第四十九話「殃禍の夜・5」
紅子は、ちろり、と舌で唇を湿らせた。
周りが揺れているような、あの奇妙なめまいは、いつの間にかなくなっていた。
意識は相変わらずぼんやりと焦点を失っている。
半分夢を見ているような――けれど、今の彼女には何らさしさわりのないことだった。
目の前の標的に向かって無造作に片手を動かすだけで、炎が舞う。
恐怖も、絶望も、今や跡形なく消え失せた。
今の彼女を支配するのは、ただ背筋がゾクゾクするような全能感だけ。
力を振るうことの快楽に、彼女は没入していた――まるで、新しく手に入れたおもちゃに夢中になる、子供のように。
攻守は逆転した。
半人の獣めがけて紅子が降らせる無数の炎の雨が、瞬く間に周囲を火の海に変えていく。
無傷で残っていたヘリや軽飛行機も何台か炎に飲み込まれ、高温にさらされた燃料タンクがあちこちで爆発する音が耳を聾する。
半人半獣の女は、獣の反射神経でもって炎の直撃はまぬがれたものの、気がつくと幾重もの炎の檻によって捕らえられ、逃げることも攻めることもできなくなっていた。
獣の爪は、迫撃戦でこそその力を発揮する。
しかし、それは逆にいえば、その腕の長さよりも遠いところにいる相手には徹底的に無力ということだ。
そして、紅子は今、相手の武器の最大にして唯一の価値を封じていた。
鉄筋コンクリートをバターのように切り裂く爪の持ち主も、己が苦手とする強烈な光と熱を放つ炎には近づくことすらできず、ただ、すさまじい憎悪と殺意に満ちた目を、揺らめく赤い壁ごしに送るばかりだ。まるで、視線で相手を射殺そうとでもするかのように。
しかし、いかに恐ろしげな形相も、もはや恐怖の片鱗さえ紅子に抱かせることはできなかった。
「どうする?」
紅子は炎の中から、相手に向かってほほえみかけた。
「あたしはあんたと違って寛大だから、逃げるならとどめは刺さないであげる」
獣の身体を持つ異形の女は、その申し出を鼻でせせら笑った。
「逃げる、ですってぇ?」
その白い肌は、炎の雨がかすったせいであちこち醜く焼けただれ、髪も、熱と煙でつやを失い、乱れ放題に乱れていた。
それでも、自らの勝利への確信は、彼女にとって揺るぎないものだったらしい。
「まだ一つしかぁ魂縒を受けてないおまえなんかにぃ、あたくしはぁ殺られたりはしないのよぉ!あたくしはねぇ、おまえの首級をぉ龍珪さまにさしあげて……そうしてぇ、あたくしのこの身体をぉもっと美しいものに変えていただくんだからぁ――!」
その言葉が、終わらないうちに。
異形の獣は驚くべき跳躍力で炎を跳び越え、紅子に向けて、その刃を大きく振り上げた。
それより少し前。
建物が崩壊し、今はただ炎に包まれているがれきの山に、変化があった。
盛大に燃えているのはもっぱら山の中央部分で、周縁はほとんど炎と煙をまぬがれている。
その周縁部のうち、建物の玄関部分があった辺りで、身じろぎするようにゴトゴトと動くがれきの一群があった。
振動は次第に大きくなり――
やがて、重い爆音とともにその部分にあったがれきが吹き飛んだ。
コンクリート塊の山に、ぽっかりと谷間ができる。
その浅い谷底に、二つの人影があった。
「やぁれやれ。酷い目にあった」
人影のうち片方は、がれきの小山を超えて平らな地面に降り立つと、ふう、と大袈裟にため息をつき、もう一方の人影に呼びかけた。
「大丈夫か、竜兄」
「ああ」
竜介は弟のあとに続いて谷間から出てくると、身体についた粉じんを払いながら言った。
「つくづく、今回はおまえを連れてきて正解だったと思うぜ」
「へへっ。まあ、いきなりだったし、ちょっとあせったけどね」
鷹彦は自慢げに鼻をこすってそう言った。
彼は空気圧を自在に変えられる。
自分たちの周囲の空気圧を低くして真空状態を作り出すこともできれば、極限まで高めて鋼鉄のような壁を作ることもできる。
彼はとっさに力を使い、自分と兄の頭上に目には見えない「天井」を作って、降り注ぐコンクリート塊の下敷きになることをまぬがれたのだった。
「ところで、我らが姫はどこ行っちまったんだ?」
竜介は紅子の姿を探しながら言った。
建物が倒壊したあの時――
抱えてかばおうとしたが間に合わず、外に突き飛ばしてしまったが、あれからどうなったのか、彼はずっと気になっていた。
白鷺家の車もまだ到着していないようだが、一体彼女はどこへ行ったのだろう?
「竜兄、あれ!」
鷹彦の切迫した声。
竜介は弟が指差す先を見た。
駐機場が燃えている。
まさか――
いやな予感が胸をよぎる、ひやりとした感触。
と、そのとき。
凄まじい悲鳴が、辺りに響き渡った。
紅子の声かどうかまではわからないが、それは確かに女の声だった。
断末魔と呼ぶにふさわしい、絶叫。
二人は顔を見合わせると、次の瞬間には悲鳴の聞こえた方角へ向かって走り出していた。
ほどなくして、彼らは燃え盛る炎の中に目指す少女の姿を見つけた。
彼女は、その足元でひときわ激しく燃えている「何か」を見下ろしていた。
炎の中に浮かび上がる、少女らしさのない艶然とした笑み。
何かに陶酔しているような、焦点の定まらない瞳。
彼女が力を暴走させた、あの雷雨の日の記憶が竜介の脳裏をかすめる。
が。
「おーい、紅子ちゃーん!!」
何も知らない鷹彦が、ご丁寧に両手を振り回しながら、彼女を大声で呼んだ。
「ばっ……!」
竜介は慌てて弟の口を塞ごうとしたが、遅い。
紅子はこちらへ視線を転じ、彼ら二人の存在に気づいた。
彼は心中、舌打ちすると胸ポケットの呪符をさぐった。
また、あのときと同じことを――?
その危惧はしかし、浮かんだ次の瞬間、消えた。
竜介たちの姿を認めたとたん、紅子の表情が変わったのである。
白かった頬に朱がさす。
瞳に強い感情の光がもどる。
そして、いつもの少女らしい笑みが、鮮やかに広がる。
次の瞬間には、彼女は彼らのところへ向かって、駆けだしていた――といっても、その速さは、歩いているのとほとんど変わらなかったが。
彼女は右足をひどく傷めている様子で、足運びのぎこちなさが遠目にもわかるほどだった。
炎は何度となく彼女に触れたが、その肌や髪はもちろん、着衣にさえ燃え移ることは決してなかった。
それが果たして彼女自身の力によるものだったのかどうかは、わからない。
確かめる前に、鷹彦が再び風を起こして火の海を切り開き、火傷をせずに通れる道を造ってしまったからだ。
彼は我先に紅子に駆け寄ると、足の痛みからか、それとも彼らと無事に再開できた安堵からか、その場に崩れそうになる彼女を、
「大丈夫?」
と抱き留めた。
さすがにこのときばかりは、紅子も彼の手を拒まなかった。
「よかった……」
息を切らし、額に玉の汗を浮かべて、紅子は言った。
「あたし……二人とも、死んだと思っ……」
そのあとは、声にならなかった。
笑うべきか、それとも泣くべきなのか決めかねているような表情のまま、彼女の両目に小さな光がふくれ上がる。
その光は流れ落ちて、乾いた血のこびりつく左頬の傷をぬらした。
竜介たちは、胸に小さな痛みを覚えた。
「……すまなかった」
竜介が言うと、横から鷹彦が付け足した。
「でもさ、俺たちも紅子ちゃんのこと、心配してたんだぜ。ほんと、無事でよかったよ」
紅子は涙を手の甲で拭いながら、彼らの言葉に小さくうなずいた。
しかし――
再会の喜びは、そう長くは続かなかった。
音もなく地を這う影が、一つ――彼らに迫りつつあった。
悪意に満ちた、小さな闇が。
「竜兄、彼女のケガ治してやって」
鷹彦がそう言って自分を抱える手を緩めたとき、紅子は内心ひどく慌てた。
痛みから解放されたいのは山々なのだが、竜介にケガを治してもらう時に感じる、あの何とも言えない甘い感覚が慣れない。
なぜか、ものすごく恥ずかしいのだ。
「いや、あの、大丈夫だから!」
そう言って、紅子は大丈夫なことを証明するために自分の足で立とうとした。が。
「ほら、全然っ……痛!」
次の瞬間、足首に激痛が走り、平衡を失った彼女の身体は、結局その意志とは無関係に竜介の手の中へぽそっと落ちていた。
「なんか、こんなこと前にもあったな」
竜介のクスクス笑う声がすぐ頭上で聞こえる。
紅子はかぁっと顔が熱くなるのを感じた。
頭の中はパニックを起こしかけていたが、これ以上ジタバタすれば余計に相手を面白がらせるだけだと思い、じっとこらえる。
すると、事情を知らない鷹彦が、怪訝そうに尋ねた。
「前にも、って?」
「ああ、いや、別に……」
大したことじゃない、と竜介が答えようとした、そのとき。
「それ」は牙をむいた。
三人はほぼ同時に強烈な黒珠の気配に気づいた。
だが、闇の中からいきなり飛びかかってきた「それ」を視界の端にとらえたのは竜介だった。
彼はとっさに紅子を抱え込み、自分の身体を盾にした。
青い光と金色の稲光が彼を包む――が。
黒い影の動きのほうが、一瞬、素早かった。
「うぁっ!?」
次の瞬間、左の肩に激痛が走り、竜介は悲鳴を上げた。
肩に、何かが刺さった。何か、ナイフのような鋭いものが。
「竜介!?」
「竜兄!!」
紅子と鷹彦が自分を呼ぶのが聞こえるが、返事をしている余裕などあるはずもない。
彼は歯を食いしばって激痛に耐えながら、自分の肩に突き立っている「何か」に力を集中させた。
ギヂッ、という濁った断末魔と、「何か」がずるりと肩から落ちる感触。
だが、気力を保てたのはそこまでだった。
襲ってくる凄まじい痛みに、目の前が暗くなり――
竜介は意識を手放した。
2009.11.29改筆
2015.10.10加筆修正
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