第三十五話「出発前夜・4」
石柩の分厚く重い蓋を押し開け、中を覗き込もうとしている誰かを、紅子は必死にとめようとしていた。
蓋は不気味な音を立てながら、少しずつ、動いていく。
その音が、蓋に彫られた饕餮の哄笑に変わる。
闇が口を開ける――
「やめて――!!」
自分の叫び声で、彼女は飛び起きた。
夢――か。
思わず、ふぅ、と長いため息がもれた。
全身が冷たく不快な寝汗でべとつき、床に就く前よりも疲労が増しているようだ。
軽い吐き気を覚えたが、昨夜の夕食をほとんど残したので、胃の中は空っぽ。逆流してくるものは何もない。
黒珠の封印は、純粋な正義感から解かれた――それが死をもたらすモノとも知らずに。
もっとも、あらかじめ警告が与えられていたとしても、司郎の父がそれに従ったとは思えないが。
九年前の記憶を取り戻す前の彼女自身がそうだったように、彼もまたばかげた話として一笑に付し、信じようとはしなかったろう。
藤臣の話によると、彼の研究所のスポンサー企業は黒珠の封じられた石柩をそのまま闇に葬ろうとしていたらしい。
ということは、彼らは黒珠のことをどんなものかわかっていて、井出氏に発掘を指示したのだろうか――後々、彼がどういう行動に出るかを予測せずに?
それとも――考えたくないことだが――彼らの中に、黒珠の解放を望む者がいたのか?
今日から休学でよかったと、紅子は心から思った。
こんな気分で学校に行っても、授業など頭に入りそうもない。
ふらふらとベッドから抜け出し、彼女はシャワーを浴びに階下に降りた。
と、台所のほうからかすかに人の気配が感じられる。
親父、とうに道場に行ったと思ってたのに、まだいたのか――
などと思っただけで、そのまま風呂場へ直行したけれど。
熱い湯で脂汗を洗い流し、洗濯から上がったばかりの着替えに袖を通すと、気分はいくらかましになった。
食欲はまださほどわかなかったが、とりあえず胃に何か入れておこうと思い、彼女は台所の気配の主をやはり父親だと信じて疑わずに、廊下から声をかけた。
「おはよ、父さん。何か食べるものある?」
ところが、返ってきた声は、父のものではなかった。
「おはよう。親父さんなら出かけたよ」
紅子は驚いて視線をあげ、相手をあらためた。
「竜介!?」
「久しぶり」
そう言って笑う彼の笑顔をひどく懐かしいと感じ、ホッとしている自分に気づいて紅子は愕然となった。
いやいやいや、これは今朝の夢見が悪かったから、それだけだ!
「ずっとどこ行ってたの?」
できるだけさりげなく訊く。
「うーん、まああちこちと」
竜介は彼女に背を向けてキッチンにむかいながら、あいまいに答えた。
「白珠のところや俺の家にお姫様をお連れするにあたって、いろいろ準備がありましてね」
お姫様……って、あたしのこと?
なんだかむずがゆいような照れくささを感じて、紅子は赤くなった。
が、今はそんなことに引っかかっている場合ではない。
白珠のところ、と竜介はたしかに言ったのだ。
「白珠のところって、どこ?黄珠のところには行かないの?」
そう尋ねようと口を開いたそのとき、竜介がダイニングテーブルに皿と水の入ったグラスを持って戻ってきた。
「はい、どうぞ」
そう言って彼が紅子の目の前に置いた皿には、チーズとトマトのサンドイッチが載っていた。
祖母がよく作ってくれた、紅子の大好物の一つ。
「これって……」
「おじさんからきみの好物だって聞いて、作ってみたんだ。口に合うといいんだけど」
紅子は、今すぐむさぼり食べたいという衝動にかられたが、彼に対してまだ素直な態度をとれないのと、溜まりに溜まっていた質問を吐き出したいのとで、俄然わき上がってきた食欲を無視し、口を開いた。
「それよりあたし、訊きたいことが……」
しかし。
次の瞬間、あろうことか腹の虫が盛大な抗議の音を立て、彼女の言葉をさえぎったのだった。
紅子が顔を真っ赤にして黙り込むと、竜介は苦笑して言った。
「俺はいきなり消えたりしないし、話は飯を食いながらでもできる。昨日の夕食、あんまり食わなかったんだって?とりあえず、落ち着いて腹ごしらえしたら?」
確かに、彼の言うとおりだ。
紅子は椅子に腰を下ろすと、食欲に従うことにした。
サンドイッチを一口かじるや、自分がいかに空腹だったかということを改めて思い知る。祖母が作ったものとまったく同じ味というわけではないが、これはこれでおいしい。
食べながらあれこれ質問するつもりだったのに、竜介がコーヒーサーバーを片手に、
「コーヒーどう?紅茶のほうがいい?」
と訊いたとき、
「コーヒー。ミルクたっぷりで」
と答えたことを除いて、紅子は何も言わずに黙々と食べ続けた。
食欲のない時に好物を用意しておいてくれるなんて、竜介ってなかなか気が利いてる。
料理のおいしさもあいまって、彼女はちょっとじーんとなった。
竜介はブラックコーヒーとミルクコーヒーがそれぞれ入った二つのマグカップを両手に持って来ると、紅子とはテーブルの角を挟んだ隣に腰を下ろした。
「最初の目的地は、東北地方にある白鷺って家だ。そこが白珠を祀ってる」
彼は自分のコーヒーを一口すすってから、独り言のように言った。
「初っぱなから、竜介の家に行くんじゃないんだ」
満腹になったせいで気が緩んだのだろうか。サンドイッチの最後の一口をミルクコーヒーでのどに流し込むと、紅子は我知らずそうつぶやいていた。
ハッと気づいたときはもう遅かった。
「そ。残念?」
こちらをのぞき込む竜介の目が、いたずらっぽく笑っている。
「別にっ」
ぷいっと横を向いて答えると、その視界の外で竜介のクスクス笑いが聞こえた。
また顔がかぁっと熱くなる。
一瞬でもこの男に会えて嬉しいなどと思ったことを、紅子は激しく後悔した。
「俺ンちに行くのは、白鷺家のあとだ」
竜介はまじめな口調に戻って言った。
「たぶん、ちょっと長逗留になる……と思う」
紅子は彼に視線を戻した。
「何で?黄珠のある場所には行かないの?」
この質問に、彼は困った表情でしばらく沈黙した後、ゆっくりと言葉を選びながら答えた。
「黄珠は……実は今、行方がわからなくなってるんだ」
2015.09.10加筆修正
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