
第六十九話「死神」
独特の不快感が、日可理と竜介の首の裏を刺した。
彼らの眼前にいるのは、小柄な「少女」だ。
身長は日可理とおなじくらいだろうか。身体にぴったりと沿う黒衣からうかがえるその体躯は丸みに乏しく、少年のようにかぼそい。
だが、そんな貧相な外観とは裏腹に、「彼女」のまとう力の気配は、凄絶であった。
日可理は冷たい汗が背中を伝い落ちるのを感じ、小さく身震いした。
「そう恐れずともよい」
日可理たちの内面を見透かしたように、少女は言った。外見にはおよそ似つかわしくない、奇妙に時代がかった物言い。
「おまえたちに興味はないゆえ。炎珠の神女のいどころを教えさえすれば、命までは取らぬ」
それに対し、何事か言おうとして口を開いた竜介を、日可理は手でさえぎった。
彼女は油断なく目の端で少女の動向を注視しながら、唇をほとんど動かさずに低い声で竜介に言った。
「ここは、わたくしにお任せを」
「しかし、きみ一人じゃ……」
「一人ではございません」
日可理は唇だけで微かに笑った。
「式鬼たちがおります。何より、来客に応対するのは当主の務め。さ、早く」
竜介は逡巡した。が、それもほんの一瞬だけだ。
「……すまない」
彼はきびすを返すと、肩越しにそれだけ言い残し、階段を駆け上がって行った。
その気配が遠ざかるのを背中に感じながら、日可理は黒衣の少女に意識をもどす。
少女は腕を胸の前で組み、たたずんでいた。
竜介の行き先に関心を示すわけでもなく、あとを追う素振りさえ見せない。罠を恐れているのか、それとも、追跡などいつでもできると思っているのか。
「神女はどこにいる?」
さして興味もなさそうな口調で、彼女は同じ質問を日可理に向かって繰り返した。
「わたくしは短気ではないが、気の長いほうでもない。早く答えるが身のためぞ」
日可理はそれには答えず、声を出さずに夕顔を呼び、志乃武を起こすようにと頼んだ。すると、とうに目を覚ましていたらしい志乃武から直接、答えが返ってきた。
すまない、と彼は言った。
そっちへ着くまで、少し時間がかかりそうだ。
日可理の視界に、彼がいる二階の光景が重なる。
廊下は床といわず壁といわず、ミミズに似た化け物の群れに占拠され、足の踏み場もないようなありさまだった。
おそらく、紅子のいる三階も似たような状態だろう。
竜介はもう紅子の部屋にたどり着いたろうか――いや、それよりも、目の前の彼女が居場所を尋ねるということは、あの気味の悪い環形動物たちはまだ紅子を見つけていないということなのだろうか。
「なぜ、お尋ねになるのです?」
日可理は答えの代わりに、黒衣の少女にそう問い返した。
「ミミズによく似たお友達が、もう見つけておられるのではございませんか」
言葉で時間を稼ぎながら、頭の中では自分が身に着けている呪符の数をかぞえる。
左右の袂にそれぞれ五枚、懐中にさらに五枚。志乃武が来てくれるまで、これだけで保たせねばならない。
そう考えたとたん、日可理は死への恐怖が、俄然として身のうちに立ち上がってくるのを感じた。
――恐い。心細い。
だが、退路はない。
「お友達か。面白いことを言う」
言葉とは裏腹に、能面のような無表情のままで、少女は言った。
「あれは狷巳という。わたくしの、いわば下僕だ。炎珠の者の気配を探させているが、どういうわけか見つからぬ。それゆえ、わたくしがおまえに尋ねているというわけだ。わかったら、さっさとわたくしの問いに答えよ」
炎珠の者の気配がない?
日可理は胸中でおうむ返しする。
儀式後の昏睡中は、気配が消えてしまうものなのだろうか。よくわからないが、とりあえずあの不気味な環形動物たちが紅子に危害を加えるような心配は、今のところなさそうだ。
日可理は少し安堵した。あとはこのまま、自分がここで持ちこたえさえすればいい――志乃武が来てくれるまで。
日可理はペンライトを持っていないほうの手で袂の中の呪符をつかんだ。
「ご質問には、お答えできません」
声の微細な震えを聴き取られないようにと祈りながら言う。
「この屋敷に、あなたのご質問に答える者はおりません。どうぞおひきとりを」
そのとき。
それまで淡々として無表情だった少女の目に、一瞬、氷のように冷たい輝きがよぎった。
「あいわかった。しかたあるまい」
つまらなそうな口調で少女は言い、ずっと組んでいた腕を解いた。
それと、その左右の手の甲から、二の腕に向かって大きく弧を描く白刃が出現したのとは、ほぼ同時。
死神の鎌を思わせる、二枚の切っ先が、日可理の身体を包む白光を青白く跳ね返す。
「その首、もらうぞ」
黒衣の少女はゆっくりと一歩、踏み出した。
「脅しても無駄でしてよ」
日可理は我知らず、相手の動きに合わせて一歩後退する。
今度は、声の震えを押さえることはできなかった。
「脅しではない」
淡々とした口調で少女は答える。
「その頭の中身を食らえば、おまえの記憶は我がものとなり、おまえの霊力は我が力の源となる。遥か昔に封じられたわたくしが、おまえと同じ言葉を話せるのはなぜだと思う?」
少女がまた一歩、踏み込む。
日可理は退く。
互いの呼吸と間合いを図る言外の駆け引きをしながら、日可理は昨日――日付が変わって、もう一昨日のことだが――朝食でも話題に上った、駐屯地の一件を思い出していた。
見つかった遺体のうち、どんなに完璧なものでも頭部だけは欠いていたという。
すべてをこの黒衣の少女が食べたわけではないのだろうが、それでも――
「おぞましい……」
日可理が思わずもらしたつぶやきを、少女はあっさり首肯した。
「そうだ、おぞましい。だが」
そう言いざま、彼女は間合いを詰めた。
「我らはそうせずにはおれぬ。我らを封じた者たちへの恨みゆえに」
その踏み込みは深く、速かった。
二つの刃はそれぞれ闇に青白い軌跡を描いて、一つは日可理の持っていたペンライトの先端を切り落とし、もう一つはまっすぐ彼女の頸部を狙ってきた。
まったく予期せぬタイミングで繰り出されたこの第一撃を、日可理は危ういところでかわした。
使い物にならなくなったライトを投げ捨て、空いた手を懐に入れる。
しかし。
彼女が符をつかんで取り出そうとするそのあいだにも、寸暇を惜しむかのように少女は第二、第三の攻撃を繰り出してくる。
日可理は自分自身が放つ光輝、それと、少女が放つ青白い鬼火のようなわずかな光でどうにか攻撃を避けるものの、相手の動きは恐ろしく素早い。
あまり鍛えられていない自分の動体視力と反射神経とでは、いずれ太刀打ちできなくなる。何とかして相手の動きを封じなければ――
そう思い焦るものの、懐に入れた手を出すことさえままならなくては、符を使うのに必要な間合いを取るなど不可能だ。式鬼を呼ぶ呪を唱え終わる前に、首を切り落とされてしまう。
反撃の糸口をつかめないまま、むだに息が上がっていく。
と、そのとき。
不意に、黒衣の死神がそれまでよりもさらに大きく踏み込んできた。
その長大な死の鎌をかわすには、少女と日可理の間合いは、あまりに狭すぎた。
2009.12.27一部改筆
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