加藤いつかさんのメッセージ
1995年1月17日、午前5時46分に阪神淡路大震災が私の街、神戸を襲いました。それから8年・・・・。
震災で大切な人を失った人達にとっては、長いような短いような月日・・・

震災当時、我が家は4人家族。私は15歳で、中学3年生。妹は11歳で小学6年生。両親と暮らしていました。
あの朝、私は2階で、妹は1階で寝ていました。妹だけが家具の下敷きになり亡くなりました。震災での妹の「死」により、私達家族の暮らしは大きく変わってしまいました。

母は、亡くなった妹を思い、毎日の様に泣き暮らし、父は対照的に、ただ無言で仕事に逃げているように見えました。
私は「自分がしっかりして、両親を守らなければ」と変な責任感に駆られて、両親の前では泣くこともできず、感情を押し殺していました。

しかし、時間の経過とともに、いつまでも泣いて私の方を全然見てくれない母親に対して「もっと生きている私の方を見て欲しい」という気持ちを持つようになりました。

先に死んでしまった妹に嫉妬さえ覚えました。

そんな気持ちになっていた私に少しづつ変化が出てきたのは、亡くなった妹「はるか」を通して出会った人達がいたからです。jきっかけは、一輪の「ひまわり」でした。

震災の年の夏、妹が亡くなった場所に一輪の大きな「ひまわり」が咲きました。それは、生前に妹が可愛がっていた隣の家のオウムの餌だった「ひまわり」の種から咲いた花でした。その後、、その場所にたくさんの「ひまわり」が咲きました。地域の人達は、その花の種を集め、それを「はるかのひまわり」と名付けて毎年、絶えることなく植え続けてくれています。

「はるかのひまわり」は、私にたくさんの出会いを作ってくれました。
同じ震災を経験した人達の中で、私は自然と肩の力が抜け、当たり前に泣くことができるようになりました。みんな、抱えきれないくらいの悲しみを抱えながら、少しでも明るく生きようとしている。自分ひとりだけが悲しくてつらいんじゃない。そう思えるようになりました。そう思えるようにありました。

今私は「1.17希望の灯り」というボランティアグループで、震災を通じて命の大切さを伝えていく活動をしています。
私は語り部として
「目に見える神戸の街は元気を取り戻したように見えるけど『まだまだ心に悲しみを抱えている人達がいる』ということを忘れないで」
と伝えています。

震災を語ることは私にとって、妹の死をしっかり受け止めて、私自身が前を向いて生きて行くために大切な事なのです。
失った人は戻ってこないけど
「ちゃんと一生懸命生きたよ」
そう伝える事ができるのは残された私たちしかできないのだから・・・

最後に、今日、成人式を迎えるはずだった妹「はるか」に「たくさんの出会いをありがとう」といいたいです。