第百三十六話「凍結・9」


 暗く沈んだ視界の中で、窓だけがほんの一瞬、白く輝いた。
 ややあって、耳を覆うヘッドセットから加地自衛官の声が聞こえた。
『もうゴーグルをはずしても大丈夫です』


 猿渡教授の事前説明を受けてからおよそ四十分後、竜介たち四人は自衛隊の輸送ヘリに搭乗していた。
 目標空域へ向かうヘリは二機で、そのうち先行する機体は武装ヘリ。『氷殻』に穴を開ける液体の爆薬――サーモバリックというらしい――を積んでいる。
 その後に続くのが竜介たちの乗る輸送ヘリというわけだ。
 実用一辺倒の機内に客室などというしゃれたものはなく、乗客たちは貨物室の両側の壁に折り畳まれたベンチを倒して向かい合わせに座ったものの、乗り心地がいいとは言い難い。  そしてその乗り心地の悪さは、エスコート役として彼らと同乗している一人の自衛官によってさらに残念なものになっていた――とくに鷹彦にとって。
 その自衛官とはすなわち、加地である。
 しかしながら、彼の言動や物腰はどちらかといえば強面なその肩書きや制服からは想像できないほど柔らかく、丁寧だった。
 もしかすると、上官から竜介たちをできるだけ丁重に扱えと言われているからなのかもしれないが、だとすると彼――あるいは彼らは、竜介たちをどういう地位の人間だと思っているのだろうか。
 対策本部の調査員。そんなところか。
 しかし、そうだとしたらずいぶんな扱いの調査員もいたものだ――と、竜介は苦笑した。
 輸送ヘリが内部に侵入して自分たち四人を降ろし、離脱するまでの制限時間は、『氷殻』に開いた穴が再び閉じ始めるまでの、わずか三十分。
 『氷殻』から離脱後、二機のヘリはそれぞれ帰投。
 迎えに来る予定の機体はない。

 寒さにやられないよう、エンジンをかけたままで竜介たち乗客を待っていたヘリは、客が乗り込み終えると同時に浮上を始めた。
 乗り込む前に配られた無線ヘッドセットが耳の保護を兼ねているおかげで、爆音はさほど気にならない。
 ただ、機体がほとんど急浮上に近い速度で上昇しているらしく、重力で固いベンチに押しつけられる身体が痛かった。それに、機体の振動もそうとうひどい。
 予想以上の乗り心地の悪さに辟易しながら竜介が隣にいる弟を一瞥すると、むこうもこちらを見ていた。
 目が合うと、鷹彦はしかめ面で肩をすくめて見せた。
 対面のベンチに視線を移すと、志乃武と加地に挟まれて座る日可理は真っ青な顔でうつむき、口元に手を当てているところだった。
 志乃武は吐き気をこらえる姉の背中をさすっている。
 その反対側に座る加地は隣の美女を心配そうに見てから腕時計に目を落とし、ついで顔をあげると、向かいに座る竜介たちに口を開いた。
『上昇はあと数分で終わります。』
ヘッドセットから加地の声が聞こえた。
『揺れもいくらかましになりますので、皆さん、すみませんが今しばらくごしんぼうください』
 その言葉どおり、しばらくして身体にのしかかっていた重力が突然、なくなった。
 その瞬間、竜介たち四人が申し合わせたようにほっと息をついたことは、言うまでもないだろう。

 加地が、顔の半分以上を覆うような大きくて無骨なサングラスを取りだして乗客たちに配ったのは、青白かった日可理の頬にやや赤みが戻ってきたころのことだった。
『まもなく先行機体が『氷殻』に穴を開けます』
と、彼はサングラスを配りながら言った。
『閃光で目をやられないよう、自分が合図をしたらこのゴーグルをかけてください』
 彼らが乗っている室内には、はめ殺しの小さな窓が左右に一つずつあるきりだが、念のためだと加地は言った。

 ゴーグルをはずすと、それまで鉛色に塗り込められていた窓のむこうに、別の景色が広がっていた。
 『氷殻』に開けられた穴はかなり大きく、貨物室の小さな窓からでも、薄明の中に浮かび上がる「それ」をみはるかすことができた。
 いくつもの尖塔、巨大な列柱とそれらに支えられた屋根やテラス、空中庭園――禍々しい漆黒の神殿。
 邪悪と災いとが集い、空中に浮遊するその神殿は、まるでこの世を自らと同じ漆黒の闇で覆い尽くそうとするかのように巨大な両翼を広げている。
 その禍々しさが決して見た目だけのものではないことは、竜介たち四人には体感としてわかっていた――首筋に現れた独特の感覚によって。
 竜介の脳裏に、テレビ画面にほんの数秒映った荒い画像が、たたずむ小さな影がよみがえった。

 ここに、紅子がいる。

『目標地点確認。これより降下を開始』
 おそらく副機長か機長だろう、加地のものではない声が聞こえた。
 次の瞬間、竜介は座席からふわりと身体が浮き上がりそうになり、慌ててベンチの端をつかんだ。
 離陸のときの重苦しい感覚よりはましだが、これはこれで気持ちが悪いことに変わりない。
 それに、揺れるのは離陸のときと同じだから、身体が浮いている分、ヘタをすれば座席から転げ落ちかねない。
 そうこうするうちにも、窓の外では黒い神殿がどんどん大きくなっていき、やがて、窓は墨で塗りつぶしたように黒一色になった。
『着陸します。総員、衝撃に備えてください』
 さっきと同じ声が聞こえて数秒後、警告のわりにはたいした衝撃もなく、ヘリは神殿の中央から張り出した広い前庭のようなテラスに降り立った。
 後方ハッチが開き、外気とローターを回転させるエンジンの爆音とが勢いよく流れ込む。
 大気は思ったより濃く、寒さは幸いにも地上より暖かく感じられるほどだった。
 だが、首の後ろのチリチリする感覚は今や痛みに近く、それが竜介たちの背筋を冷たくさせていた。
 この神殿に住まう邪悪な存在からの攻撃は今のところ、ない。
 ないけれど、首の感覚が、否、全神経が警告を発していた。
 ここには恐るべき力を持つ「何者か」がいる。
 何人(なんぴと)たりとも、一歩足を踏み入れたが最後、生きては戻れない――と。
 しかし、怖じ気づいている時間はない。ヘリは三十分以内にこの『氷殻』から離脱してしまうのだ。
 もっとも、ここまで来て降機をしぶるような者はいなかった。
 竜介は鷹彦、志乃武、日可理の顔を見た。
 どの顔にも恐怖と緊張が見て取れる。
 だが、彼らはいずれも竜介と目が合うと、決然としてうなずいた。
 竜介は彼らにうなずき返すと席を立ち、エスコート役の加地に向かってヘッドセットのマイク越しに礼を言った。
『ここまで、ありがとうございました』
 ところが、ヘッドセットをはずそうとする竜介の手を、加地はなぜか止めた。
 竜介がけげんな顔をすると、彼は思いきった様子で口を開いた。
『猿渡先生から聞きました。あなたがたは対策本部の人間ではない、と』
 早口だった。
 竜介は相手の言葉に「やっぱり知ってたのか」と思っただけで、とくに驚きはしなかった。
 ただ、なぜこんな別れ際にそんな告白を始めたのか、それが妙だった。
 ヘッドセットを通したこの会話を聴いていたヘリのパイロットか副パイロットが、
『加地さん』
と、小さくとがめるような声をあげたが、加地はその声を無視して続けた。
『迎えのヘリもなしで、ただの調査なんかであるはずがない。あなたがたがやろうとしていることは、本来、我々がやるべきことだ。なのに、なぜ、あなたがたなんですか。なぜ、我々に命令が下りないのか』
 たしかに、大小さまざまな火器を備え、武力において万全の装備を誇る自衛官にとって、徒手空拳で得体の知れない場所へ向かう竜介たちは頼りなげどころか、自殺行為にしか見えないだろう。
 こんな無防備な連中に行かせたら、失敗するのは火を見るより明らかだ。
 貴重な金と時間を無駄にするだけだ。
 上の連中はいったい何を考えているのか。
 そんな憤りにかられても無理はない。
 それに加えて、この加地という男は、ひょっとして自分が元々所属していた部隊を全滅させたものがこの浮遊する宮城にいることをなんとなく感づいているのではないか――ふと竜介はそんなことを思った。
 できることなら、仲間の仇を自分で取りたいと思うのが人情である。自分にそれだけの力があると自負する者ならばなおさらだ。
 このギリギリのタイミングで加地がこんな質問を始めたのは、自分こそがここで降りるべきなのにという無念さ、無力感を心の裡で抑えきれなくなったからなのだろう。
 しかし――
 それではなぜ自衛官である加地ではダメで、一般民間人の自分たちが行かねばならないのかという、その理由を、どう説明したものだろう?
 竜介が返答に窮していると、
『あなたがたが持っている、物理的な武力というものでは、今この都市を覆っている災厄をねじ伏せることが不可能だからです』
志乃武の声だった。
『……という答えでどうですか?』
 そう言って、彼は何かを提出するように、優雅な仕草で両手を広げて見せた。
 加地の顔に、怒りとも困惑ともつかない複雑な表情が広がる。
 ――と、そのとき。
『後方上空から高速接近中の物体を確認!』
 ヘッドセットから切迫した声が聞こえた。
 パイロットたちが恐らくレーダーなど計器類で確認したのであろうその物体を、後方ハッチから出ようとしていた竜介たちは肉眼で見た。
 それは最初、鈍色の空にできた白っぽいしみのようだった。
 だがそれは次の瞬間、彼らヘリの乗員の目の前で、直径がゆうに10メートルはあるだろう巨大な氷の塊に変わっていた。
『ぶつかるぞ!!各自衝撃に備えろ!!』
 その警告が操縦席からのものだったか、それとも加地の声だったかを聞き分けている余裕など、誰にもなかった。
 その場にいた全員が、反射的に目をつぶり、両腕で頭をかばうような仕草をしていたに違いない。
 ――ただ一人、鷹彦を除いて。

2011.07.04

2011.09.04改筆


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