佐竹氏の水戸入城以降、文化の中心は府中から水戸へ移った。
 豊臣政権で北関東随一の大大名となった義宣は、水戸城の増築と城下の整備をするために、3年の月日をかけて大規模な拡張工事をおこなった。もとの二の丸を本城とし、三の丸を築いておもに武士の屋敷とした。また、現在の南町・大町・宮町あたりに商人町を開いた。城下の中でも、大町あたりの町造りに力を注ぎ、特別にこれを保護したので、商業も栄え有力な大商人も現われた。定期的に市も開かれるようになり、住民の生活も向上した。水戸は、常陸国随一の城下町として栄えるようになった。佐竹氏が水戸城にいたのは13年間だけだが、徳川御三家のひとつとして繁栄した水戸の町の基礎は、この佐竹氏の時代につくられた。

       
       (水戸城遠景の図・茨城大学教育学部付属小学校所蔵)

 関ヶ原の戦(1600年)後、徳川家康が天下を統一すると、関ヶ原の戦であいまいな態度をとり、いずれの陣営にも与しなかった佐竹氏は、慶長7年(1602)に所領を半分以下に減らされたうえ秋田へ移された。佐竹昌義(まさよし)が久慈郡佐竹に土着して、佐竹姓を名乗って以来、義宣まで19代、400年以上の伝統を誇る源氏の名族佐竹氏の秋田移封は、水戸はもとより常陸地方の歴史に大転機をもたらした。水戸には下妻城主だった徳川家康の11子頼房(よりふさ)が入り(1609年)、水戸徳川家の初代となった。
 河和田の地も、以来250年間、水戸藩の所領となる。 村も徐々に活気を取り戻したが、江戸時代の農民は、苛酷な年貢(ねんぐ・税)の取り立てによって困窮を極めた。 万治2年(1659)には、農村支配のために、農民の相互監視を目的とした「十人組」(後に「5人組」となる)が設置された。元禄10年(1697)の河和田の人口は965人、安永8年(1779)には791人に減っている。 人口減少の大きな原因は、農村の貧困による「間引き」であったといわれている。食べるものもない苦しさから、口減らしのために生まれたばかりの子供を殺してしまうのだ。収穫の5割もの年貢をかけられ、さらに地主に小作料を払わねばならない小作百姓には、何ともつらい世であったに違いない。水戸藩全体でも享保17年(1732)に約31万人であった人口が、寛政10年(1798)には約23万人にまで減っている。
元禄検地の際の河和田地区(4ヵ村)の石高(こくだか)は次のようであった。
  (1石は150キログラム)
 河和田   1186         赤塚 243
 萱場(かやば)156         中丸  57
 村には世襲の名主、組頭が置かれ、藩命により行政を担当した。 また、当時水戸藩は、表高(おもてだか)(35万石)よりも米の生産量が少なかったので、新田開発が進められ、河和田にも上越方面から農民が入植、新田を切りひらいた。 萱場新田、中丸新田などはその頃拓かれた。 また、圧政に耐えきれない農民が、各地で一揆をおこした。1780年代には、常総地方では毎年のように、百姓一揆がおこっていた。
 江戸時代になると、水戸を中心とする道路もととのってきた。大道(道巾3間)、中道(2間)、小道(1間)に区分され、河和田を通る瀬戸井街道(現県道岩間線)、結城街道(赤塚旧街道)は常陸諸街道のひとつで共に中道であった。
 天保年間、司命丸(しめいがん)の高倉伴介(2代目)は、私財をもって西郷村(現常北町)より石材を取りよせ、約50年をかけて、村内153ヵ所の木橋を石橋にかけかえた。村民は感謝し、司命橋とも呼び、現在もその姿を残しているものもある。

 < 現  代 >

 明治維新(1868)後、名主、組頭は廃止され、明治8年茨城県となり、各村(河和田、中丸、赤塚、萱場)に戸長と副戸長がおかれた。同11年郡区の改正で東茨城郡に編入され、同時に4村が連合して民選の戸長をおいた。 高倉長八郎、平戸源之介が戸長を務めた。同17年には、さらに大塚、飯島、金谷の3ヵ村が加わり、7村連合となった。
 明治22年町村制施行で7村連合をやめ、河和田、中丸、赤塚、萱場の4村が合併して河和田村を作った。初代村長に平戸源之介が就任した。この時村内を10区に分け、区長をおき、行政の末端組織とした。
 はじめ、民家(小林方)を借り役場としたが、翌年工費100円で街道端現農協事務所の地に新築移転した。事務も簡単で書記は1名であった。
 明治22年、水戸・小山間の鉄道が開通、村民の請願により同27年赤塚駅が開設され、その周辺に商家や旅館が立ちならび宿場が形成された。同31年には常磐線が全線開通、急速に近代社会の礎がきずかれていった。また大正15年に、赤塚・御前山(ごぜんやま)間の茨城鉄道が開業した。
 昭和11年、赤塚駅前に昭和産業KKの製粉工場ができ、数年後日清製粉KKの製粉工場が建てられ、そこからあがる固定資税は多額にのぼり、河和田村の財政に占める割合は大きなものとなった。昭和29年度の村予算約1400万円、内交付金は8%のみである。これは、赤塚駅附近の小工場及び二大工場からの税収が大きくあずかっていた。
 昭和20年の終戦を境として、西宿の西端の国有地にあった内原の満蒙開拓訓練所の農場を中心にして、その職員及び長野県人(満州開拓民)が入植し一部落を作り、報徳(ほうとく)と称した。
 赤塚駅附近のにぎわいとは逆に、戦後もランプ生活を送っていた萱場部落があった。水戸市街の大空襲後の焼けた電線を馬車で運び、村民協力して電柱もたて、やっと文化の光に浴したのが昭和23年である。
 また、戦後、各方面の制度、機構改革が行われ、村長は公選となり初代村長に田沢重男氏が当選し、警防団は消防団に改称、また選挙管理委員会や、農地・民政・教育委員が出来た。 なお、区長制度も廃止され、駐在員に替わった。
 昭和30年(1955)、市町村合併が促進され、河和田村のうち赤塚駅周辺が分村して水戸市と合併、残りの河和田村と上中妻村、山根村が合併して赤塚村が誕生した。 同33年4月、赤塚村も水戸市に合併。その後、町名変更や小学校区再編などがあり現在に至っている。

 

旧河和田村歴代村長

就 任 時 期

氏  名

明治22年6月〜明治24年5月

平戸源之介

明治24年6月〜明治25年9月

高倉 伴介(襲名代5代)

明治25年10月〜大正12年10月

高倉菊次郎

大正13年1月〜大正14年9月

平戸昇太郎

大正14年9月〜昭和4年9月

高倉 伴介(襲名代6代)

昭和5年11月〜昭和9年2月

高倉 正雄

昭和9年3月〜昭和12年12月

石井 要熙

昭和13年1月〜昭和21年8月

高倉 正雄

昭和21年9月〜昭和23年5月

田沢 重男

昭和23年5月〜昭和25年4月

寺門 明

昭和25年5月〜昭和29年5月

鈴木 重祐

昭和29年5月〜昭和30年3月

平戸 郡治

  

河和田名勝地案内

河和田城址(写真

 河和田城は、650年も前の南北朝時代、南朝延元元年北朝建武3年(1336)、大掾氏の家臣鍛治弾正貞国によって築かれました。(詳しくは歴史の項を参照してください。)天正18年(1590)江戸氏が佐竹氏によって滅ぼされるまで、約250年間続きました。藪が生い茂り、地下水の豊富な沼沢があり、二重三重の濠と土塁を巡らした城は、東西510メートル、南北600メートルの規模があり、城下には宿場や集落ができました。中城や外城、西宿などの名は往時の名残であります。

善平池(河和田1丁目)

 その昔は樹木が繁り窪地に湧水が溜まっていました。徳川時代に付近を水田にした時、善平衛という人が中心でこの池を造ったのでこの名が残っています。大きさは約3万平方メートルありましたが、大半が赤塚小学校の用地となりましたので、現在はその面影のみであります。

赤塚遺跡と古墳

 河和田3丁目の団地周辺にありました。先土器〜古墳時代の遺跡で住居跡と古墳群を伴っていました。昭和46年の団地造成時に発掘調査され、その時代の住居跡等の遺物が出土しました。この辺の地名を赤バッケと呼んでいたそうです。また50号のバイパス道路建設(桜川の団地橋側)の際にも多数の住居跡や石器、土器が出土しました。

高天原遺跡と古墳

 八幡橋(桜川公民館の東)から赤塚駅のほうへ行き茨城交通のバス停南高天原の周辺にありました。縄文〜古墳時代の遺跡でしたが道路や宅地等の開発によりその大半を喪失しました。昭和59年の発掘調査時には縄文時代の竪穴住居跡や弥生時代の遺物が出土しています。

塩街道

 河和田地内南組(1区)榎本、経塚の道は、昔、内陸の栃木や群馬方面と鹿島灘沿岸を結ぶ主要な通商の道でした。大洋村とか旭村の製塩地あたりから、海産物を運び、米や野菜などと交換していました。この道は、時代によって、特に山間部では幾筋にも分かれていました。朝房山(笠間市)の辺りから、有賀、飯島、河和田、千波海道付、吉田古宿と続いていました。沿道に念仏道場や市神様(榎本)があり、飯島の塩蔵(福性院)もその名残であります。

道場池(榎本)

 報佛寺の開基唯円房(唯円大徳)が念仏の道場を開いて止住(居住)したところで報佛寺発祥の地であります。寺伝によりますと、任治元年(1240)開創され昔の塩街道の側にありました。その中央に池の一部が残っています。どじょう(泥鰌)池とも言われていますが、その訛です。久しく荒廃してましたが、明治44年里人(この地方の人)の協力によりまして、復旧されました。

桜川

 徳川光圀が、元禄9年真壁郡桜川より桜の苗木を取り寄せ、現在の桜山の下あたりから上流数キロメートルの岸に植え、桜川と名づけました。この川は、朝房山(笠間市)より、中妻(内原町)、河和田を経て、千波湖畔を流れ那珂川に合流しています。光圀は好んで上流にある膳棚渕を探勝したり、桜川で花見の宴を催したりしました。また、享保、元文(1716〜40)の頃は花見客が遠近より集まり、雑踏をきわめたそうです。

弁天池

 河和田町報徳にあり、付近を弁天といいました。藪の中の小さな溜池にすぎなかったが、渡里用水が流入し、昭和62年公園として整備されて以来、付近の野球場と共に憩いの場となり、白鳥、かもが棲み、釣人の姿も見かけるようになりました。植物の種類も多く、雑木林に囲まれて自然が息づいています。昔、長谷原よりに「兵部塚」があり、河和田城主ゆかりの春秋兵部の首塚であったといいます。池には、兵部のたたりで逆さ葦が生えるという古老の説があります。

 

河和田の神社・仏閣

鹿島神社(写真

 河和田1丁目にあり村の鎮守と伝えられています。平安時代(800年)の頃建立され武甕槌命(タケミカズチノミコト)を祀ってあります。

日吉神社

 中丸町にあり、建立年代は不明です。祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)です。

吉田神社

 河和田町にあり(桜川公民館の隣の森)建立年代不明(佐竹時代)、始め八幡社を称し、(祭神応神天皇)、元禄9年(1696)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を合祀して吉田神社と改称したとあります。神体は軍扇で源義家が奉納したと伝えられています。

吉田神社

 萱場町内の東にあります。建立年代は不明です。なお祭神は日本武尊であります

秋葉神社

 赤塚1丁目(元巡見地内)にあり、弘化2年(1845)、静岡県春野町(天竜川上流)の秋葉神社の火除けの神を祭神として建立されました。

飯綱神社

 赤塚地内にあり、建立年代は不明です。祭神は宇賀之御魂命(穀物の神・ウカノミタマノミコト)、大国主命、伊豆奈神を合祀してあります。なお境内に素鵞神社(祭神は素戔鳴尊・スサノオノミコト)があります。毎年夏祭りには、神輿の渡御があり、赤塚の風物詩となっています。

八坂神社

 河和田町にあり祭神は素戔鳴尊。京都市の八坂神社の分社で、もと祇園天神と言われました。祇園祭は旧暦の6月21日。

天徳寺(写真

 もと大田西山にあり、佐竹13代義憲(義人)が、夫人の天徳寺院殿甚山抄幸大禅定尼の冥福を祈るために建立しました。佐竹氏が水戸に進出しましたので、常葉山(現東照宮の所)に移り、まもなく佐竹氏と秋田に移りました。水戸ではその後、衣鉢を常葉山より現祇園寺のところへ移し天徳寺と称しましたが、正徳2年(1712)に旧河和田城内の伝舜院あと、現在地に移りました。寺紋は佐竹氏の扇に日の丸。伝舜院は、嘉吉3年(1443)時の河和田城主春秋幹安が父幹治の菩提を弔う為に建てました。この辺りは、寺の周囲に大木が繁り、土塁や深い濠が昔の城の面影を濃く残しています。

報佛寺(写真

 浄土真宗を開いた親鸞聖人の高弟唯円房(唯円大徳)が開基。また、唯円房は歎異抄の作者と言われている。唯円房は、鎌倉時代の中頃、常陸国河和田に念仏の道場を開き、居住し、布教につとめた。その後、念仏の道場は、文明13年(1481)に泉渓寺となる。
 河和田城主春秋氏が佐竹氏に滅ぼされた時の兵乱により(詳しくは歴史の項を参照してください)廃寺となるが、徳川光圀(みつくに)の命により寺を復興。元禄3年(1690)に泉渓院報佛寺と改め、河和田城跡の一角に移り現在に至っている。山門付近には土塁や濠などがあり、旧城の面影を偲ぶ事ができる。寺には茨城県指定の重要文化財大黒天像がある。

妙真寺

 昭和25年に建ち、近年本堂が造営されました。日蓮宗で河和田1丁目にあります。

元山大師俊澄寺

 赤塚1丁目に昭和2年に建てられました。厄よけのお寺として、近隣の人のお参りが多いといわれています。

 

その他

河和田小学校

 明治5年の学制発布以前には、天徳寺その他において、有志の子弟の希望により、読み書き等が教えられていた。
 明治6年9月22日、天徳寺の本堂を借り、男子34名で、地元の滝山清誠訓導が初代学校主任となり、野川宇衛門訓導と2人で、読み、書き、そろばん等を寺子屋方式で児童の能力に応じて教えた。通学区域は河和田、萱場(かやば)、赤塚、中丸の四ヶ村でした。
 明治19年、河和田尋常小学校となり児童数も85名(女子20名)に増加した。明治33年、校地を河和田字西宿の城址(現在地)に移し、旧校舎移築31坪、新築59坪、計90坪の校舎を工費1460円で建設した。この頃小学校の終業年限は四ヶ年であったが、終業年限二ヶ年の高等科を新設、河和田尋常高等小学校と改名し、児童数も193名(男子105、女子88)となった。
 大正時代に入り、児童数の増加による校舎の増築、運動場の拡張を繰返し、昭和2年に現在の校地となり、児童数は412名だった。
 昭和16年、戦争へと傾く全体主義的教育のために小学校が国民学校と改称され、国家主義的教育を強調した。河和田国民学校と改称される。
 終戦後、教育制度の大改革により、国民学校は小学校の旧名に復した。河和田国民学校も、昭和22年に河和田小学校となる。
 その後、昭和40年頃からの団地造成等の人口増により、昭和56年には児童数が1422名に増加、翌年赤塚小学校と分離し現在に至ってる。
 平成元年の児童数は548名。

司命丸と高倉氏

 高倉氏については、「東茨城郡誌」に「其先は江戸氏の一族に出づ、久慈郡高倉に住し高倉を以て氏とす、其後河和田に移り」とある。代々庄屋だったが、初代伴介が江戸に出て、徳川幕府御典医のもとで医学や薬の製法を学び、河和田に戻って薬を作って売出し「司命丸」を創業した(約200年前)。その後、水戸藩御免の保証を受け、大阪・京都にまで販路を拡げて大きな財産を築いた。村の治水や橋普請などに多くの私財をそそぎ、村民の苦しみを助けている。幕末維新には多くの志士と関係を持ち、活動資金や軍資金を提供していたといわれている。現在も河和田3丁目で製薬会社・薬局(司命堂製薬所)として営業している。

平戸氏

 河和田城主春秋氏の支族といわれ、春秋氏滅亡(1590年・歴史の項参照)のあと帰農し、代々庄屋となった。平戸氏は田畑山林を多く所有し、河和田一番の豪農であったといわれている。水戸藩の安政改革期には、地域の経済発展に尽力したと伝えられる。平戸氏宗家は、現在でも「大平戸(おおひらと)」と称され、河和田城址地の大部分を所有している。

薫風院

 昭和の始め頃まで、丹下地区の森の中にありました。現在那珂町の五台にあり、茨城学園の前身であります。

 

河和田音頭

1・春は中城 花より明けて

  森もお城も 日はのどか

  義公ゆかしや 人の世清め

  流れ絶えせぬ 桜川

2・夏は圷の 田の夕風に

  涼むゆかたの ひとそろい

  蛍可愛や 想いを込めて

  招ぐうちわに こがれよる

3・秋は河和田 俵の山を

  積んで重ねて 二千石

  みのりうれしや 苦労の汗も

  笑顔にとける 御祭礼

4・冬は赤塚 しぐれる駅に

  青いシグナル にじむ時

  あれなつかしや 蛇の目かさが

  人待ち顔に しっとりと

5・景色ばかりか 産業どころ

  並ぶ工場 いきいきと

  景色たのしや ゆきかいしげく

  店も明るく さて繁昌

 

(この文書は、作者の責任で各郷土資料より抜粋・引用し一部加筆したものです)

<本文終了>


<関連リンク> 貴重な情報が掲載されていますので、是非ご覧ください

河和田城    見川城    長者山城    常陸江戸氏


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結城秀康分限帳    松平忠直分限帳

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