第九十八話「月の魔法・5」


 当然のように、口論となった。
 黒珠の封印がいずれ解けることは、それがいつになるかはともかく、八千代の夫である朋徳がかねてより口にしていたことだ。
 彼の未来眼の確かさを他の誰よりも思い知っているはずの八千代が決めたからには、相応の覚悟があってのことだろう。
 しかし、朋徳の見た未来が悪夢に終わらず現実となったとき、真っ先に命を狙われるのは、封印の鍵を握る神女である。
 万一のとき、紅子に何の力もなければ、その命はどうなるか――と、泰蔵は訴えたが、八千代はかたくなに首を振り、
「そのときは、それがこの子の運命だったと諦めるよりほかございません」
と、断言した。
「また日奈と同じ事を繰り返すのだけはまっぴらです。力に振り回されない、静かな人生を紅子には与えてやりたい。日奈も生前そう願っておりましたし、私も同感です。その結果、たとえ一色の血が途絶えたとしても」
「この世界がどうなってもよい、とおっしゃるか」
 八千代は泰蔵を睨み、声を荒げた。
「そもそも、たった一人の人間にこの世の存続をかけていることが、おかしいのではありませんか」
 それは、紺野・白鷺・黄根の家人たちがかねてより一色家に抱き続けてきた負い目だった。
 泰蔵はもはや何も言い返すことができなかったのだろう。
 竜介を目でうながすと、そのまま無言で玄関へ向かった。
 紅子はそのとき既に目を覚ましていて、八千代と泰蔵のやりとりを、わけもわからずただきょとんと眺めていた。

「だけど、俺が帰るのはすぐにわかったみたいで、足にしがみついて泣き出して、大変だった」
大変だった、と言いながら、竜介はどこか楽しそうだった。
「仕方ないんで、しばらく抱っこして説得したよ。また来るから、って」
 紅子が訊いた。
「あたしはそれで納得した?」
「さあ、どうだろうな」
彼はいたずらっぽく笑った。
「おばさんに抱っこしてもらったら、もう俺の方は見向きもしてくれなくなったから」
 紅子がひとしきり笑うのを目を細めて眺めてから、竜介は続けた。
「帰り道、師匠から言われたことがある」

 ――おまえがあの子ともしもまた会うことがあるとしたら、それは黒珠の封印が解かれたときになるだろう。

「俺はそれまで、自分の力を思う通りに操れるようになるのが単純に面白くて鍛錬を積んでた。力を極めたあとのことなんて、考えもしてない。子供だったからな。だけど、あのときの師匠の言葉で、俺が何のために顕化を持って生まれてきたのか、わかった気がしたんだ」
 きみを涼音と同じように傍で見守ることはできなくても、きみの命を救うことはできるかもしれない。
 だから――
「この力を使わずに済めば、それに越したことはない。けど、俺はそのとき初めて、何か……いや、誰かのために強くなりたいと思ったんだ」
 そう話す竜介の目はまっすぐ紅子に注がれていて、彼の言う「誰か」が誰のことかは、訊かなくともわかった。
 彼の言葉に他意はない。
 そう頭では了解しているはずなのに、紅子の心臓は聞き分けなく過敏な反応を示し続ける。
「たとえどこかですれ違っても、きみは俺に気づかない。でも、それでいいと思ってた。黒珠のことがなかったら、きっとこの力を使うことも、きみに再会することもなかっただろう。こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、俺は嬉しいんだ。大きくなったきみと、また会って話ができて」
 そう言って、彼は微笑んだ――包み込むように、優しく。
 紅子はまた泣きたいような胸苦しさを覚えた。
「全然知らなかった。そんなにずっと前から、気にかけてくれてたなんて……」
 そうつぶやくのがやっと。
 もっと他に言いたいことがあるのに、また気持ちが暴走してしまいそうで、声に出せない。
 だけど――
 訊いてみたい。
 どうして、そんな風に笑えるの、と。
 母親を亡くした孤独、悲しみ。
 家族を裏切った父親への怒り、憎しみ。
 そして、新しい家族に対する戸惑い――
 これまでに、どれだけの涙を、どうやって飲み込んできたの。
 誰にも見せずに、いったいいくつの傷を、たった独りで癒してきたの。
 どうすれば、そんなに優しく笑えるようになるの。
 その優しさがなぜ自分に向けられるのか、その理由は知っている。
 あたしが封印の鍵だから。
 涼音と同じ、「妹」だから。
 けれど彼女の心は今、もっと他の理由を探していた。
 言葉にすることを唇が拒む、いくつもの疑問。
 その禁忌をあえて冒した先には、いったい何が待っているのだろう。
 わからない。
 ただ、怖い。
 自分が真実何を望んでいるのか、それを知ってしまうことが。

 竜介は、しばらく空のまま放ってあったショットグラスを再び手に取った。
 グラスに酒を注ぐ柔らかな音が、静寂を乱す。
「俺はたぶん、何だかんだ言ってもこの世界が気に入ってるんだと思う」
 彼はそう言いながら、グラスを月明かりにかざした。
 金色の光が、命の水の中で躍っている。
「思い通りにならないことも多いけど、でも、だからこそ、この両手が届く範囲くらいは、自分で納得がいく状態にしておきたいのさ」
「それが、命をかけてまで、『封印の鍵』を守る理由?」
 紅子が自分のことを「封印の鍵」と自称するのを聞いて、竜介は苦笑した。
「封印の鍵、か。できるもんなら、代わってやりたいね」
 優しい言葉。
 紅子は自分の心が少しずつ麻痺していくような感覚に襲われた。
 もう涼音と同等でも何でもかまわない、この優しさにすべてをゆだね、溺れてしまいたい――
 そんな衝動を振り切るように、彼女は「ありがと」と短く礼を言った。
「優しいね」
 竜介はそれを皮肉ではなく言葉通りに受け取ったようで、「どうも」と笑う。
「俺は、玄蔵おじさんにこれ以上、悲しい思いをさせたくない。だから、きみを無事におじさんの元へ戻すことが、今の俺の務めだと思ってる。きみには余計なことかもしれないけどね」
と、彼は最後の部分を冗談交じりにつけ足し、またグラスを傾け始めた。
 玄蔵が竜介に対して複雑な感情を持っていたことを、紅子は泰蔵から聞いて知っている。
 竜介のほうはどうなのだろう、と彼女は思った。
 日奈との出逢いと死別によって身を裂かれるような悲嘆を味わったとはいえ、玄蔵が今、一色家の当主におさまっていることは、彼にとって皮肉ではあるが結果として良かったのかもしれない。
 紺野家にいても、彼は顕化を持つ竜介に泰蔵の跡目を譲るしかなかっただろうし、そうなれば身の振り方にも困っただろう。
 泰蔵の跡を継いだら、竜介は自分の師と同じく御珠の守護者として、紺野家の特異能力の継承者として、生涯ここにとどまるのだろうか。
 少なくとも、彼が東京へ来る理由は何もなくなる――
 そう考えたとたん、紅子は息が止まりそうになった。
 なぜ、どうして。
 自問するよりも先に、彼女の唇は動いていた。
「泰蔵おじいさんのあとは、竜介が継ぐの?」
 が、彼の返答は意外にあいまいだった。
「まあそうなるだろうな。きみの親父さんは、こっちへ帰る気がないみたいだし」
「それって、父さんが帰って来たら、おじいさんの跡継ぎは父さんってこと?」
 紅子がさらに聞き返すと、彼は当然のように言った。
「そりゃそうだろ。親子なんだから」
「でも、顕化が……」
と紅子は言いかけて、あわてて自分の口を手でふさぐ。
 が、時既に遅く、竜介は唇の端に苦い笑みを浮かべていた。
「玄蔵おじさんが、俺の顕化について色々思ってることは、何となくわかってたよ」
と彼は言った。
「でも俺はこっちの家に生まれたんだし、どのみち、師匠みたいに武術一辺倒の生活をする気はない。山向こうのあの家で隠居生活を送るのは、もっと年をくってからでも遅くないだろう。今のごたごたが片づいたら、本格的に仕事を手伝えって親父からも言われてるし」
 紅子は東京を出るときにヘリポートとして立ち寄った、副都心に建つ高層ビルを思い出した。
「それって……えーと、東京でってこと?」
竜介は首肯した。
「そ。むこうでまた、紅子ちゃんは俺と会えるってわけ。嬉しい?」
 明らかに揶揄する口調でそう言われ、紅子は心中の淡い期待を見透かされた気がして、自分の頬にかっと朱が差すのを感じた。
 が、何事か言い返そうとしたそのとき、それは寒気とともに小さなくしゃみに代わっていた。
 秋の夜寒とはいえ、いつの間に夜気がこんなに冷えていたのだろう。
 それほど自分は話に夢中だったのかと彼女は我ながら驚き呆れつつ、冷えた二の腕を知らず手でつかむと、何か暖かい ものが、ふわりと紅子の肩を包んだ。
 竜介が肩にかけていた丹前。
「月の位置がだいぶ変わったな」
空を一瞥して、彼は言った。
「そろそろ休んだ方がいい。部屋まで送るよ」

2009.5.1


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