第六十九話「死神」
日可理は冷たい汗が背中を伝い落ちるのを感じた。
――これが、黒珠の者。
独特の不快感が、彼女と竜介の首の裏を刺す。
彼らの眼前にいるのは、小柄な「少女」だ。
身長は日可理とおなじくらいだろうか。
身体にぴったりと沿う黒衣からうかがえるその体躯(たいく)は丸みに乏(とぼ)しく、少年のようにかぼそい。
だが、そんな貧相な外観とは裏腹に、「彼女」のまとう力の気配は、凄絶であった。
「炎珠の神女(しんにょ)は、どこにいる?」
沈黙したままの日可理たちに対し、少女の姿をした黒珠は質問を重ねた。
お前たちに興味などない、と言わんばかりの素っ気ない口調。
だが、その小さな身体からは、抜き身の刃をのど元に突きつけるような殺気が放たれていた。
日可理は、このとき、隣に竜介がいてくれてよかったと心の底から思った。
さもないと、相手の凄まじい殺気と力の気配に、きっと闘う前から精神的に負けてしまっていただろう。
彼が放つ青い光と力の気配に勇気づけられる。
けれど――
日可理の白い光輝が加わり、廊下が、真昼のように明るくなる。
竜介さまを、今ここに足止めするわけにはいかない。
彼女の脳裏には、さっきから朝顔と夕顔が知らせてくる、ただならぬ状況にある紅子の部屋の様子が、まるで回転灯のように閃いていた。
そこは、人の脚ほどもあろうかという太さの、ミミズに似た化け物であふれていた。
ただ、紅子の寝台の周りだけが、鷹彦のかまいたちによってかろうじて化け物から守られている。
床には、白銀に輝く法円。おそらく志乃武のものだろう。
薄気味悪いピンク色をしたその化け物たちが、地下から侵入して結界の符を破った犯人であることに、日可理はすぐ気づいた。
どうやら敵は、やっかいなことに、地面から、床や壁の中を伝って侵入するものらしい。
だから、志乃武の法円で床からの侵入を防いでいるのだろうが――
鷹彦と志乃武の二人だけでは、続々と増え続ける化け物に防衛だけで手一杯で、押し返すことさえままならないようだ。
紅子はまだ、眠ったまま。
白鷺家姉弟のあいだには、感情が伝染することがしばしばあるのだが、このときも、志乃武の感じている焦燥が、日可理にも伝わって来ていた。
目の前の黒珠が、紅子の居場所を特定できずにいるらしいことは、日可理たちにとって、わずかではあるが福音だった。
ヘリポートからこの屋敷まで、目視で追跡したものの、屋敷内のどこにいるかはわからない――そんなところか。
日可理たちが今いる場所は、階段を上がりきった広間のような場所である。
そこからのびる廊下のかどを曲がると、紅子たちがいる客間がある。
日可理は、朝顔と夕顔を呼び出すと、黒珠に向かって竜介より一歩前に出た。
「お行き下さい」
肩越しに声をひそめる。
竜介は逡巡したが、ほんの一瞬だけだった。
「……すまない」
日可理はその言葉を背中で聞きながら、彼のあとを追おうとする黒珠の行く手をふさいだ。
少女の姿をした黒珠は、朝顔と夕顔が、己の斜め左右後方をそれぞれふさいでいるのを肩越しに確かめると、
「なるほど」
すべてを察したらしい、その無表情が、さらに冷たさを帯びたと思った、次の瞬間。
日可理の目の前で、何かがきらりと一閃し、彼女の式鬼たちが、消えた。
朝顔と夕顔は、ただの紙きれにもどり、ひらひらと床に落ちた。
黒珠の両手の甲からは、三日月型の巨大な刃が突き出していた。
「もう一度、尋ねる」
天窓からさしこむわずかな月光に、刃を青く光らせながら、黒衣の死神は言った。
「神女はどこにいる?」
日可理は、使い慣れた式鬼を失った落胆より、死への恐怖のほうが、俄然として強まるのを感じた。
だが、もはや退路はない。
日可理は袂の中の呪符をつかんだ。
「ご質問には、お答えできません」
声の微細な震えを聴き取られないようにと祈りながら言う。
「この屋敷に、あなたのご質問に答える者はおりません。どうぞおひきとりを」
2009.12.27一部改筆
2016.01.14加筆修正
このページの文書については、無断転載をご遠慮下さい。