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茂兵衛堂

茂兵衛義教は、弘化4年(1847)椋野庄屋中司家の三男として生まれ、慶応元年(1866)2月19才の時宏大無辺の弘法大師を慕い、四国に渡り、88ヶ所の霊場を礼拝すること実に280回、大正11年3月76才で幸せな大往生を遂げるまで、四国四県の人々は勿論、本土から巡拝者「生き仏」とあがめられ、茂兵衛の着ている白衣と新しい白衣を交換希望者が絶えず、常に新しい白衣を’まとっていたと言うことです。

また、巡拝者のため、建てた石の道しるべも220余ヶ所もあり、数々のこの隠徳に報いるため昭和58年4月24日弘法大師生誕ゆかりの総本山善通寺管長迎えて開眼法要行う。
縁日 毎月21日
所は、久賀地区椋野、大島大橋を渡り、437号線を久賀方面に5.3キロメートル行ったところに、案内板があり、そこを右折、椋野小学校の所を左折した小高いところにある。途中、道が狭いので、車を置いて歩いて、2分。

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世羅修蔵の招魂碑

世羅修蔵、僧月性に学び、第2奇兵隊の創設に参画し、軍監となる。大島口の戦いで、戦略の指揮をとり、勝利をおさめた。後奥羽ね鎮撫使参謀となり、福島滞在中に暗殺された。
所は、茂兵衛堂のすぐ上。ちょっとわかりにくいが、桜並木を通り過ぎた所にある。

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明治百年記念公園(四境の役 大島口の古戦場)

 

慶応2年(1866)6月7日幕艦が上関と安下庄に砲撃を加え、ここに大島口の戦いが初まった。翌8日の朝、松山兵が由宇に上陸、午後には久賀沖に初めて幕監が現れ、砲門をひらいた。

6月11日の朝、翔鶴丸その他に分乗した2千の幕軍が宗光に上陸した。久賀村の庶民を中心とする「真武隊」が応援するも、多勢に無勢、街並みは焼かれ、幕軍に占拠された。

大洲鉄然は、早かごで山口政事堂の大村益次郎に「早くご救援を」と懇願するも拒否された。それを伝え聞いた下関の高杉晋作は、丙寅丸に乗船し、大島に急行。

6月12日夜陰に乗じて幕艦に夜襲をかける。幕艦は、狼狽遁走、翌日石城山の第2奇兵隊をひきいて、世羅修蔵、林半七、白井小介(素行)等大島に急襲をかけて、幕軍を追いおとした。

久賀地区特にここ追原付近は、幕軍と死闘のあった古戦場である。園内には、この戦役で活躍した人々の記念碑がある。

所は、久賀地区新開で、437号線を久賀方面に9.7キロメートル行ったところに「四境の役 追原古戦場」の案内板がある。国道のすぐそばで、バス停「総合庁舎前」の所。

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楢崎剛十郎顕彰碑

楢崎剛十郎は、天保9年久賀地区能庄に生まれた。尊皇倒幕の風雲高まるにつれて、その志を固め、奇兵隊編成に努力した。第二征長軍に備えて熊毛郡石城山に第2奇兵隊を組織してその書記役となったが、隊内の意見が分かれ、慶応2年4月4日暗殺された。

享年29才、功により、明治35年従5位を贈られた。所は、山口県大島総合庁舎前。大島大橋を渡り約9.7キロメートルのところで、明治百年記念公園(四境の役 大島口の古戦場)のすぐそばである。

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周防大島文化交流センター

周防大島町出身の民俗学者宮本常一は、庶民の文化の発見者として知られていますが、それだけでなく離島や農村の地域づくりの実践者でした。

この周防大島文化交流センターでは、民俗学者宮本常一の著書や撮影した写真が展示してあり、宮本常一が半世紀にわたって全国を歩いて収集した庶民の生活文化資料が閲覧できます。
また、宮本常一の呼びかけにより地元有志が収集した陸・海の生産用具の展示もあります。

観覧料は、一般300円、小中学生150円で20人以上は割り引きがあります。休館日は水曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始で、開館時間は9時から18時までです。

所は東和地区で平野です。437号線を久賀方面に行き、油良、下田の次ぎで国道のすぐ側です。

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西方弘法市

毎年2月21日に東和地区神宮寺弘法堂で法要、御詠歌講、筆供養、御祈祷が9時から18時まであります。境内では甘酒の御接待があります。また同時に商工会による「さざんかまつり」があり、弘法うどん、寿司等のバザーがあり、多くの露店も出店しています

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