第百十九話「結界消失・3」


 夜になると山はその表情を一変させると人は言う。
 気むずかしく、容易に人を寄せ付けない、と。
 けれど、竜介はまるですべてを見通せるかのように身軽だった。
 薄暮の山道を、風のように駆ける。
 泰蔵の家から最寄りの結界石は、乾の滝へ向かう道にある。
 数日前、魂縒のときに通った場所だ。
 常人なら昼間でも半刻近くかかるだろう険しい山道を、彼は夕闇の中、ものの十分ほどで走破すると、目的地近くで歩を緩めた。
 呼吸の乱れもなく、気配を消した彼は木立の影と同化する。
 そのまましばし周囲を伺っていたが、何も起きない。

 てっきり、待ち伏せされてると思ったんだが――?

 訝しみながら、慎重に結界石に近づくが、相変わらず辺りは静まり返ったままだ。
 石には、一枚の紙が貼りついていた。
 墨跡も鮮やかに、漢字と幾何学紋様が描かれた和紙。青白い燐光を放っている。
 呪符だった。
 石そのものが破壊を免れていることに彼は一瞬安堵したが、次の瞬間にはむらむらと怒りが湧いてきた。
「くそっ、いったい誰がこんな……」
 苦々しくそう一人ごちながら、目の前の呪符をはがそうと手を伸ばした、そのとき。
 突然、闇の中から二本の腕が現れ、彼をうしろから羽交い締めにした。
「誰だ!?」
 とっさに振り払うと、
「キャッ!」
 という、小さな悲鳴。
 聞き覚えのある声に、驚いて背後をかえりみれば――
 最初に彼の目に飛び込んできたのは、季節外れな桜色の着物だった。
 薄暮に浮かび上がる、白い顔。
 そこには、日可理がいた。
「竜介さま……やっと、お会いできた」
 彼女はいつになくなまめかしい吐息とともに彼の名前を呼ぶと、その胸に飛び込んできた。
「日可理さん!?ちょ、ちょっと待ってくれ。どうしてここに?」
 竜介は当惑しながら日可理の肩を掴むと、自分から引き離した。
 いつもほとんど化粧気のない彼女が、今日はめずらしく口紅を塗っている。
 血の気のない白い顔の中で、真紅にきわだつ唇。
 そのどこかうつろな表情は、見知らぬ女のようだった。
 心臓が警鐘のように鼓動を打つ。
 彼女の使う呪符は、目の前のこの怪しげな呪符同様、和紙に墨で書かれていた。
 身内に気をつけろ、という黄根の忠告が脳裏をよぎる。

 気を許すな。

 竜介は日可理からさらに一歩後退して、結界石に近づいた。
「どうして……?」
 日可理は竜介の質問をおうむ返ししながら、彼が後退したと同じだけ間合いを詰める。
 それまで無表情だったその唇が、きゅうっと笑みの形を作った。
「無粋なことをお尋ねになるのね」
 竜介はそれに対して答えず、後ろ手に結界石に貼られた呪符をはがそうとした。
 結界を復活させ、紅子たちのところに早く戻りたかった。
 日可理がどういう意図で結界を消したにせよ、これ以上のことはできないだろう――そう高を括ってもいた。

 その思い込みが、一生の不覚となるとも知らずに。

 竜介の手が呪符に触れたとたん、日可理は驚くような素早い身のこなしで竜介の間合いに入ると、その手を捉えた。
 あっと思った次の瞬間、潤んだ黒い瞳が彼の間近にあった。

 日可理の顔が、白く輝く。

 ほんの一瞬だった。
 一瞬で、竜介はみじろぎどころか、視線さえ動かせなくなっていた。まるで全身が生きた彫像にでも変えられてしまったかのように。
 背中を冷たい汗が伝い落ちる。
 じりじりするような沈黙の中、彼女の動きはひどく緩慢だった。唇に笑みを浮かべたまま、ゆっくりと竜介の胸に両手を当てて頬をすり寄せる。
「わたくしたち、もっと早くこうしているべきでしたのに……」
 そう言いながら。
 桜色の袖からのびた白い腕が、白蛇のように竜介の胸をすべり、上がっていく。
 肩へ、そして首筋へ。
 日可理の顔が近くなる。
 鼻腔をくすぐる、甘い吐息。
 やめろ。
 日可理が何をしようとしているか気づいたとき、竜介は叫ぼうとした。
 だが、表情を変えることさえできないまま――
 柔らかな、けれど驚くほど冷たい感触が、彼の唇を奪った。

 ※※※

 竜介と鷹彦がダイニングを出てすぐ、泰蔵は紅子の手を借りて、慌ただしく戸締まりや屋内の消灯の確認を始めた。
「わしらに気配を消すすべがない以上、こんなことは気休めにしかならんが……ま、やらんよりはいいだろう」
 苦笑しながら泰蔵がそう言った、ちょうどそのとき、かすかな術圧が辺りに広がるのを紅子は感じた。鷹彦が超高密度の空気で壁を作ったのだ。
「鷹彦ですね」
 紅子が確かめるようにそう言うと、泰蔵は「うむ」とうなずいた。
「さてと、あとは玄関だな」
 日はすでに落ちて、窓から入る光はない。代わりに、泰蔵の身体が放つ青い光が辺りを照らす。
 彼は紅子について来るよう身振りで示すと、先に立って歩き出した。
 二人が廊下を歩いて行くと、玄関にいた鷹彦が気づいて振り返った。闇の中で、彼の青い輝きが明るい。
「行ったか」
 玄関の明かりを消しながら、泰蔵は鷹彦にそう声をかけた。
「はい、一番近い結界石の様子を見てくるそうです」
 鷹彦の返答に、紅子は魂縒のときに通った道を思い出しながら言った。
「ここから一番近い結界石って、乾の滝に行くとき見たあれだよね?」
 鷹彦は「そうそう」とうなずいてから、
「しっかし、やつらはどうやって結界を消したんだ?結界石のどれか一つにでも何かあれば、結界が消える前に俺らにわかるはずなのに」
 いかにも腑に落ちないという風に頭を抱えた。
 泰蔵もそれにふむ、と鼻を鳴らして同意を示し、
「わしらは結界をいささか過信していたな。まさかこんなふうに仕掛けられるとは」
 苦いものを含んだ口調で言いながら、彼は上がり框に腰を下ろして靴を履き始めた。
「お前さんたちも靴を履いておきなさい。何かあったとき、裸足では困るだろう」
 そう促されて、紅子は自分のスニーカーを履いた。
 が、紐をしっかり結び直そうとして、指が震えていることに気づく。

 ――心細い。

 竜介がいない。たったそれだけのことで、膝を抱えてうずくまりたいような気持ちになるなんて。
「そんな顔しないでくれよ、紅子ちゃん」
 鷹彦が、青い光輝に包まれた手を紅子の肩に置いて、言った。
「大丈夫。師匠と俺っちがついてる」
「……うん、ありがとう」
 そう言って、紅子が笑って見せた、そのとき。
 泰蔵が口に人差し指を当て、鋭く「シッ」と言った。
 たすけて、という微かな声と、すすり泣き。その場にいる全員が、知っている声だった。

 涼音の声だ。

 同時に、彼らの身体に現れた異変があった。
 首筋の痛痒感である。
「出てこい。炎珠の神女」
 聞き覚えのある声が、響き渡った。少女の姿をした、黒衣の死神。
「出てこねば、この娘を斬る」

2010.02.11

2022.02.05改稿


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