第十一話「傷跡」


 思い出せ――
 夢の中で、何かが、彼女にささやく。
 こんな苦しみが、こんな痛みが、以前にもあった。
 心の奥に封じ込めていた苦悩を――思い出せ。
 あれは――いつのことだった?
 そうだ、二年前の冬だった。たいていの学校で、卒業式が間近に迫る頃。
 彼女は中学二年で、この季節、少女達にはありふれた悩みを持っていた。
 つまり、ずっと好きだった先輩が卒業してしまうのを、このまま黙って見送るか、どうか。
 幸い、彼女の想い人には、恋人がいるといううわさも聞かず、一縷(いちる)の望みはあった……たぶん。
 親友にも再三、相談した。
 彼女の親友は、そのさばさばした性格のなせる技か否か、男子生徒に友人がたくさんいたから、情報収集にはもってこいだったのだ。
 とはいえ、本人は恋愛にてんでうとく、肝心(かんじん)の悩み相談のほうは、からきしだったのだけれど。
 あたしも紅子みたいな性格だったら、卒業までに先輩ともっと仲良くなれたかもしれないのに。
 そんな風にうらやんだことも、一度ならずあったが、今となっては性格を改善している時間などない。
 彼女は何度となくため息をつき、悩みあぐね――そうして、決めた。
 当たって砕けるしかない。
 親友には、この決意は内緒(ないしょ)にしておいた。
 そのほうが、うまくいったときの驚きと喜びも、倍になるというものだ。
 ダメだったときは――一緒に泣いてもらおう。

 Xデーを卒業式の一週間前に決め、それがあと数日に迫った、ある日。
 彼女は親友を捜して、校内を歩き回っていた。
 一緒にお昼を食べようと思っていたのに、姿が見あたらない。
 ようやく見つけたとき、友人は裏庭にいた。
「紅子」
そう呼ぼうとした。
 しかし、彼女の声はのどの奥に詰まったまま、出てくることはなかった。
 親友の傍らにもうひとつ、人影が見え、それがほかならぬ「彼」であることに気付いてしまったのだ。
 彼女の胸に、緊張と不安が走った。
「これ、お返しします」
 親友の、よく通る声が聞こえた。
 彼女はその手に持った水色の封書を、「彼」に渡すところだった。
「……好きな人がいるの?」
 相手の問いかけに、彼女はかぶりを振る。
「あたし……こういうことに興味ないんです。それに」
吐息が、白くこごる。
「あたしの親友が、先輩のことを好きなんです。だから……」
 その後のことは、よく憶えていない。
 気がつくと、教室に戻っていて――
 そう、それから何日か経って、電話がかかってきたのだ。「彼」から。
 その人は、涼やかな声で、彼女に尋ねた。
 今度の日曜、空いてる?と。
「ロードショウの券が2枚あるんで、一緒にどうかなと思って」
 彼女に否やのあろうはずがない。
 けれど、待ち合わせの時刻と場所を決め、さよならを言って受話器を置いたとたん、言いしれぬ不安に襲われた。
 紅子のことを、好きだったんじゃ……?
 ふられたから、あたしに乗り換えようとか?
 これはチャンスなんだろうか、それとも……。
 彼女は、わき上がってくる不安と悲観的観測を振り払った。
 どんな理由にせよ、好きな人とデートできるんだもの!そのことだけを考えて、楽しまなきゃ……いい思い出になるように。
 当日はたしかに、この上ないくらい楽しい一日となった。
 別れの間際、彼女が、
「あの……また、会ってもらえますか?」
と、尋ねるまでは。
 彼の顔から、先までの優しい笑顔が消えた。
「……ごめん」
 長い沈黙のあと、絞り出すような声で彼は言った。
「今日、君を誘ったのは……一色に頼まれたから、なんだ。自分より、ずっといい子だから、絶対気に入るから、って……だけど」
「いいんです!」
春香は思わず、相手の言葉をさえぎっていた。
「今日は、ありがとうございましたっ!」
そう言って、笑って見せたけれど。
 帰宅して自分の部屋に入ったとたん、涙があふれて、止まらなくなった。
 期待していたわけではない。
 しかし、希望を全て捨ててしまうには、彼の態度は、優しすぎた。だから、訊いてしまった。
 また会えるかどうか。
「ごめん」
 そう言ったときの彼の顔が、脳裏から離れない。
 そんなに悲しそうな顔しないで。
 そんなに辛そうな目をしないで。
 誰のせいでもない……そう、誰のせいでもなかった。
 だから、誰にも分からないよう、封じ込めたのに。
 忘れたのに。
 傷ついた心も、その痛みも――


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