第五十話「死に至る毒」
すべてが一瞬の出来事だった。
竜介の身体で視界をふさがれていた紅子は、最初、何が起きたのかさっぱりわからなかった。
わかっているのは、黒珠に襲われたということと、それによって竜介が傷を負ったらしいということだけ。
「竜兄!!」
鷹彦の悲壮な声が聞こえる。
竜介は唐突に青い輝きを失い、くずおれていく。
「竜介!しっかりして!」
紅子は足の痛みをこらえ、鷹彦の助けを借りながら、竜介の上体を抱えるようにしてどうにかその場に腰を下ろすと、懸命に呼びかけた。
だが、返ってきたのは竜介の肺が空気を求めて喘ぐ音だけ。
彼の身体はひどく熱く、額ににじむ脂汗が、炎の明かりをはじき返している。
と、紅子は彼の左肩にぬるりとした感触を覚え、そこに触れた手を見た。
オレンジ色の炎が、その手についた血を赤く照らす。
「……!!」
紅子は自分で自分の口をもう片方の手でふさぎ、悲鳴を押し殺した。
一方、周囲を探っていた鷹彦が何か見つけた様子で言った。
「紅子ちゃん、これ……!」
彼が膝をついているすぐそばに、「それ」は転がっていた。
竜介の雷電を受けてどす黒く焼け焦げ、もはやぴくりとも動かなくなっていた「それ」は、人の腕の太さほどもある、蛇だった。
紅子の脳裏を、半獣人の尻についていた大蛇がよぎる。
まさか――?
女のほうは灰になってしまったのに、尾の部分だけが、どういうわけか生き延びていた?
ありうる、と紅子は思った。
やつらはこの世の生き物じゃないんだから。
紅子からことのいきさつを聞いた鷹彦は、急いで兄のシャツをはだけると、傷口をあらためた。
左の肩に大きな牙の痕が四つ、赤黒い口を開けている。
血が止まる様子はない。
傷口の皮膚の色が青黒く変わりつつあるのは、毒のせいだろうか?
紅子が言った。
「毒……吸い出したほうがいいのかな」
だが、彼女の提案に鷹彦はかぶりを振った。
「やめとこう。普通の毒蛇じゃないんだから、吸い出した人間がその毒でやられることもありうる」
確かにその通りだった。
だが、もし毒がなかったとしても、このまま出血が続いたら……。
紅子はひそかに唇をかんだ。
悔しい。
女のほうにばかり気を取られて、尾の部分が離れたことに全然気づかなかったなんて。
竜介に視線を戻せば、彼の顔色は土気色になりつつあった。
呼吸は浅く、短い。
けれど、とりあえず傷口を押さえて止血するほかに、いったいどういう処置をすればいいというのか。
普通の毒蛇なら、血清がある。けれど、彼の身体に入った毒はこの世の生き物のものではないのだ。
死、という文字が紅子の脳裏をよぎる。
竜介が――死ぬ?
そう考えたとたん、目の前の世界がゆがみ、身体がわけもなく震えだす。
そんな紅子の様子を見て、鷹彦はいつも頼りにしている長兄の窮地に際し、己を奮い立たせようとしていた。
俺がしっかりしなくちゃ。
ダメもとで、もう一度志乃武くんに連絡してみるか――と自分の携帯電話を取りだした、そのとき。
車のエンジン音が近づいてきた。
ヘッドライトが紅子たち三人をまばゆく照らしだしたかと思うと、エンジン音がやみ、続いて扉を開閉する音が響いた。
逆光でよくはわからないが、どうやら二人降りたようだ。
そのうち、先に降りた一人が駆け足でこちらにやってくる。
その影法師を見るなり、鷹彦は、
「志乃武くん!」
と呼びかけながら駆け寄った。
影法師の身長が、鷹彦よりも頭一つ分ばかり低かったのと、中性的なその名前から、紅子はシノブをてっきり女だと思っていたのだが、その予想は間違っていた。
「鷹彦さん」
返ってきた声は、明らかに若い男のそれだった。
「いったい、何があったんですか?あっちもこっちも火の海で……」
「くわしい話はあとだ」
鷹彦は志乃武の言葉をさえぎり、言った。
「竜兄と紅子ちゃんがケガをしてるんだ。とくに、竜兄のほうが、黒珠にやられて……かなりやばいことになってる」
「竜介さんが?」
やや切迫した口調でそう言うと、彼は鷹彦と一緒に急ぎ足で紅子のほうへ近づいてきた。
正確には、紅子が膝に抱えている竜介のところへ。
まもなくヘッドライトの中に現れたその人物は、二十歳くらいのほっそりした青年で、かつ素晴らしく整った美貌の持ち主だった。
「初めまして。白鷺志乃武です」
彼は自己紹介もそこそこに、紅子の正面にひざまづき、彼女にぐったりと頭をあずけている竜介の青ざめた顔をのぞき込んだ。
「竜介さんのケガは、どこに?」
その質問に応えて、彼の横にいた鷹彦が竜介の左肩を示す。そこに空いた四つの傷口を。
それを見た志乃武の顔が曇る。
「……あの!」
紅子は思い切って尋ねた。
「竜介……助かりますよね?」
医者でもなければ素性さえ定かでない初対面の相手に、どうしてそんなことを訊いたのだろう。
わからないけれど、でも、目の前のこの美貌の青年は少なくとも今の自分より黒珠について知識がありそうな、そんな気がしたのだ。
だが、彼女の質問に答えたのは、彼ではなかった。
「大丈夫ですよ」
聴く者の心を晴れやかにするような、明るい、柔らかな声。
それは、不意に紅子のすぐ背後から、聞こえたのだった。
2009.12.3改筆
2015.10.11加筆修正
このページの文書については、無断転載をご遠慮下さい。