第九十四話「月の魔法・1」


 その日の夜――
 布団の中で静かに横になっていると、昼間に泰蔵から聞いた話が否応なくよみがえり、頭の中をぐるぐると回るようで、紅子はなかなか寝付かれずにいた。
 何度も寝返りを打った後、ふと時計を見ると、午前0時。
 紅子はため息をつきながら起きあがった。とても眠れそうにない。
 喉が渇いたような気がするけれど、水でも飲めば少しは気分も落ち着くだろうか?
 そっと障子を開けてみると、中庭に面した廊下は、月の光で思いのほか明るい。
 紅子は寝静まった邸内を足音を忍ばせて歩き、無人の台所で水を少し口にした。
 そのまま部屋に戻るつもりだったが、中庭に降りる石段の上に、誰かがしまい忘れたのか下駄が一足置いてあるのを見つけて、気が変わった。

 その夜は晩秋というには暖かで、紅子は何も羽織らずに外に出たことを後悔せずに済んだ。
 時折吹く風は冷たかったが、ほてった頭を冷ますには丁度よかったくらいである。
 夜中の庭で迷子になっては洒落にならない。
 屋敷からあまり遠ざからないように気を付ける。
 青白く冴えた光の中を歩いていると、また日可理のことが脳裏をよぎった。
 白鷺家へ向かう車中、傷つき、意識を失った竜介の頭を膝に乗せ、いとおしげに見つめていた、彼女の姿――あれもまた、今夜のような月の光に照らされていた。
 日可理は言っていた。
「ずっと思い続けているかたがおります」
と。
 考えることを放棄したまま、紅子が忘れようとしていた二つの断片。
 それらがこのとき、不意に一つに合わさり、彼女にその意味を示した。

 日可理の思い人――それは恐らく、竜介のことだと。

 こんな簡単なこと、どうして今まで気づかなかったんだろう。
 紅子はしばし呆然とその場に立ちつくした。
 しかし、紅子から「告白すればいいのに」と言われたとき、日可理は困ったような曖昧な笑みを浮かべただけで、何も言わなかった。
 彼女は、竜介が求愛を受け入れそうにないような理由を何か知っているのだろうか?
 たとえば――たとえば、竜介に他に好きな人がいる、とか?
 その答えは、紅子の心臓をわしづかみにし、窒息させた。
 竜介のことは、自分には関係のないこと。
 今まで何度も、紅子は自分にそう言い聞かせてきた。
 でも、現実には、彼を見て、言葉を交わし、彼のことを考えるたびに、自分でも信じられないほど感情を揺さぶられている自分がいる。
 これをどう説明すればいい?
 紅子は何かを吹っ切ろうとするかのようにかぶりを振ると、また歩き出した。
 もしも、月が真実を映す鏡だったなら、彼女の心に巣くう感情の正体を暴いて見せたかもしれない。
 もっとも、もし仮に見たとして、このときの彼女が己の内にあるものを素直に認めたか否かは、はなはだ疑わしいけれど。
 ともかくも、紅子が自分の心に向き合おうとしただけでも大進歩というべきか。
 しかし残念ながら、それもほんのつかの間のことだった。
 どこかでかいだ覚えのある、不思議な芳香。
 それが彼女の意識を逸らせてしまった。
 風に乗ってかすかに届くその香りを追いかけるように、紅子が花の終わった背の高い金木犀の植え込みをぐるっと回った、そのとき――

「おや、きれいどころのお出ましだ」

 紅子は一瞬、息が止まるかと思った。
 その声は、ほんの少し前まで彼女に説明不可能な感情の混乱を呼び起こしていた張本人のものだったのだから。
 幻聴かと己が耳を疑いつつ、紅子は声のしたほうを恐る恐る振り返る。
 が、その声は幻聴でも何でもなく、竜介はたしかにそこにいて、彼女を見て笑っていた。
 紅子は心中の葛藤を悟られたような気がして、かあっと顔が上気するのを感じた。
「なっ……なんでこんなとこにいるのよ?」
 思わず語気が荒くなる。
「なんでって、ここ、俺の部屋だから」
と、竜介は自分の背後にある障子を指さした。
 少し開いたその隙間から、布団が見える。
 紅子はいつの間にか、自分が借りている客間からは中庭を挟んで反対側にある、この屋敷の家人たちが使っている部屋のほうへ来てしまっていたのだった。
 竜介は廊下で柱を背に片膝を立て、寝間着代わりらしい浴衣を着て、丹前を袖を通さず肩にかけていた。
 傍らに洋酒のボトルと酒肴を乗せた小さな盆があるところを見ると、一人酒盛りというところか。
「紅子ちゃんこそ、なんでこんな夜中にこんなとこまで?」
彼は紅子の返事を待たずに、笑いを含んだ声で続けた。
「もしかして、俺か鷹彦のとこへ夜這い?」
 趣味の悪い冗談を紅子が黙殺し、くるりと回れ右をすると、竜介はあわてて、
「ウソウソ、冗談だってば!」
と、引き留めにかかった。
「眠れないんだろ?よかったら、少し話でもして行かないか」
「酔っぱらいにする話なんかない」
「まあそう言わずに」
 紅子は最初、肩越しに胡乱(うろん)そうな目で竜介を見ていたが、やがてきびすを返し、足は庭におろしたまま、彼の傍らに座った。
 部屋に今戻ったところで、まだ眠れそうにないから――と自分で自分に言い訳をしながら。
 近くで見ると、竜介は風呂上がりらしく、まだ湿った髪が月の光を白く映している。
 前髪をおろした童顔の彼は少年のようで、重厚なデザインの酒瓶とのギャップがなんだか可笑しい。
 彼はボトルの栓を抜くと、小さなショットグラスに琥珀色の液体を注いだ。
 と同時に、さっきから紅子の鼻をくすぐっていた、甘くほろ苦い香りが辺りに満ちていく。
「焦げた焼きリンゴみたいな匂いがする」
紅子が率直な感想を述べると、竜介はグラスの液体をなめるようにすすりながら、
「リンゴから作った酒だからね」
と、言った。
 酒瓶のラベルは、月明かりで「CALVADOS」と読めた。
 泰蔵の家へ行く途中、やむを得ぬ事情で彼から借りたシャツの匂いが、まさか酒の残り香だったとは。
 紅子は苦笑した。
「昼間、借してくれたシャツからにおってたよ。これ」
「すごい鼻してるな」
 紅子からの指摘に、竜介は、出掛ける前にシャワー浴びたんだけど、と弁解するように言った。
「別にそういう意味じゃないの」
彼女は、さらりと付け加えた。
「竜介にしては、いい匂いだなって思っただけだから」
「竜介にしては、が余計だよ」
 その憮然とした顔に、紅子は思わず笑った。
 だが、笑われた当の本人は別に気を悪くする風でもなく、諦めたように続けた。
「ま、きみとの初対面は最悪だったし、そう思われてても仕方ないけどさ」
 紅子はちょっと驚き、言った。
「わかってるんだ?」
「わかってるよ」
と、彼はグラスの中身を一口、なめた。
「ついでに言えば、きみには申し訳ないことをしてるってこともね」

2009.3.13

2010.01.12一部改筆


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