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明月上人生誕の地

越後の良寛、備中の寂巖とともに「近世の三筆」と称されているのが明月上人です。上人は、亨保12年1727年の中秋の名月の日にここ橘地区日前(ヒクマ)の願行寺で生まれ、京都と江戸に遊学して仏教、儒学、古文辞学まで修めたと言われています。ここにその銅像と正岡子規の詠んだ句が残されています。その後、松山圓光寺の住職になった上人ですが、橘地区普門寺の禅師との談論を楽しみにたびたびこの地を訪れました。
所は日前浜で大島大橋を渡り、437号線を久賀方面に行き、久賀をすぎて、コンビニの手前で左折した約18Kmの所願行寺です。

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村上武吉印塔

  

大島周辺では浮島に拠った宇賀島海賊が勢力があったが、1555年毛利と陶晴賢(スエハルカタ)との厳島における戦いで毛利に味方した23才の若さの村上武吉を大将とする三村上水軍(能島・因島・来島)が宇賀島海賊・大島海賊に勝ち、その功績により、村上武吉は周防大島を支配することになり、以後も毛利に重用視された。
武吉は、東和地区和田に落ちついて3年後の1604年に没し、その墓が内入の元正寺の境内にある。武吉の次男景親は、和田、小泊、屋代なだを給領し、和田に田屋(タヤ)(給領地におかれた領主の私宅)をおいた。
武吉の長男元吉の子元武は、屋代、油宇、伊保田を与えられ、田屋を屋代におき、菩提樹が屋代の龍心寺である。(「村上家歴代の墓」参照)
所は、東和地区内入で大島大橋を渡り、437号線を久賀方面に行き、道の駅サザンセトとうわをすぎ、神浦の次ぎで写真にあるような看板の所を右折した所で大島大橋から約28Kmです。

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荒神様のバクチノキ

  

バクチノキ(博打の木)はバラ科、ビランジュともいう。常緑性高木で暖帯下部、亜熱帯に分布し、樹皮が大きくはげて幹が赤くなる。大きくはげるから「博打の木」と名ずけられたという。どうしてこの地にあるのかは不明。毎年10月頃開花し、果実のまま越冬し、6月頃紫黒色に成熟する。これだけの大木は珍しいと言われている。
所は、村上武吉印塔に行く途中にあり、東和地区内入で大島大橋を渡り、437号線を久賀方面に行き、道の駅サザンセトとうわをすぎ、神浦の次ぎで写真にあるような看板の所を右折した所で大島大橋から約28Kmです。

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四ッ子島

文字どおり四つの島が並び夕日をバックにした眺めが最高です。
岩礁に根を張って生き抜く松の姿も佳景です。
所は東和地区和佐もしくは小泊で、大島大橋を渡り437号線を久賀方面に行き、道の駅サザンセトとうわをすぎ、神浦で437号線から別れ、和佐方面に右折し外浦にいった所から見え、大島大橋から約27Kmです。

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シーボルト上陸記念碑

シーボルト江戸参府紀行によると「文政9年3月4日牛ヶ首に上陸。動植物の観察や対岸の沖家室島、平郡島、水無瀬島をスケッチして、同日の午後出帆・・・」とある。
長崎から江戸に向かう途中に上陸し、象の臼歯の化石を発見したがその地に記念碑がたてられている。
所は、東和地区五条で大島大橋を渡り、437号線を久賀方面に行き、道の駅をすぎて県道60号線で片添ヶ浜方面に行き、海岸沿を進むと小積、大積、五条です。

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浄西寺三尊碑

   

鎌倉時代の初期建仁2年(1202年)の造立で、在名石造物としては瀬戸内海地方最古の石塔婆で県指定有形文化財です。本来は、南無勢至菩薩を加えた三尊碑として造立されたものです。
また、浄西寺には、四境の役の戦いのとき、幕府軍艦からの砲撃による砲弾の跡が寺の石垣に残っています。
所は、東和地区油宇で大島大橋を渡り、437号線を久賀方面に行き、伊保田から行くか途中の和田から行くか2通りあります。約40Kmです。


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