震災モニュメント研究
震災モニュメントの社会学的研究を続けている神戸大学大学院、今井信雄さんの協力、選定で掲載しています。
三木英(編)『復興と宗教―震災後の人と社会を癒すもの』 東方出版(2001年)
大阪国際大学経営情報学部助教授の三木英(みき・ひずる)氏が編者となって記された『復興と宗教―震災後の人と社会を癒すもの』のなかで、「震災モニュメント」を宗教社会学の立場から考察したものがある。長年の研究から「都市空間にこそ神々は宿る」「現代人の宗教は世俗的と見える都市をこそ地盤とするということを強く感じるようになっていた」三木らは、震災によって「都市の宗教は被災者・被災地域の復興に何ほどか役立ち得ているのではないか」という仮説のもと調査を行った。その結果、三木は民衆の中から生じるいわば「民俗宗教」の可能性を明らかにした。

目次を挙げておく。
第一章 被災地の教団
第二章 キリスト教のボランティア活動―救援と救済のジレンマをめぐって      
第三章 教団としての救援、復興
第四章 巡礼の創出、聖地の出現
第五章 災害時に現れた青少年の他界観に関する考察
第六章 被災地で宗教に望むこと―「復興と宗教」質問紙調査から

震災モニュメントに関する章は第四章であり、三木氏が担当している。三木はその章の冒頭で次のように述べる。
「二○○○年一月十七日午前五時四十六分、阪神・淡路大震災の被災地は聖地になった。」三木は「モニュメント交流ウォーク」と「巡礼・通過儀礼」との構造的な類似から、この結論を導き出す。まず、巡礼に関しては、星野英起の定義「巡礼とは、日常生活を一時離れ、聖地に向かい、そこで聖なるものに近接し、ふたたび日常生活に戻る行動である」という言葉を紹介し、有名な人類学者ファン・ジュネップの「通過儀礼」論との関係を読みとる。 「すなわち日常的世界からの脱却(分離)、聖地=非日常的世界への一時滞在(移行)、日常的世界への帰還(再統合)は、巡礼がファン・ジュネップのいう通過儀礼と同様の構造を持つことを示唆している」(p146)

たとえば、聖地への巡礼を終えてはじめて、一人前になるとする慣行がみられるように、通過儀礼によって若者は大人になるのである。しかし、通過儀礼と巡礼に違いはあって、通過儀礼は必ず受けなければないものであるが、「巡礼には義務的・強制的な側面が少ない」(p146 )。その意味で、巡礼に赴くか否かは個々人の選択にゆだねられている。また、祭りは一年のうちのある期間のみ俗なる時間から聖なる時間へ変換するのであるが、巡礼は日常的な俗的空間のなかで行われる。そのため「巡礼にあっては、祭りほどには聖と俗とのコントラストがはっきりしておらず、『お祭り騒ぎ』の場合には容認されるはずの世俗的規範の無効化が見られることはあまりない。」(p146 )とする。

とはいえ、巡礼は常に個人的に行われるのではなく、たとえば「講」のように集団的に行われることもある。また、巡礼は聖なる目的地との直線的な往復ではなく、「出発地と『最終』目的地、そして途中の霊地をつないでいった楕円を、巡礼者は辿る」(p147 )のである。なぜ人は巡礼に旅立つのか。人類学者ヴィクター・ターナーが言った「コムニタス」から、説明される。

「コムニタスとは、いわば非日常的な人間関係のあり方をいい、日常的・固定的な人間関係をあらわす『構造』とは対立するものである。我々は人生の大部分を構造のなかで過ごすが、そこでは我々は世俗的な身分・役割・職務で以って語られる一面的な存在に過ぎず、そこにとどまり続ける限り不安、攻撃性、妬み、恐れといった情緒的反応に取り囲まれて疲弊せざるをえない。我々はときに社会的地位や役割から自由な非日常、つまり構造とは対立するコムニタスの世界に身を投じて自己の再活性化を果たす必要があるのである。」(p149)

三木はさらに、コムニタスを「異質ではなく同質、不平等ではなく平等、自己本位ではなく非自己本位等々、日常世界で重視される諸価値とは対極のもの」であるため、「日常生活では見出しえないはずの聖なるものに、近接することができる」(p149 )と述べている。その意味で「巡礼者はまさに、日常的・構造的世界から一時離脱してコムニタスへと旅立つ者たちなのである。」(p149 ) 

そして巡礼の途上では、人は日常生活の諸価値をみなおすことになり、構造を欠くがゆえに非永続的なコムニタスを終え、ひとは日常生活の中でその反省を生かすことになる。

 以上の構造的な指摘にもとづいて、三木は2000 年4月15日の「震災モニュメント交流ウォーク」に参加し、巡礼との共通点を見いだす。まず、交流ウォークでは「限定的な時空間でのみ有効な規範」を指摘する。それは主催者側の指示に従い、設定されたコースに従うことになり、これは「交流ウォーク参加者すべてが共有していた特殊な規範」である。その点で、「交流ウォーク」は「参拝講」と共通の要素を持つものでもある(p155 )。
 
次に、この催し集まった理由として「慰霊」を挙げる。「捧花は通例、墓前あるいは生命の消えていった現場で行われるものであるはずである。大震災犠牲者の慰霊を目的としたショート・トリップが交流ウォークであったと結論づけても、あながち間違いではあるまい」(p155 )。

 さらに、参加者たちはこの日、日常生活の諸価値を反省的に見なしえたのかという点について、交流会での「前向きに」「明日のために」「これからも」という参加者の言葉から「参加者はこの催しを通じて再活性化させられた、と認識することはできる」と述べる。そして交流ウォークは「穏やかコムニタス」をつくりだし、「いまは亡き人々とのながりを感じることがあったのではないだろうか」と述べている。
 
 以上の考察を踏まえ、三木は「交流ウォークは巡礼である」と結論づける。主催者側は、日常世界にあっては時間の経過と主に震災経験や「思い」「こころ」が風化しつつあることを察知していた。また、参加者側は伝統的な宗教による慰霊の儀式に得心がいかなかった。このふたつの意識がであったところに「交流ウォークという名前の巡礼」が誕生したのだ。また、交流ウォークが地震という「非日常」をこころのなかで再現させることから、「交流ウォークは巡礼であるとともに祭りの側面を備えるものと捉えることもできそうである」(p158 )。
 
なぜなら、祭りは「社会集団のメンバーが周期的に集合し、聖なるシンボルをめぐる非日常的手続きに即して、日常生活で希薄になった共同性の感覚(『我々』が同じ仲間であるという実感)を(再)確認する社会―文化的な仕組み」(芦田徹郎の言葉)だからである。

そこで三木は提言をする。

「交流ウォークという巡礼がその力を十分に発揮するためには、祭りの指標の一つである周期性を付加する必要があるのではないか」「すなわち、現在では散発的に実施されている交流ウォークを、被災地の原点としての時間である毎年の一月十七日に行うのである」と。(p159 そして、交流ウォークには到達されるべき「中心」が必要だという。

「現時点で、交流ウォークという名の巡礼行動は散在する多数の『小』聖地をいくつか地域重点的に訪れる、というかたちを踏襲している。モニュメントの所在する被災地域間に聖性における格差などあろうはずもないが、中心と目される『大』聖地は二〇〇〇年初頭に設置されたと認識できそうである。それは東遊園地の『慰霊と復興のモニュメント』であり、そのすぐ側の『1・17希望の灯り』である。」

三木はこのモニュメントこそが「大」聖地=中心だと考える。そのため、大聖地にふさわしく、神戸市の犠牲者に限定せずに、阪神・淡路大震災の犠牲者すべてに思いを馳せるのがよいとする。

このようにみてくると、震災という危機的な状況の中でこそ「宗教」的、それも既成宗教ではなく「民俗宗教」が都市の中にあらわれたのである。
 
阪神・淡路大震災に関する研究は数多く存在するが、それは防災・家族・福祉などの立場からなされてきたのであり、震災そのものを社会科学の対象として研究したものは皆無に近い。本書は都市における「宗教」の可能性をみつめながら、震災そのものを社会科学の立場から調査研究した数少ない貴重な成果である。

今井信雄「死と近代と記念行為−阪神・淡路大震災の『モニュメント』にみるリアリティ−」(日本社会学会編『社会学評論』204号掲載、2001年)

阪神・淡路大震災(以下「震災」)以後、被災地には記念碑や慰霊碑など、震災の「モニュメント」が数多く建てられている。これら震災の「モニュメント」は、震災から5年が経過した2000年1月には、すでに100を越えていた。

もし、記念行為が「ひとつの世界」との結びつきを再確認したいという要求をあらわすものであるならば、震災のモニュメントも何らかの「ひとつの世界」を想定していると考えられるだろう。本稿は、数多く建てられている震災のモニュメントの分析を通じ、現代の人々がどのような「ひとつの世界」に生き、どのようなリアリティにもとづいてモニュメントをつくりあげていくのかを考察したものである。

まず、筆者は、震災以後、2000年1月の時点で明らかになっていた120の「震災モニュメント」のうち、一般的にモニュメントが記念建築物を意味しているという理由から、建築物以外を除外し、追跡調査をし、新たに116例を考察の対象とした。そして数の多い5つの設立主体(学校関係・地域組織・宗教組織・行政・奉仕団体)ごとに、誰に向けてモニュメントがつくられたのかを、設立主体、設立の過程、碑文の意味などから分類していった。そのためにまず、モニュメントが指向する対象について、「生者か死者か」「対面的か非対面的か」というふたつの軸を交差させることで4つの象限を設定し、次にそれぞれのモニュメントが「4つの象限のうち、どの象限を持っていてどの象限を持っていないのか」という点から分析していった。

分析を進めていくと、モニュメントの性格はその設立主体の影響を大きく受けていることがわかった。学校が生徒に向けて行うこと(〈対面関係の生〉に向けたものが多い)、行政がその区域の人々のために行うこと(〈非対面関係の生〉と〈非対面関係の死〉に向けたものが多い)、宗教がすべての死者と生者のために行うこと(〈非対面関係の死〉と〈非対面関係の生〉に向けたものが多い)、奉仕団体が社会全体に貢献しようとすること(〈非対面関係の生〉に向けたものが多い)、これらは設立主体の「職務」の範囲内に存在する。その点で地域組織(〈対面関係の死〉が多い)だけが「職務」ではないかたちでモニュメントをつくってきたことになる。震災のモニュメントが設立主体の影響を大きく受けているならば、それは社会的な分断を越えた次元での「ひとつの世界」(たとえば、B.アンダーソンの言う「想像の共同体」)を形成する価値や規範をあらわすものではないと考えられるだろう。

しかし、考察を進めていくうちに、社会的な分断を越えて、ふたつのモニュメントの型式が次第に明らかになってきた。それは、身近な人を亡くしたときに、その人たちを追悼するモニュメントの型式と、それ以外のモニュメントの型式である。

まず、身近な人の死を追悼するモニュメントの型式は、碑に刻まれる言葉が極めて少なく、多くの場合、故人の名が刻まれていた。これは、その人たちの死を死としてのみ受け取る心性のあらわれだと考えられる。つまり、これらのモニュメントは、対面的な死者への追憶によって、共同体の全体性を保持するような「ひとつの世界」のあらわれであり、荻野昌弘(関西学院大学・教授)の言う「追憶の秩序」としての役割を担っていると考えられるのだ。

また逆に、「身近な人の死に向けた側面を持たない」タイプのモニュメントでは、その碑文の中に「わたちたち」という言葉が特徴的に使われていた。「わたしたち」という言葉は、均質な空間を前提にしたリアリティ(ネーション)のあらわれとして考えられる。たとえば、有名な歴史学者B.アンダーソンの「想像の共同体」においても「わたしたち」という言葉が「ネーション」の感覚をあらわす言葉として指摘されており、さらに、アメリカの社会人類学者L.ウォーナーのメモリアル・デイ分析でも、死者に向けた言葉の中に繰り返し「わたしたち」が使われていた。つまり、「わたしたち」という言葉の存在が示すのは、ネーションのような非対面的なネットワークとして、「ひとつの世界」が感覚されていることなのである。

身近な人の死にたいする型式も、「わたしたち」という型式も、社会的な分断としての設立主体を越えて、モニュメントを特徴づける型式として存在していた。しかし、ふたつの型式が重なって同時にひとつのモニュメントとして存在する事例はみられなかった。

ここに、ふたつのリアリティはまったく異なる機制によって成り立っていることが明らかになった。震災の「モニュメント」は、もっぱら生のみを前提とした社会のなかで、一方ではより「純化した近代性」(東京大学名誉教授・真木悠介の言葉)を示しつつ、他方では死を死としてのみうけとる「追憶の秩序」(荻野昌弘)が保持されることで、いくつものリアリティを偏在させていたと言える。ここに、全体性をつくりあげる多様な「ひとつの世界」と、それにもとづくそれぞれのリアリティが明らかになったのである。

森栗茂一『しあわせの都市はありますか 震災神戸と都市民俗学』
(1・17市民通信ブックレットNO.2)鹿砦社1998年
(要約)


長田区西依通では、被災した地蔵が掘り起こされ、震災後も地蔵盆が行われている。

彼らの地蔵や地蔵盆に対する気持ちは例えば次の言葉に現されているだろう。多くの高齢者が公害の仮設住宅に移っていったあと、ある人はこうつぶやいた。
「前おった年寄りは帰ってこれんやろか。無理でも、時々は帰ってきてほしいなあ。戻ってきて、地蔵さん見たら、励みになるやろな。せめて年にいっぺんの地蔵盆にでも来て、みんなの顔を見たら元気になるやろうになア」(13頁)

都市計画の中で、地蔵や地蔵盆に対する思いや気力が徐々に失われていく。
年の地蔵盆は西代3丁目も4丁目も「ベニヤ板」でほこらを建て、さら地のあいだのガレキ道をゆかた姿の子供が集まったという。

けれども、その翌年には、西代4丁目は地像さんを須磨寺に預けた。土地区画整理事業に指定されたことで、話し合いがなかなかまとまらず、住民が帰ってくるめどが立たない。そのために、地蔵の祭祀ができないのだという。

また、3丁目は区画整理地区ではないが、2年目、3年目とお参りする人が少なくなっていった。新長田駅前の再開発地区に指定された大橋7丁目では、地蔵は須磨寺に納めることになってしまった。けれども納める当日「悲しぅて、地蔵さん、よう送っていかん」(16頁)という気持ちがわき出てきたという。

一方、都市計画事業を乗り越え、地蔵への思い、地蔵盆への気力を失わなかった場合もある。 JR新長田駅の日吉二丁目では、割れて焦げていた地蔵の破片を修復し旭若松公会堂に避難させていた。けれども、この地区も市街地再開発事業の指定地区となっていたが、自治会やまちづくり協議会は地蔵盆をする意志を失っていなかった。

日吉町五丁目の地蔵も旭若松公会堂に避難していた。一面焼け野原になったこの地域は、土地区画整理事業の話し合いをへて、「地蔵さんと住もう」「公園には地蔵さんをまつろう」(15頁)という思いによって公園には地蔵がおかれることとなった。

また、大橋二丁目の久二塚地区など再開発事業が早く進んでいる地区では、高層ビルの商業施設の中に、もとあった地蔵を戻して地蔵巡りができるショッピングゾーンが検討されているという。

「都市計画事業地区の中では、まちづくりの展望が見えたところでは、地蔵を町の核として位置づけることができる。これに対して、計画が遅れたり、展望が見えないまちでは、地蔵を祭る気力が失われてしまう」(17頁)のである。

そもそも、地蔵は「寺にまつられている仏像とは違って、村の辻や町の路地にまつられ、土地と暮らしに密着している。境神(さえのかみ)や地神の信仰との結び付きもあり、大衆のあらゆる願いを聞き入れてくれる菩薩(ぼさつ)」(17頁)であるという。

すると、人はなぜ被災直後のなかで地蔵にこだわるのだろうか。歴史的な経緯をみてみると、まず大正末期から昭和の初頭にかけて、長田周辺が都市化されていった。長屋が伸びていく横で、未舗装の路地に地蔵さんのほこらが置かれていった。早死にした子供の霊を弔ったり、子供を授けてもらう願いをかけたりして、「個人的な子供の問題を路地の近隣全体の幸不幸とする雰囲気が長屋にはあった」(23 頁)。

そして、路地ごとに地蔵がまつられるようになると、「七とこ参り」と称して、七カ所の地蔵を参ると元気なこどもになるといわれだした。 その後、高度経済成長の後、1970年代以降には郊外に移転する世帯が増え、地蔵はおばあさんたちがささえることとなった。

高度消費社会に入った80年代には、子供はおばあさんがくれるお菓子をもらいうけに地蔵盆に集まっていった。
「地蔵は、亡くなった人の苦しみをあの世で救済してくれる仏である」(24頁)という。そのため、慰霊のために地蔵盆を行いたいと思いがあった。自分の家もまだないのに、トタン板を工面してほこらをつくり、工業高校の生徒がほこらをつくった。被災したちょうちん屋さんがちょうちんを配り、陶器の地蔵を提供する住職が現れ、毎日「地蔵さんの復興」(25頁)が新聞に載っていった。

「地震によって家は壊れたが、まちにはさまざまな人々が住んでいることがわかった。地蔵に見守られて生活してきたこと、地蔵が人々のつながりの要になっていたことを、われわれは改めて発見したのかもしれない。」(25頁)

地蔵盆では犠牲者の鎮魂の祈りささげ、また、人々がともに暮らしていく場所を確認する。大衆都市の見えざる記憶である路地の地蔵は今後、どのようになるのか。まちの中の地蔵の姿をみていくことで、未来の都市の姿が見えてくるだろう。

鳥越皓之「花のあるけしき」
鳥越皓之(編)『講座人間と環境4 景観の構造 民俗学からのアプローチ』昭和堂、1999年
(要約)
「景観をつうじて人々の暮らしの深さ、また、たいへん広い意味での人々の暮らしの美しさを探求」(7頁)する立場に立って考えていくと、「景観」は、「景色」「風景」と比べて「対象とする眺め(view)にたいして、何ほどか『分析』とか『計画』を目的とした場合に使われる例が多い」(8〜9頁)。

言い換えれば、人間による何らかの意図や営みが自然と関わりつつ、「景色」がつくられていくのである。

人間と自然とが関わる接点を「景色」という言葉に見出すならば、「自然も文化である」という「命題」が成り立つ。そしてこの命題は「なぜ私たちは桜をえるのか」と「なぜ桜の木の下で宴会をするのか」という二つの問いのかたちをとって検討することができるだろう(11頁)。

里桜は桜の自生種のように鳥に運ばれて自然に山などに生えるのではなく、「意図的に人間によって植えられる」ものだ。柳田国男は「人間の魂魄もまた蒼空を通って、祭られに来るものと信じられていた痕跡」として桜を受けることがある」と言っている。

「阪神・淡路大震災で三十数人の死者を出した地くずれ箇所のうえに、偶然なのか、柳田国男の指摘が正しいのか、多数の枝垂れ桜の若木が植えられた」(9頁)

例えば、「土地空間」は「有主」(私的所有の土地)と「無主」(無所有の土地)とに分類することができるが、網野義彦は「無主」の場が「中世までは神の御はかりごと」、つまり自分たちの土地ではなく神の管轄下にあったことを指摘している。すると、まずはじめの「なぜ私たちは桜を植えるのか」という問いかけに応えることができるのではないか。

 「桜は今風に言えば、屋敷地などの故人の私的所有地に植えられる木ではなくて、神の支配下にある公共の場に植えられる木であったといえるかも知れない。その傾向は現在でもみられるのではないだろうか」(12頁)。

すると、「桜は神なり霊魂なりと関わりの深い木であることは、間違いなさそうである。そうだとすれば、桜の木の下で共同飲食をする風習については非常に興味深い歴史をもっていることになる」(14頁)。

そしてこれは、「なぜ桜の木の下で宴会をするのか」というふたつめの問かけについての応えともなろう。和歌森太郎によれば、「農事にせわしくなる直前」に「神ごと」として「酒を酌みかわす」ことがあったという。

「このような桜の例からも、私たちは景色を目に見えるとおりに見るのではなくて、景色を文化の目で見ている」という命題を明らかにすることができる(14〜16頁)。つまり、桜は日本人にとって自然と言うより、「世界観という文化」に高い比重がおかれていると言えるのだ(16頁)。

震災モニュメントに関する調査を始めた神戸大学、岩崎信道教授のコメントです。(毎日新聞1999年7月17日特集

阪神大震災特集 震災モニュメントが意味するもの 岩崎信彦・神戸大教授  

慰霊碑は、歴史的に見て、死者のためだけでなく、残された人たちが「悲しみ」「苦しみ」を乗り越えていくためにも必要とされてきた。

人間社会には、「悲しみ」「苦しみ」を「忘れたい」という気持ちと、「忘れてはならない」という思いとが相反しながら共存している。碑はそのバランスを取るための「装置」であるとも言える。碑には、死者の思い出の幾分かを「預かってくれる」働きもあるからだ。

遺族にとっても、生きていく上は、失った人のことを思い続ける状態から、いつか は抜け出さなければならないが、そのためには、まず十分に悲しむことができなけれ ばならない。パブリックな空間である碑の前では、何度も「あの日」に立ち戻り、み んなで祈ることによって、遺族だけでは抱えきれない悲しみを分かち合える。そして 、死者に「安らかに眠って下さい。私たちは懸命に生きています」と呼びかけること から、未来に向け立ち直る力は生まれるのではないか。

私は、阪神大震災は、「個人」が自らの豊かさばかりを追った大量消費社会の終わ りを告げる契機になったと考えている。被災地では今、「協力し、助け合う人間の心 のつながり」を基盤にした「新たな社会」を模索する動きが進んでいる。ボランティ アの活動や、地域社会の取り組みに、その萌芽(ほうが)が認められる。
今回の震災に関していえば、モニュメントが非常に多いのが特徴である。それは、 「心のつながり」を求める被災地の空気と無縁ではない、と思われる。一人一人の死 を、遺族の体験だけで終わらせず、共通体験としながら新しい時代をつくっていきた い。そんな無言の意思が広がっているのではないか。

モニュメントは、「個」と「個」が結び合う新しい社会の足場の一つとなるかもし れない。 (談)                                        ◇   ◇
岩崎信彦教授は、神戸大学の研究者有志による「震災研究会」の世話人。社会学の 立場から、学生とともに震災モニュメントの歴史的、社会文化的意味を探る調査研究 を進めている。

趣意書 1999年4月26日作成
いま、被災地に数多くの<震災のモニュメント>がつくられている。それは、関東大震災や空襲、原爆などの戦争被害のモニュメントと同じく、深い歴史的意味を持っているとともに、また、それらと比べて新しい特徴を示しているように思える。これら<震災のモニュメント>のもつ歴史的・社会文化的意味を探求していくことは非常に重要なことであろう。そこで、以下のような形で調査研究をすすめたいと思う。

[調査者]

神戸大学文学部 教授(社会学)    岩崎信彦
神戸大学大学院文化学研究科 大学院生 今井信雄
神戸大学文学部 学生 3回生     東 園子
神戸大学文学部 学生 3回生     松田鮎美
神戸大学文学部 学生 2回生      山本祥子

<1>調査・研究の目的

@震災モニュメントの第一義は震災で亡くなった方々を慰霊する、ということである。そしてまた、亡くなった方々のこころざしを生きるということでもある。それは言い換えれば、自分の生きる道を亡くなった方々とのかかわりのなかで考えていくことでもあろう。そのとき私たちは何を記憶し何を忘れてはならないのだろうか。

Aそして、慰霊碑のみならず、さまざまな活動や関わりのなかで、多様な震災モニュメントがつくられている。それらがどのような活動や意識に基づいてつくられたのか、そして、モニュメントをめぐってどのような意識が芽生え、新しい活動をうみだしているのか。

B以上のふたつの視点から考察するとき、未来への希求としてモニュメントが何を意味しているのか。阪神・淡路大震災をわれわれが受け止め、記憶し、語り、そしてモニュメントとして後世に残していくことは、未来にとってどのような意味をもたらすのであろうか。

<2>調査の方法

@モニュメントの形状、空間的配置、碑文内容、建立の経緯、担い手の活動と意識などを調べる。
Aモニュメントに関わるさまざまな活動やイベントに参加していく人々の意識を捉え、またその社会的影響を調べる。

<3>調査の進め方

@各モニュメントの設立者や関係者を訪ね、項目に沿いながらインタビューを行う。
Aさまざまな関係資料を収集する。

<4>調査のまとめ方
@第1次の調査報告として、1999年7月までに論文として刊行物への掲載をめざす(神戸大学<震災研究会>編『阪神大震災研究4 大震災5年の歳月(仮)』神戸新聞総合情報センター発行)。

A最終的には文部省科学研究[基盤研究(C)「阪神大震災の文明論的意義」(研究代表者 神戸大学文学部教授 岩崎信彦)]の研究報告書(平成13年)にまとめる。

[本調査に関する問い合わせ先]

神戸大学文学部 社会調査室
(住所)〒657ー8501 神戸市灘区六甲台町1の1
(電話・FAX) 078ー803ー5561
神戸大学文学部 岩崎信彦研究室
(電話)078ー803ー5513