
第百十九話「心の迷宮・20」
「誰だ!?」
とっさに振り払うと、竜介の自由を奪っていた腕はあっさり離れた。「キャッ」という、小さな悲鳴とともに。
聞き覚えのある声に彼が驚いて背後をかえりみれば――
そこには、日可理がいた。
「竜介さま……」
彼女はいつになくなまめかしい吐息とともに彼の名前を呼ぶと、その胸に飛び込んできた。
「よかった……来て下さって。本当に心細かった」
竜介は当惑しながらも日可理の肩を撫でてやった。臙脂に桜をちりばめた、季節はずれな小紋に覆われた、細い肩。
小雨に湿ったその着物は、普段の彼女の趣味にはまるでそぐわず、竜介に奇妙な印象を残した。
「涼音は?」
そう尋ねると、日可理は「あちらに」と、近くの木の根元を指さした。
まだ意識が戻っていないのだろう、木の幹に背中をあずけてくったりと座り込む妹の姿が薄闇を通して見て取れた。
暗いからよくはわからないが、とりあえず大きな出血などはなさそうでほっとする。
今すぐそばに行ってやりたいところだが、まずは目の前のこの怪しげな呪符をはがしてからだ。
そう思い、再び墨書の目立つ和紙に手をのばす。
と――またもやその動きはさえぎられた。
臙脂の袖からのびる、白蛇のような腕。
日可理の手が、彼の手首をとらえていた。
「何するんだ」
いらだたしげに言うと、それまでほとんど無表情だった日可理の白い顔に変化が現れた。
いつもほとんど化粧気のない彼女が、今日はめずらしく口紅を塗っている。血の気のない顔の中で、真紅にきわだつ唇。
それがこのとき、にやり――と笑みの形を作った。
「だって」
と、彼女は言った。
「結界がもどれば、竜介さまをわたくしのものにできなくなってしまいます」
こんなときに何を言ってるんだ。
そう声を荒げて、相手の細い手を再び振り払おうとした。
ところが。
声が出せなかった。手を振り払うこともできなかった。
それだけではない。
みじろぎどころか、視線さえ動かせなくなっていた。まるで全身が生きた彫像にでも変えられてしまったかのように。
そのとき、彼は日可理の全身が白く輝いていることにようやく気づいた。
彼女は竜介を何らかの術にはめたのだ。
だが、なぜ、何のために?
心臓が耳元で警鐘を鳴らしている。背中を冷たい汗が伝い落ちる。
動かせない身体の分まで働こうとするかのように、竜介の頭はめまぐるしく思考をめぐらせる。
それでも、相手の目的がわからない。
ただ一つわかることは、今目の前にいる日可理は、彼がよく知っている思慮深く物静かな彼女ではない、ということだ。
そこにいたのは、なじみのない、見知らぬ女だった。
視界の下端にうつる彼女の足下。その着物のすそも、その下に見える白足袋も草履も、白い光輝のおかげではっきりと見える。
どこにも、泥はねのシミ一つなかった。
まるで空を飛んできたかのように。
まさかと思う気持ちと、まだ彼女を信じたいと思う気持ち。二つの感情が竜介の中でせめぎあう。
こちらの動きを封じて、日可理はいったい何をするつもりなのか――
じりじりするような沈黙。彼女の動きはひどく緩慢だった。
日可理は唇に笑みを浮かべたままゆっくりと竜介に近づくと、彼の胸に両手を当てて頬をすり寄せた。
「お会いしたかった……」
そんな声が、聞こえた。
「わたくしたち、もっと早くこうしているべきでしたのに……」
そう言いながら。
白い手が竜介の胸をすべり、上がっていく。肩へ、そして首筋へ。
やめろ。
日可理が何をしようとしているか気づいたとき、竜介は叫ぼうとした。
だが、表情を変えることさえできないまま、日可理の顔は近づき――
柔らかな、けれど驚くほど冷たい感触が、彼の唇を奪った。
2010.02.11
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