「かわわだ」
(河和田及び水戸郷土資料より)
就 任 時 期 |
氏 名 |
明治22年6月〜明治24年5月 |
平戸源之介 |
明治24年6月〜明治25年9月 |
高倉 伴介(襲名代5代) |
明治25年10月〜大正12年10月 |
高倉菊次郎 |
大正13年1月〜大正14年9月 |
平戸昇太郎 |
大正14年9月〜昭和4年9月 |
高倉 伴介(襲名代6代) |
昭和5年11月〜昭和9年2月 |
高倉 正雄 |
昭和9年3月〜昭和12年12月 |
石井 要熙 |
昭和13年1月〜昭和21年8月 |
高倉 正雄 |
昭和21年9月〜昭和23年5月 |
田沢 重男 |
昭和23年5月〜昭和25年4月 |
寺門 明 |
昭和25年5月〜昭和29年5月 |
鈴木 重祐 |
昭和29年5月〜昭和30年3月 |
平戸 郡治 |
河和田城址(写真)
河和田城は、650年も前の南北朝時代、南朝延元元年北朝建武3年(1336)、大掾氏の家臣鍛治弾正貞国によって築かれました。(詳しくは歴史の項を参照してください。)天正18年(1590)江戸氏が佐竹氏によって滅ぼされるまで、約250年間続きました。藪が生い茂り、地下水の豊富な沼沢があり、二重三重の濠と土塁を巡らした城は、東西510メートル、南北600メートルの規模があり、城下には宿場や集落ができました。中城や外城、西宿などの名は往時の名残であります。
善平池(河和田1丁目)
その昔は樹木が繁り窪地に湧水が溜まっていました。徳川時代に付近を水田にした時、善平衛という人が中心でこの池を造ったのでこの名が残っています。大きさは約3万平方メートルありましたが、大半が赤塚小学校の用地となりましたので、現在はその面影のみであります。
赤塚遺跡と古墳
河和田3丁目の団地周辺にありました。先土器〜古墳時代の遺跡で住居跡と古墳群を伴っていました。昭和46年の団地造成時に発掘調査され、その時代の住居跡等の遺物が出土しました。この辺の地名を赤バッケと呼んでいたそうです。また50号のバイパス道路建設(桜川の団地橋側)の際にも多数の住居跡や石器、土器が出土しました。
高天原遺跡と古墳
八幡橋(桜川公民館の東)から赤塚駅のほうへ行き茨城交通のバス停南高天原の周辺にありました。縄文〜古墳時代の遺跡でしたが道路や宅地等の開発によりその大半を喪失しました。昭和59年の発掘調査時には縄文時代の竪穴住居跡や弥生時代の遺物が出土しています。
塩街道
河和田地内南組(1区)榎本、経塚の道は、昔、内陸の栃木や群馬方面と鹿島灘沿岸を結ぶ主要な通商の道でした。大洋村とか旭村の製塩地あたりから、海産物を運び、米や野菜などと交換していました。この道は、時代によって、特に山間部では幾筋にも分かれていました。朝房山(笠間市)の辺りから、有賀、飯島、河和田、千波海道付、吉田古宿と続いていました。沿道に念仏道場や市神様(榎本)があり、飯島の塩蔵(福性院)もその名残であります。
道場池(榎本)
報佛寺の開基唯円房(唯円大徳)が念仏の道場を開いて止住(居住)したところで報佛寺発祥の地であります。寺伝によりますと、任治元年(1240)開創され昔の塩街道の側にありました。その中央に池の一部が残っています。どじょう(泥鰌)池とも言われていますが、その訛です。久しく荒廃してましたが、明治44年里人(この地方の人)の協力によりまして、復旧されました。
桜川
徳川光圀が、元禄9年真壁郡桜川より桜の苗木を取り寄せ、現在の桜山の下あたりから上流数キロメートルの岸に植え、桜川と名づけました。この川は、朝房山(笠間市)より、中妻(内原町)、河和田を経て、千波湖畔を流れ那珂川に合流しています。光圀は好んで上流にある膳棚渕を探勝したり、桜川で花見の宴を催したりしました。また、享保、元文(1716〜40)の頃は花見客が遠近より集まり、雑踏をきわめたそうです。
弁天池
河和田町報徳にあり、付近を弁天といいました。藪の中の小さな溜池にすぎなかったが、渡里用水が流入し、昭和62年公園として整備されて以来、付近の野球場と共に憩いの場となり、白鳥、かもが棲み、釣人の姿も見かけるようになりました。植物の種類も多く、雑木林に囲まれて自然が息づいています。昔、長谷原よりに「兵部塚」があり、河和田城主ゆかりの春秋兵部の首塚であったといいます。池には、兵部のたたりで逆さ葦が生えるという古老の説があります。
鹿島神社(写真)
河和田1丁目にあり村の鎮守と伝えられています。平安時代(800年)の頃建立され武甕槌命(タケミカズチノミコト)を祀ってあります。
日吉神社
中丸町にあり、建立年代は不明です。祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)です。
吉田神社
河和田町にあり(桜川公民館の隣の森)建立年代不明(佐竹時代)、始め八幡社を称し、(祭神応神天皇)、元禄9年(1696)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を合祀して吉田神社と改称したとあります。神体は軍扇で源義家が奉納したと伝えられています。
吉田神社
萱場町内の東にあります。建立年代は不明です。なお祭神は日本武尊であります
秋葉神社
赤塚1丁目(元巡見地内)にあり、弘化2年(1845)、静岡県春野町(天竜川上流)の秋葉神社の火除けの神を祭神として建立されました。
飯綱神社
赤塚地内にあり、建立年代は不明です。祭神は宇賀之御魂命(穀物の神・ウカノミタマノミコト)、大国主命、伊豆奈神を合祀してあります。なお境内に素鵞神社(祭神は素戔鳴尊・スサノオノミコト)があります。毎年夏祭りには、神輿の渡御があり、赤塚の風物詩となっています。
八坂神社
河和田町にあり祭神は素戔鳴尊。京都市の八坂神社の分社で、もと祇園天神と言われました。祇園祭は旧暦の6月21日。
天徳寺(
写真)もと大田西山にあり、佐竹13代義憲(義人)が、夫人の天徳寺院殿甚山抄幸大禅定尼の冥福を祈るために建立しました。佐竹氏が水戸に進出しましたので、常葉山(現東照宮の所)に移り、まもなく佐竹氏と秋田に移りました。水戸ではその後、衣鉢を常葉山より現祇園寺のところへ移し天徳寺と称しましたが、正徳2年(1712)に旧河和田城内の伝舜院あと、現在地に移りました。寺紋は佐竹氏の扇に日の丸。伝舜院は、嘉吉3年(1443)時の河和田城主春秋幹安が父幹治の菩提を弔う為に建てました。この辺りは、寺の周囲に大木が繁り、土塁や深い濠が昔の城の面影を濃く残しています。
報佛寺(
写真) 浄土真宗を開いた親鸞聖人の高弟唯円房(唯円大徳)が開基。また、唯円房は歎異抄の作者と言われている。唯円房は、鎌倉時代の中頃、常陸国河和田に念仏の道場を開き、居住し、布教につとめた。その後、念仏の道場は、文明13年(1481)に泉渓寺となる。
河和田城主春秋氏が佐竹氏に滅ぼされた時の兵乱により(詳しくは歴史の項を参照してください)廃寺となるが、徳川光圀(みつくに)の命により寺を復興。元禄3年(1690)に泉渓院報佛寺と改め、河和田城跡の一角に移り現在に至っている。山門付近には土塁や濠などがあり、旧城の面影を偲ぶ事ができる。寺には茨城県指定の重要文化財大黒天像がある。
妙真寺
昭和25年に建ち、近年本堂が造営されました。日蓮宗で河和田1丁目にあります。
元山大師俊澄寺
赤塚1丁目に昭和2年に建てられました。厄よけのお寺として、近隣の人のお参りが多いといわれています。
河和田小学校
明治5年の学制発布以前には、天徳寺その他において、有志の子弟の希望により、読み書き等が教えられていた。
明治6年9月22日、天徳寺の本堂を借り、男子34名で、地元の滝山清誠訓導が初代学校主任となり、野川宇衛門訓導と2人で、読み、書き、そろばん等を寺子屋方式で児童の能力に応じて教えた。通学区域は河和田、萱場(かやば)、赤塚、中丸の四ヶ村でした。
明治19年、河和田尋常小学校となり児童数も85名(女子20名)に増加した。明治33年、校地を河和田字西宿の城址(現在地)に移し、旧校舎移築31坪、新築59坪、計90坪の校舎を工費1460円で建設した。この頃小学校の終業年限は四ヶ年であったが、終業年限二ヶ年の高等科を新設、河和田尋常高等小学校と改名し、児童数も193名(男子105、女子88)となった。
大正時代に入り、児童数の増加による校舎の増築、運動場の拡張を繰返し、昭和2年に現在の校地となり、児童数は412名だった。
昭和16年、戦争へと傾く全体主義的教育のために小学校が国民学校と改称され、国家主義的教育を強調した。河和田国民学校と改称される。
終戦後、教育制度の大改革により、国民学校は小学校の旧名に復した。河和田国民学校も、昭和22年に河和田小学校となる。
その後、昭和40年頃からの団地造成等の人口増により、昭和56年には児童数が1422名に増加、翌年赤塚小学校と分離し現在に至ってる。
平成元年の児童数は548名。
司命丸と高倉氏
高倉氏については、「東茨城郡誌」に「其先は江戸氏の一族に出づ、久慈郡高倉に住し高倉を以て氏とす、其後河和田に移り」とある。代々庄屋だったが、初代伴介が江戸に出て、徳川幕府御典医のもとで医学や薬の製法を学び、河和田に戻って薬を作って売出し「司命丸」を創業した(約200年前)。その後、水戸藩御免の保証を受け、大阪・京都にまで販路を拡げて大きな財産を築いた。村の治水や橋普請などに多くの私財をそそぎ、村民の苦しみを助けている。幕末維新には多くの志士と関係を持ち、活動資金や軍資金を提供していたといわれている。現在も河和田3丁目で製薬会社・薬局(司命堂製薬所)として営業している。
平戸氏
河和田城主春秋氏の支族といわれ、春秋氏滅亡(1590年・歴史の項参照)のあと帰農し、代々庄屋となった。平戸氏は田畑山林を多く所有し、河和田一番の豪農であったといわれている。水戸藩の安政改革期には、地域の経済発展に尽力したと伝えられる。平戸氏宗家は、現在でも「大平戸(おおひらと)」と称され、河和田城址地の大部分を所有している。
薫風院
昭和の始め頃まで、丹下地区の森の中にありました。現在那珂町の五台にあり、茨城学園の前身であります。
1・春は中城 花より明けて
森もお城も 日はのどか
義公ゆかしや 人の世清め
流れ絶えせぬ 桜川
2・夏は圷の 田の夕風に
涼むゆかたの ひとそろい
蛍可愛や 想いを込めて
招ぐうちわに こがれよる
3・秋は河和田 俵の山を
積んで重ねて 二千石
みのりうれしや 苦労の汗も
笑顔にとける 御祭礼
4・冬は赤塚 しぐれる駅に
青いシグナル にじむ時
あれなつかしや 蛇の目かさが
人待ち顔に しっとりと
5・景色ばかりか 産業どころ
並ぶ工場 いきいきと
景色たのしや ゆきかいしげく
店も明るく さて繁昌
(この文書は、作者の責任で各郷土資料より抜粋・引用し一部加筆したものです)
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河和田城主春秋氏滅亡後の春秋兵庫(重元・田野)の名が見られる史料です(リンク)
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