仏国寺(プルグクサ)


高速バスターミナル横のバス停から発車するバス10、11番で約30分。
途中、慶州駅前、仏国寺駅前も経由するので、鉄道で訪れても便利。


仏国寺入り口


入場券(表) PULGUKSA TEMPLE

Erected in the 15th year(528) of
King Pophung of Shilla some 15
centuries ago and later rebuilt by
Prime Minister Kim Taesong on
a much larger scale.       
In the 16th century, Taeungjon,
Kungnakchon and Chahamun were
saved from war fire by the Rev.
Tamhwa and his disciples.    
The restoration for the other burnt
wooden buildings was completed in
Dec. 1972 for 3years construction.

入場券(裏)掲載の説明より
入場券(裏)
 彿國寺は新羅で佛教が公認された翌年の528年に、法興王の母・迎帝夫人と王妃・已尹
夫人により、法流寺または佛國寺という名で創建された。
 その後、574年に眞興王の母・只召夫人によって最初の増改築工事が行われたが、
このときに毘盧遮那佛と阿彌陀佛の二體を安置したという記録が残っている。
 また、670年には無説殿が建てられ、681年には彌勒菩薩と羯羅菩薩、および迦葉と阿難の
二弟子像が出来上がったいう記録があるところから、そのころまでに毘盧殿や、極樂殿、
大雄殿、無説殿などが建立されていたことが分かる。
 そして751年には当時の宰相・金大城によって二回目の増改築工事が開始されたが、彼が
工事の完成を待たずに774年に死去した後には國家の手で工事が続けられ、ついに大伽藍を
構えるに至った。

 伽藍配置は大きく分けて大雄殿、極樂殿、観音殿、地藏殿をそれぞれ中心とする五つの
ゾーンから成り、總じて本堂をはじめとして百余り付属建造物や施設のあったという。
 これらの建物や施設は、その後も数回にわたる補修と増改築を経て立派に維持されてきた。
しかし、1593年壬辰倭乱(秀吉の朝鮮侵略=文禄の役)のとき、大部分が兵火に遭って焼失
した。このとき焼失した建物が二千余間(間:4本の柱で構成される空間の単位。絶封面積(?)
ではないが大體四方6尺。民家なら1カンが1部屋。また、長さの単位としてなら2本の柱の
間の距離)に達したというから、どれほど雄大な伽藍であったかが分かる。
 兵禍を免れたのは不燃性の金銅佛と石造物だけであった。
 秀吉の侵略によつて灰塵に歸した佛國寺であったが、1612年には左右の經樓、鐘閣、南の
行廊などが復舊された。続いて1630年には紫霞門、1648年には無説殿、1659年には大雄殿
が再建された。1700年代の中ごろまでに、東西の行廊と中行廊、安養門、極樂殿、毘盧殿、
観音殿、羅漢殿、十王殿、祖師殿などが再建され、ようやく伽藍らしさを取り戻すに至った。
 その後、朝鮮政府が排佛政策をとったために佛国寺は衰退し、昔日の偉容を失ったまま、
長い歳月を重ねた。
 佛國寺が今日のような姿になったのは、1969年から1973年にかけての復元大普請の
おかげである。このとき、無説殿、観音殿、毘盧殿、經樓、行廊などがそれぞれの遺址に再建
され、大雄殿、泛影樓、紫霞門、石壇などが改修された。
 そして1995年、石窟庵とともにユネスコの世界文化遺産に指定された。
 千四百年余りの長い歴史をもつ佛國寺は義湘をはじめ、神琳、表訓、大賢、海圓、浮雲、
曇華、海眼、泰湖、海淨、太仁、月山ら禅教の高僧大徳が掛塔して韓國佛教の根本道場と
しての面目を輝した。

                                       現地購入のガイドブックより


 伽藍三門のうちの一つ、仏法と世界とを
守る四天王を奉安する天王門。
 その四天王の一人、西方広目天王。手に
龍を持っている。
 他の三人は、琵琶を持つ東方持国天王、
剣を持つ南方増長天王、塔を持つ北方
多聞天王である。
西方広目天王


亀の石碑

背中に大きな石碑を背負った亀。
泛影樓には、法鼓を背負った亀もある。


紫霞門

釈迦牟尼仏が祀られている大雄殿へ通じる中門、紫霞門。
名前の由来は、御仏の體から発する紫金光が
霞のように棚引いている門という意味である。
紫霞門への階段は、白雲橋、青雲橋と呼ばれ、
下が白雲橋17段、上が青雲橋16段である。
白雲橋と青雲橋の間の踊り場の下にはアーチ型の通路が
あり、御仏の国へと向かう凡夫の希望を表現したもの。
階段を橋と呼ぶのは、彼岸へ渡ることを象徴しているため。


多寶塔 釈迦塔
多寶塔(左)
  七寶塔とも言う。釈迦牟尼仏が法華教を説いていたときに多寶如来が現れて、
 寶塔の中で一つの座に二體の仏が座ったことを説き證した、という法華教の教えを
 造形的に表現した塔。この塔の構成には、佛教の多様な内容が盛り込まれている。
  高さ10m40cm。
  751年に金大城が最初の増改築工事を行ったときに、釈迦塔と共に建立された。

釈迦塔(右)
  公式名称は仏国寺三層石塔だが、釈迦塔と呼び慣わしてきた。
  御仏の国では釈迦牟尼仏が常住して説法を行い、その説法の内容を多寶如来が
 証明しているところから、大雄殿の前の東西に釈迦塔と多寶塔を並び建てた。
  高さ10m40cm。


大雄殿
大雄殿内陣  大雄とは釈迦牟尼仏の大いなる
徳を讃える言葉であり、大雄殿は、
釈迦牟尼仏を安置した法堂である。
 須弥壇の中央に木彫の釈迦牟尼
仏像、左右の脇侍に木彫の弥勒
菩薩像と羯羅菩薩像、その左右に
土偶の迦葉と阿難の二弟子像が
安置されている。
 弥勒菩薩は未来の仏、羯羅菩薩
は過去の仏である。つまり、仏国寺
には、現在、過去、未来の三世仏が
おわすことを意味している。
 五體の仏像は、681年に作られた
との記録があるが、1593年の壬辰
倭乱で大雄殿が焼失しているので、
1659年の大雄殿再建の際に新たに
作られたとも考えられる。
 現在の大雄殿は、1765年に再建
されたものである。


観音殿

観世音菩薩を安置している観音殿。観世音菩薩は、この世で苦しんで
いる衆生の聲を目で観じ、衆生を苦難から救ってくれる菩薩である。
観音殿には、922年インドの旃檀香木(?)で作られた観音菩薩像が
安置され、1617年、1701年、1766年に金を被せ直した記録が残って
いることから、観音殿が壬辰倭乱で焼失したときも助かったと考えら
れるが、その後行方不明となり、現在の像は1973年に製作された。
観音殿は751年に創建され、現在のものは1973年に再建された。


舎利塔

寺蹟記によると、8人の祖師の舎利を安置した光学浮屠が
あったと言うので、この舎利塔がそれだという説がある。
1905年に日本へ持ち去られたが、1933年に返還された。


羅漢殿の十六羅漢

御仏の弟子達の像を安置した羅漢殿の内部。
十六體が安置されてるので、十六應真殿とも言う。