第百三十五話「凍結・8」


「世間というのは、思ったより狭いものなのかもしれませんね」
扉が閉まり、長机をはさんで竜介と鷹彦が自分たち姉弟の向かいに座るのを待ってから、志乃武が感心したように言った。
「まさか彼がこちらに来ているとは……しかも、竜介さんたちを迎えに行っていたとはね。驚きました」
本当に驚いているようでもあり、おかしがっているようでもある口調。
「ってことは、志乃武くんのたちの悪い冗談なんかじゃなく、ガチで偶然か」
 鷹彦は、やれやれ、というようにため息をついた。
 それを見た志乃武が、またクスッと笑う。
 一方、話がまったく見えない竜介は憮然としていた。
「どうぞ」
と、目の前に湯飲みが置かれたのは、そろそろ二人の会話に割って入り、説明を求めようかと思っていたときだった。
 視線を上げると、日可理が微笑んでいた。
 長机の、入口から遠いほうの端に電気ポットと湯飲みが数脚伏せられたトレイがあり、彼女はそのポットからお茶を注いでくれたらしい。
 久し振りに会う彼女はいつもの和装ではなく、栗色のタートルネックセーターの上に白のダウンジャケットを羽織り、温かそうなコーデュロイのコットンパンツという出で立ちで、さらに長い髪を左右に振り分けて三つ編みにしていた。
 雰囲気が違って見えたのは、彼女には珍しい活動的な軽装だったからか、それとも白い頬からあごにかけてのラインが以前よりほっそりしていたせいだろうか。
「……ああ、ありがとう」
 竜介は少し戸惑い気味に礼を言った。
 紺野家の庭で感情的に言葉を投げつけてそれきりだったことを思い出したからだが、日可理はいつもどおりの静かな笑みを返しただけで、鷹彦の前にも同様にお茶を置くと、志乃武の隣に再び腰を下ろした。
 竜介は熱いお茶を冷ますふりをして、こっそりため息をついた。
 やつあたりのような態度を取って十年来の友人を傷つけてしまったことについては反省している。
 しかし、日可理の意志ではなかったにせよ、紅子の件については責任の一端が彼女にも少なからずある。
 それが喉にひっかかった小骨のように彼をずっと悩ませていた。
 一方、一部始終を目撃したはずの鷹彦はといえば、まるで何もかも忘れたかのような笑顔で「あっ、こりゃどうも」と日可理に礼を言い、
「いやぁ、あったまるね」
などと、熱いお茶に爺のようなコメントを付している。
 切り替えが早い性質(たち)なのか、それとも単に脳天気なだけなのか――いずれにしても、竜介にとってこの末弟の脳天気さはいらだたしくもあり、うらやましくもあった。
「で、何を説明してくれるって?」
竜介はやや意地悪な口調で言った。
「お前、車の中で言ったよな。あとで説明する、って」
「おお、そうでした、そうでした」
鷹彦は長兄のどことなく不機嫌そうな様子など気づかぬふりで、湯飲みを置いて両手をぽんと叩き、言った。
「俺たちをここまで案内してくれたあの二人のうち、加地っていうほうは、基地で志乃武くんが記憶を消した二人組の片割れなんだよ」
 白鷺家へ向かう途中、ヘリポートとして使わせてもらった自衛隊の基地で黒珠に襲われたことを竜介は思い出した。
 後半、意識を失っていたので記憶にはないけれど、基地を出ようとしたとき出くわした自衛官二人の記憶を志乃武が消したということは、白鷺家で目を覚ましてから聞いた話として知っている。
「しかし、あれは青森でのことだろう」
 竜介が言うと、
「東京とその周辺都市は今大変な状況ですから。他の部隊からの応援はいくらでもほしいところでしょう」
志乃武は落ち着いた微笑とともにそう推測した。
「前にも言いましたが、記憶が戻ることはありえませんよ」
「わかってるって」
鷹彦は憮然として言った。
「頭ではわかってるつもりなんだけど、気持ちがついて来ないの。ここに着くまで、生きた心地がしなかったぜ。俺っちの寿命はこの二時間で十年は縮んだね」
「おおげさなやつだな」
 竜介が呆れて言うと、日可理がくすくす笑いながら、
「鷹彦さまは隠し事ができない、いい人なのですね」
 志乃武が大きくうなずいて同意する。
「たしかに、犯罪者には絶対に向かないな」
 鷹彦は複雑そうな顔で兄を見た。
「なあ、俺、ほめられてんのかな?」
 竜介はにやりと笑うと、なだめるように弟の肩をぽんぽんと叩いた。
「ま、そう思っとけ」

 それからまもなく、実験計画について説明にやってきたのは、長白衣の上に灰色のトレンチコートを着込んだ初老の男だった。
 頭髪に白髪がまじっているため少し老けて見えるが、たぶん年齢は六〇歳そこそこといったところだろう。
 上背がある上にやたら面長なので、全体にひょろ長い印象を受ける。その細長い顔には分厚い黒縁の眼鏡がかかっていた。
 政府の役人というよりは学者と呼ぶほうがふさわしい風貌のこの男に、竜介はどことなく見覚えがあったが、そのわけはすぐにわかった。
「遅くなりまして、どうも。対策本部長の猿渡(さわたり)と申します」
と、男が自己紹介をしたからだ。
 対策本部長といえば、何度かテレビのニュース映像などで見かけている。
 加えて、竜介のあいまいな記憶によると、彼の本職はどこかの大学教授だったはずだ。
 見覚えがあるのも、風貌が学者然としているのも、道理というわけだ。
 コートの下にわざわざ白衣を着込んでいるのは、自分は学者だというこだわりのようなものがあるからなのだろう。
 ところで、本部長というと助手の一人や二人連れていてもよさそうなものだが、あとに続いて誰かが部屋に入ってくる気配はない。
 しかし猿渡はそんなことは意に介さぬ様子で一人ホワイトボードの前に立つと、脇に抱えてきた分厚いリングファイルを開いて、竜介たちの顔とそれとをしばし交互に見ていた。
 おそらく、そこに竜介たち四人の顔写真とプロファイルか何かが載っているのだろう。
 彼はファイルの確認を終えると、意味深に鼻を鳴らし、
「本来ならプロジェクターを使って説明したほうがわかりやすいんですが、この寒さで機材がやられまして。少々わかりにくいかもしれませんが、ホワイトボードを使います」
そう言って始まった猿渡教授の話は学者らしく几帳面で、わかりにくい専門用語を回避するためか、時にまわりくどかった。
 が、同時に、それは驚くべき情報に満ちてもいた。
「首都上空の分厚い雲の内部には、超低温の巨大な球体があり、我々はそれを『氷殻(ひょうかく)』と呼んでいます」
 猿渡は言った。
 我々の計測では、その大きさは半径五〜六キロメートル。地上からおよそ一キロメートルの空中に浮かんでいますので、上端は成層圏にまで達する計算になりますな。
 表面温度は零下二百度前後で、こいつは液体窒素の沸点よりも低い。ということは、この『殻』の付近ではたいていの物質はその相……ええと、気体・液体・固体を問わず凍り付くことになります。
 まあ、でっかくて丸いドライアイスといえば想像しやすいでしょう。
 そんなものが、いったいどういう仕掛けで重力を無視して浮かんでいられるのかは、まったく不明ですがね――
と、そんな具合にぺらぺらとしゃべりながら、猿渡は手慣れた様子でホワイトボードに地平線らしい直線と、その上に円を描き、両者の間と円の内側に両端矢印を描いて、それぞれの傍らに「約1km」「直径約10〜12km」と書き込んでいく。
「その巨大なドライアイスが、目下東京を襲っている寒波の正体、ということですか」
 猿渡がホワイトボードへの書き込みを終えて口を閉じた、そのわずかな間をとらえて志乃武が尋ねた。
「問題はそう単純ではありません。残念ながら」
猿渡は予想していた通りの質問だという表情でかぶりを振った。
「先日の実験、あなたがたもテレビなどでご覧になりましたか?あれは、マスコミには『雲を消す実験』と説明しましたが、実際には『氷殻』を消すための実験でした。  あの実験でわかったことは二つあります。まず一つ、このドライアイスの球の中が空洞だということ。我々がこれを『氷殻』――氷の殻と名付けたのはこのためです」
 ホワイトボードに描いた円の内部を、猿渡はマーカーのキャップでとん、と突いた。
「我々の計測では、内部はおよそ摂氏十度前後。そして……今もって信じがたいことですが、内部には、明らかに人の手になる建造物と、人、あるいは人の姿をした何者かが存在します」
 彼は一旦ここで言葉を切り、室内にいる四人の若者たちの顔を見回した。
 そして、彼らの顔に驚きの色がないことを認めると、片方の眉を上げて見せた。
「ご存知かと思いますが、我々はメディアには、雲の間に見えた建物や人影のようなものについてブロッケン現象の一種だとでたらめの説明をしました。真実を話したところで無用のデマとパニックを呼ぶだけだと判断したからです。もっとも、こちらにおそろいのあなたがたは、私が今話した真実にうすうす気づいておられたようだが……」
 猿渡教授はその先を言葉にする替わりに小さく肩をすくめてから、余談を避けて言葉を続けた。
「さて、時間がないので先を急ぎましょう。我々の実験でもう一つわかったことは、あの『氷殻』は目に見えない超低温の特殊な『場』とでもいうべきものによって形成されており、ドライアイスの球はその『場』の周囲の気体や水蒸気が凍って形成されたものにすぎない、ということです。
 物理攻撃によってドライアイスの球面を破壊することはできますが、三十分から一時間も経てば元に戻ってしまいます」
 そして、彼は淡々とした口調でこう付け加えた。
「重要なことは――東京とその周辺都市を氷点下の極寒に追いやっているものの正体は、ほかならぬこの『場』だということです」

2011.03.16


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