藤井あきら |
慌ただしい物音で目が覚めた。 どうして此処で寝ているのであろうか?不思議に思いながら外で檄を飛ばす木場の声を、それでも寝ながら聞いていた。 「関口隊長!」 何の前触れもなく森田が飛び込んできた。 今までにない緊張した面立ちであった。 「どうした」 慌てて飛び起き、再度森田の顔を見た瞬間、先程の彼らの痴態が甦った。 そして嘔吐したした自分を思いだし、力強い腕をも思い出した。 「何か…あったのか?」 再びこみ上げてくる吐き気を飲み込み、やっとの思いでそう聞いた。 彼らは自分が見ていたことを知らない、悟らせてもいけない。森田は関口の内面での葛藤に気が付かずに、言葉を続けた。 「敵が上陸しそうな気配とのこと、先程が栗元さんが」 栗元とは通信兵のこと…つまり本営からの伝達である。 「敵がいよいよ動いたのか!」 「はい!」 関口は慌てて緩められていた詰め襟をただし、外に飛び出した。 慌ただしく動く兵士の中に木場の姿を見つける。 木場は必死な形相で指示を次々と下す。 それでも関口の姿を認めると表情を緩め、駆けめぐる兵士達の間を縫うように抜け、近寄ってきた。 「もう大丈夫か?」 曖昧に返事を濁す。 「まだ顔色悪いな」 そう、関口の前髪を上げ額に手を当てる。 何故か癪に触った。 思わず乱暴にその手を払うと正面から木場を見やった。 「何があったのですか?」 乱暴に払われた手に対し特に気にもせず、顎をしゃくる。 「いつでも移動できるように準備をしている。まだ詳しい命令は下っていない」 「下っていない?」 「待機命令が出たのさ」 「今更待機も有ったもんじゃないがな」 「え?」 内村の言葉に関口はようやく木場への視線を外した。 「俺らは元から待機命令が出たままだったんだよ」 ぶっきらぼうに木場がそう答えた。 「だがあいつらも今まで異常に緊迫し始めている、関口隊長、大丈夫か?」 何に対して大丈夫なのか分からなかった。 でも関口にとって来るべき時が来た、それだけであった。とにかく先陣だけは避けなくてはならない、あの海岸は我々の最後の決戦場になるのだ。結果が予め分かった、最後の場所。 敵前逃亡が許されないのなら、少しでも本営の近いところで陣を構えたい。 しかし新米の彼にはその様な権力も人脈もなかった。ただ神頼みのみのみである。 「おい、大丈夫か?」 木場が再び関口の顔を覗き込む。 今度は内村も心配そうに関口を見ていた。 「戻りましょう、隊長。まだ命令は下っていないから」 「その前に隊長達の徴集がかけられるだろう」 「なら、それまで休みましょう」 別に気分は悪くはなかった、最早、先程のことを思い出している場合ではない。 だが、此処にいる二人には自分の考えを伝えるべきだと判断した。 今の戦局を…そして自分が考えている取るべき道を。 だが此処では流石に不味い、それならテントに戻るのは好都合である。 「では、一緒に」 そう二人に言葉を残し、再び本営に戻った。 関口の考えを読みとったのか内村は、不味いコーヒーを入れてテントに遅れて入ってきた。 現地の人から分けて貰った高級品である。日本茶をいつも啜っていたあの日を懐かしみながら、別に寒くもないのに両手で持ちながら、地図が広げられた机に向かった。 「かなり戦況は不利なのでしょうか?」 木場が黙りを決めている中、内村が聞いてきた。 勝ちを信じ日々暮らしている彼にも、関口の顔色の意味がひしひしと感じるものはあるらしい。 関口は覚悟を決めた、これは学徒として兵士に伝えることである。 そして学徒しか言えないことでもある、言葉を選ぶ。 「僕みたいな下っ端が判断できることではないが、個人の意見としては不利以前の問題だと思う」 内村の顔色は明らかに変わった。 「嘘です、海軍が圧勝したって私は聞きました」 一瞬躊躇した、本当に言うべきなのか言わないべきなのか。 「お前まで隠し事をするのか?」 木場が関口を睨み付けていた。先程の視線とは打って変わってまるで射抜くように鋭かった。 「俺達にはいつも情報が来ない。ただ指示を待つしかないのか?」 それは自分も一緒だ、そう叫びたかったし事実だ。 だが、此処に来るまでに反戦論者として負の知識はあった。いや、学徒として国に軍に縛られない、偏りのない情報を受け入れられた。 迷いがないわけではない、木場を始め、此処にいる兵士達は勝つ事を信じ、闘うことしか知らない奴らである。 「前いたヤツは俺らを馬鹿にしていた、だがあんたは違うだろ?」 内村の言葉が辛かった。 「申し訳ない、僕の耳にも何一つ入ってきていない。ただ状況から判断する限り…」 「する限り?」 関口は顔を背けた。 「負けが目に見えている、決戦に全うから挑むなんて犬死に行為だ」 その言葉を口にする事は、勇気のいることであった、上の耳に届いた場合裏切りものとして処刑されるに違いない。 だが、覚悟の告白であった、犬死にだけはして欲しくない、自分もしたくない。 「我々は負けるのか?」 「しぃ、声が大きい!」 何かを感じたのか、木場が慌てて外を見に行った。 乱暴に入り口が開けられる。 そして一人の少年が立ち竦んでいるのを、関口の目にも見えた。 森田であった。 木場は考えるよりも前に森田をテントの中に引きずり込んでいた。 関口と内村が蒼白な顔つきでそれを見つめている。 「お前、今の話を聞いたな?」 「聞いていません!」 「ならどうしてあそこに居た?小森か、小森の差し金か?」 「違います、違います!」 木場に見付かった恐怖か、涙と鼻水、そして汗で顔はぐちゃぐちゃであった。 関口は呆然と詰問を眺めているだけであった。内村もそうであった。だが、木場の森田へのどこまで聞いた、の言葉に過剰に反応した。 「木場、どうする」 内村の唇が震えている。 「あぁ、本当ならどこかに閉じこめておきたい」 「だが…」 「あぁ、分かっている。小森が黙ってはいるまい」 押さえ込まれている森田を見る。 哀れなほど、恐怖のため小刻みに体を震わせている。 まるで自分のようであった、押さえつけられいつも震えていた自分。 重なる、余計に見るに耐えられない。 「放してやってはくれないか?」 「何を馬鹿なことを言っているんだ!」 その怒鳴り声は教官達よりも凄みがあり、恐ろしかった。 「そうです、彼は聞いてしまったのですよ、我々の今の会話を」 「そのぐらい知っている、それが今後どのような影響を与えてしまうのかも承知だ」 「なら口を挟むな、俺達の方がプロだ!」 そう怒鳴りつけると、おもむろに森田の下の制服を脱がしにかかった。 「何をするんだ!」 意図を察知した森田は狂ったように暴れ始めた。そしてすかさず内村が森田を押さえ込む。 剥き出しになった尻で関口は我に返った。 「一体、何をするんだ!」 押さえつける内村の両腕を羽交い締めにし、止めに掛かった。 「あんたは知らないだろうが、こいつは小森のお稚児なんだ、口止めにはこれが一番なんだよ!」 「それでも!」 関口は内村の両腕を渾身の力を込めて背後から押さえ込み続ける。 「あんたも分かっていない、あんたは捕まってしまうんだぞ、この方法が、特に比奴には効果的なんだ」 内村が暴れながら背後の関口を見る。 「何が効果的なんだ!僕がどれだけ重大な事をしでかしたのか知っている、僕が彼に話を付けから、そのような畜生のような真似は止めたまえ!」 森田の縋る視線を感じながら、関口も必死に訴えた。 そんな卑劣な真似を木場にさせたくなかった。そしてこれが常識で通ることに憤りも感じていた。 その気持ちは彼らには伝わらない。 「貴様…今なんて言った?」 木場は低い声でそう問いかけた。 だが関口も負けていられなかった、このような行為は絶対に許せない、許してはならないことである。 「あぁもう一度言う、君たちは畜生以下だ」 その瞬間、右耳が灼熱の熱さを感じた。 「もう一度言って見ろ!」 じんじんという雑音の中でも彼の声を聞こえた。 床に倒れながらも関口は繰り返した。 「内村、逃がすなよ」 森田の上にのし掛かっていた木場が、倒れている関口の上に馬乗りになった。 襟元を締め上げた。 「貴様には男の社会は分からない」 「そんな社会、男じゃない人間でもない」 「貴様、まだ言うのか!」 関口は目を瞑らなかった。 大きく振りかざした手のひらは彼の頬に降ろされた。容赦ない平手打ちであった。付け根が頬の骨格にあたる。更に甲が残された頬に降ろされる。 それでも関口の両目は大きく見開き、木場を睨み付けた。 「殴りたければ殴ればいい、だがそれ以下の行為は断じて許さない、これは隊長命令だ」 痺れる口で縮まる舌で必死に訴えた。 だが、それは木場達の怒りを増幅させるだけであった。 木場の手が今度は自分の下半身に伸びたとき、不思議と叫びを上げたのは森田の方であった。 「言いません、絶対に言いません!木場さん、お願いです」 「貴様は黙っていろ!」 鈍い音とうめき声が遠くから聞こえてくる。 「これが男社会だ!」 そして近くで聞こえてくるのは、木場の荒い息だけであった。 抵抗らしい抵抗をしないまま下半身が露になったとき、関口は目を瞑った。 瞼の裏に中禅寺の顔が浮かんできた。 榎木津の顔もあった。 心の中で『ごめんなさい』そう言っていた。 舌に歯をあててみる。 もしこれを噛み切るのなら、それは最低な死に方だと思う。 だが、もうこれ以上辛い目には遭いたくない、これ以上汚れたくない。 隊長でありながら何一つ事が上手く進まない、自分の任務はもう終わったし、伝えたいことはもう伝えた。 これ以上の我慢はもはや中禅寺に合わす顔がなくなる、今までぶたれても涙が出てこなかったが、彼のことを考えると涙が止まらなかった。 木場の荒い息と共に、異物を押しつけられる。 関口は決意した。 木場が、一気に押し込もうとした瞬間、関口も舌に思いっきり噛み切ろうとした。 「関口隊長、駄目です!」 口に血がいっぱい広がった。 そして背後からの押し入る異物で頭が殴られたように痛む。 めきめきと音が聞こえてくる、錯覚であろうとも自分の体は裂けていく。 更に口の中に血がどんどんと広がっていく。 なのに、関口は痛みから逃れられない。 木場の荒い息が遠のいてくれない。 「内村、森田の腕を外せ」 「そんなの後だ」 痛みで霞み始めた意識の中、ようやくこの口の中に広がる血の味が自分のではないことに気が付いた。 荒々しい揺さぶりを掛けられる中、涙でぼやける視界で森田の姿を捕らえる。 目の前で、自分の同じように地面に嘗める様に顔をつけている森田の姿。 涙や鼻水、そして涎や汗でぐちゃぐちゃの顔であった、それでも彼は笑いかけた。 「関口隊長、駄目です」 内村に押さえつけられながらも、そう言う。 視線とずらすと内村がまさに今、森田に屈辱を与えようとしていた。 止めたかった、しかし言葉が発せられなかった。森田の腕が口の中に押し込められていた。 無理な形で押さえつけられ痺れてしまった腕を必死に動かし、その腕を外した。 歯形の後が深くえぐれていた。そして赤い血が溢れ出る。 「内村、止めるんだ、君にはそんな権限はない、もう十分だろう!」 血に染まった唾を吐きながら叫んだ。 内村の伏せられてい顔が正面を向き、関口と目があった。 目から何かがこぼれ落ちてきた。 内村も泣いていた。 そして森田の上に被さるようにして泣き、突っ伏した。 「俺だっていやなんだ!こんな事本当はしたくないんだ!」 「内村、弱気なるな!我々は前進するしか道がないんだ」 「木場さん、貴方は間違っている。道は後ろにも延びている」 「貴様!」 腰を引いたのを感じた。 「木場、もう止めろよ、何にもならないよ」 次に来る衝撃など痛いほど知っている。 知りたくなかった、だが身を持って教え込まれた軍人のサガ。 だがその前に我々は同じ人間であるはず、それなのにどうしてこのような真似をしなければならないのか、そして受けなくてはならないのか? 「みんな怖いんだ」 「煩い!内村!」 その叫びと共に木場は己の腰を強く関口に叩きつけた。 痛みからの逃れ方は知っていた、だが、この痛みを受け入れなければいけない、関口はそう思った。 全ての痛みを受けいれなければ。 「止めろ、木場、もう止めろ」 だが、内村のその叫びで全てが終わった。 大きく震え、木場は関口の中で短く果てた。一気に萎えていく。 「俺たち一体何やっているんだよ…仲間をそして隊長にも…」 「煩い、黙れ」 それでも己の中から抜ける木場に、うめき声が思わず漏れる。 そして体の力が一気に抜けた。 森田の心配する顔に、関口は弱々しくだがそっと微笑んでやる。 「大丈夫、慣れている」 森田の驚く顔が分かる。 完全に木場が自分の背後にいなくなってから、節々に走る板目を耐えながら体を起こした。 その時には森田も内村も衣服を正し、立っていた。 敬礼する姿に言葉がなかった。 木場だけが荒い息を肩でしていた。宙の一点を睨み付けている。 「僕は何も聞いていません、関口隊長の為にも何も聞いておりません」 「森田君、もう良いんだよ。怖い目に遭わせたね。もう戻って良いよ。ただ、さっきの話はみんなの志気に関わる、悪いけど」 「隊長の恩は一生忘れません」 「うん、普通通りに振る舞えるね?」 「しかし…」 「後のことは話し合いで我々たちの間で解決させる。暴力は仲間に振るうものでもない。だから…」 森田は無言で顔を服の裾でごしごしと拭いた。 そして顔中で笑顔を作った。 「失礼します、コーヒー御馳走様でした!」 そう虚実の謝礼を大声で告げると走り去っていった。それは彼なりの意志表示であり、そして彼は振り向かなかった。 「良いのか、テメェが罰を受けるんだぞ」 「僕は嘘は言っていない、そして真実を知りたいと言ったのはそっちだ」 「関口隊長」 内村がそっと、当たりに散らばっていた衣服を集め関口に手渡した。 「手伝います」 まるで従者の様にボタンまでを一つ一つはめていく。 有ってはならない傷が内村の手によって隠されていく。そっと布が足の間に入って伝って落ちる粘りをも清めた。 関口も黙ってそれに従い、木場もただ見つめていた。 「どうしてこうなってしまったんだ」 木場の言葉であった。 突如止まっていた時が動き出したかのように、周囲のざわめきが耳に届いた。 「たぶん、本部から正式な命令が下るのは時間の問題だと思う。命令が下ったとき、もう一度考え直してくれ、我々が進む道を」 「海軍の圧勝は嘘だったんですね?」 木場が机の脚を蹴っ飛ばした。 一回では足りず何回も何回も蹴った。 「だから何だって言うんだ、俺たちは闘うしか道はないんだ!怖じ気づいたか?逃げるのか?逃げ切れるのか?内村、どうなんだよ」 「でも俺は…俺は…」 「死が美だというのは嘘だ。生こそ美だ」 「関口、お前は黙っていろ。お前は軍人ではない、文人だ。軍人の生き方に口を出すな」 だが血の気の失せた関口の顔は強張らなかった。必死に倒れそうになる体を机に縛り付け、そして木場に向かう。 「巫山戯るな、僕も軍人だ、訓練だってこれと同じ屈辱だって受けてきた、だが僕には生を誓った友人がいる、意味のない無駄な死は間違っている」 「戦争に無駄な死はない。所詮学徒には我々の考えは理解できないだろう、理解するな」 荒々しく木場は外に出ていった。 「集合!用意は終わったか?訓練をするぞ、敵は間近に迫っている、大和魂の見せ所だ!」 その声にざわつきは一層騒々しくなった。 気合いを入れる声が、そこら中から漏れてくる。 対称的に静まり返ったテントの中。 正直言って、関口にしてもこのような結果が生まれるとは夢にも思わなかった。 そして此処まで木場と意見が合わないとも。 また一つ汚れてしまった自分の体、今ごろになって痛みがぶり返してくる。 額に手を当てる。 「…隊長」 内村が、まだひっそり奥に佇んでいたのを思い出した。 その時初めて気が付いた、自分がしっかりしなければならない事を。 自分のたった一言でこのような事態を引き起こしてしまったことを。 教官の言うことに言いなりなっていた訓練兵でも、仲間の保護を受けていた学生でもない。 自分の言葉一つで、この隊の兵士たちが簡単に潰れてしまうのである。 もたれ掛かっていた机に自分の爪を知らぬ間に立てていた。 青ざめた顔には一向に血の気は戻らない、それでいてたぶん発熱もしている、だが関口は振り返り内村に向かって笑いかけた。 「大丈夫、僕が頑張るから」 「隊長!?」 もう限界であった。 内村の声を聞きながら意識を手放していった。 僕が頑張らなければ… |
19981114 |