第百三十七話「凍結・10」


 特大の落雷のような、ヘッドセットを通してさえ耳を聾する轟音が響き渡り、ヘリの機体がびりびりと震えた。
 ところが――その場にいた誰もが予期したような事態は、起きなかった。
 巨大な氷塊はヘリのローターにぶつかる寸前のところで、目に見えない壁に激突したように跳ね返ったかと思うと、ヘリが着陸しているテラスの黒い石畳に落ちて轟音とともに砕け、大小の氷山と化したのである。
 飛散した鋭い氷のかけらは、やはり見えない壁にさえぎられ、ヘリとその傍に立つ乗客たちには届かなかった。
 何も破壊されず、誰もかすり傷ひとつ負わなかった。
 竜介を始め、志乃武、日可理、そして加地の四人が目を開けて最初に見たのは、ヘリの周囲にコンパスで描いたようなきれいな円形を描いて並ぶ大小の氷塊と、その円周のすぐ内側にむかって、何事もなかったように歩いていく鷹彦の背中だった。
『な……んだったんだ?今のは……』
 加地が誰にともなく放ったうわずったつぶやきに、
『小手調べだよ、ヤツらの』
と、鷹彦が背中を向けたまま答えた。
 その言葉にかぶせるように、再びコクピットから切迫した声が届く。
『氷殻の開口部が閉まり始めました!上空からはさきほどと同じ氷の塊と思われる物体が高速接近中!今度は複数です!』
『あんたらは早くここから出ろ』
 鷹彦は半身だけ後ろを振り返ると、そう言い終えるなりヘッドセットをはずして加地に向かって投げた。
 それをただ呆然と受け止める加地の耳を、次の瞬間、さっきよりも凄まじい轟音がつらぬく。
 同時に、視界は砕けた氷塊がまき散らす細片の雪煙で一瞬にして真っ白に変わった。
 ようやく視界が開けたとき――
 大小の氷塊のはざまでうごめく黒い影を、彼らは見た。
 それは牛ほどもあろうかと思われるような、巨大な黒い犬だった。
 いや、正しくは「犬に似た獣」と表現するべきか。なぜなら、それは大きさからして普通の犬とは明らかに異質な存在だったのだから。
『彼の言う通り、早くここを出てください』
 竜介はそう言ってヘッドセットをはずし、あまりにも想像を超えた事態に呆然としたままの加地の手に押しつけるようにしてヘリを離れた。
 志乃武と日可理も竜介にならい、加地にヘッドセットを返してヘリを降りる。
『加地さん、急ぎましょう!!このままではヘリが出られなくなります!!』
 そう叫ぶコクピットからの声で、加地はようやく我に返った。
 竜介たちは既に、黒い犬に似た怪物のほうを向き、こちらを見ていない。
 だが、彼はその背中にむかって敬礼すると、すばやく出入り口から離れ、
『ハッチを閉じろ!』
マイク越しにコクピットに指示を飛ばした。
『ただちに離脱する!』

 その獣は全身を焼けただれたような醜い傷跡に覆われ、ところどころに残った元の毛皮らしい黒い剛毛の生えた部分が、まだら模様のように見えた。
 左右に大きく裂けた口からは長く鋭い牙をのぞき、ねばねばとしたよだれが白い糸を引いている。
 牙のあいだからシュウシュウと音を立てる吐息が、冷気の中で白くこごる。
 鼻面に刻んだ深いしわは世の全てを呪うかのようであり、そしてその奥にあるはずの左右の目は、完全に潰れていた。
 では、どうやって物を見ているのかといえば、額中央にもう一つ目があり、それによって視界を確保しているものらしい。
 そしてそのたった一つの目は、竜介たち闖入者(ちんにゅうしゃ)に対する残忍な敵意に燃えていた。
 竜介たちの背後では、ヘリが離陸しようとしていた。
 爆音が遠ざかり、メインローターの吹き下ろす風が弱まり始めた、そのとき。
 獣が天を仰ぎ、吠えた。
 地の底から響いてくるような咆吼がヘリの爆音をしのぎ、辺りを震撼させる。
 しかし、その音波は飛び去ろうとするヘリにダメージを与えるほどのものではなかった。
 そしてもちろん、獣もそんなことは考えていなかったようだ。
 咆吼を発している大きな口――そのとがったあごの先に、青白い渦巻きのようなものが現れた。
 それは見る間に巨大な結晶と化し、次の瞬間、白い弾道を描いてヘリに襲いかかったのである。
 その結晶は、さきほどヘリを狙って降ってきた氷塊と同じものだった。
 だが、その氷塊もやはり見えない壁にはばまれ、ヘリに届く前に砕け散った。
 機影は見る見る遠ざかっていく。  獣はさらに追撃を試みたが、氷のかたまりは重力に負けて大きく目標をそれ、放物線を描いてどこかへ落ちていってしまった。
 『氷殻』の壁が不気味な灰白色に輝いているせいだろうか、サーモバリック弾で開けられた穴を通して見る外界は黒っぽく見える。そして、その穴は今しも閉じようとしていた。
 竜介たちを運んできたヘリがそこをすり抜けたのは、まさにぎりぎりのタイミングだった。
 テールローターが穴の外へ消えると、ほぼ同時に『氷殻』の壁はきしむような音とともに閉じた。
 加地たちを巻き込まずに済んだのは喜ばしいことだったが、竜介たちの退路がこれで完全に絶たれたことも確かだった。
 しかし、彼らに自らの悲劇を嘆いているひまはなかった。
 目の前の敵が、ヘリを逃した恨みを今しも彼らにぶつけようとしていたからである。
 ヘリの爆音がなくなると、突然、辺りは静寂に包まれた。『氷殻』によって閉ざされた世界では、風も吹かない。
 その無音の世界に、ただ獣の狂ったような咆吼だけが、傲然と響く。
 と同時に、巨大な氷塊が竜介たち四人を襲った。
 だが、もはやこの攻撃に対して身構える者はいなかった。
 彼らの眼前には見えない壁があり、それが氷塊をうち崩すのがわかっていたからだ。
 そして次の瞬間、彼らの思った通り、氷塊は砕けて白い粉煙を巻き上げた。
「何度やってもムダだっつーの」
いつもの軽い調子で、鷹彦が言った。彼の全身は、青い光輝に包まれている。
「今日のオレサマの守りは鉄壁だぜ」
「やっぱりお前だったんだな」
そう言って鷹彦の隣に並んだ竜介の身体も青く輝いていた。
 鷹彦はニッと笑った。
「自衛隊がいるあいだは、説明がめんどくさくて黙ってたけどな」
「騒音がなくなって、やっとお互いの声が通るようになりましたわね」
 日可理が分厚いジャケットの内ポケットから護符の束を取り出しながら言うと、その言葉に志乃武がうなずいた。
 彼ら二人の光輝はまばゆいばかりの白。
「竜介さんと鷹彦さんは先へ進んでください」
志乃武が言った。続けて日可理が、
「ここはわたくしと志乃武さんで充分です」
 そのとき――
「そうか?」
 その場にいた誰のものでもない、硬質で抑揚のない声。
 だが、日可理と竜介は、その声に聞き覚えがあった。
 とくに日可理にとっては、忘れたくとも忘れることなどできない声だった。
 日可理が声のほうをふりかえろうとするのと、小さな黒い影が彼女めがけて躍りかかるのとは、ほぼ同時だった。

2012.01.13


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