貴方は知っていますか?世界のサッカー!


  サッカーの起源は勝利の雄叫び?
サッカーの起源はイングランドと言われています。8世紀頃のイングランドでは、 戦争で相手国の将軍の首を取ると、勝利の雄叫びと共に切り取った首を蹴って、 その勝利を称えたといいます。これが、次第にボールを蹴るゲームとなっていき、 1848年、ケンブリッジ大学でフットボールとして、競技のルールが制定されました。 これがサッカー(イングランドではフットボールと言いますが)の始まりといわれます。
しかし、イタリア人は8世紀以前にすでにボールを蹴るゲームがあったと反論しています。 これはカルチョ(イタリアではサッカーの事をよくカルチョと言います)といって、 宮廷の門前で数十人でボールを蹴り賞金を懸けてゲームを行っていたそうです。

まっ、イングランド説が現在では有力視されていますネ!



  SOCCERの語源は?
1863年、イングランド各地のクラブや学校の代表が集まり、俗に言うケンブリッジルールを基にした 統一ルールが決定されました。しかし、ボールを手で処理することや相手の臑を蹴ることを認めるルールを主張した 現ラグビー系の団体と喧嘩わかれをし、 現在のサッカーは、ASSOCIATION FOOTBOLL、 一方、ラグビーは、UNION FOOTBALLと呼ぶようになりました。

語源ですが、ASSOCIATIONの第1音節(ASSOC)が母音で始まりTIONで終了する場合、 まず母音を取り、第1音節の最終文字を二つ続け、その後にERを付加されてSOCCERとなったようです。

ASSOC IATION−−−−−>SOC IATION−−−−−>SOCCER

やがてラグビ−は上流階級、サッカーは労働者階級に受け入れられ国際的なスポーツとして発展していきました。



  第3回極東選手権大会
日本代表が、初めて国際試合に出場したのが、この「第3回極東選手権大会」といわれています。 参加国は、日本、中国、フィリピンの3ヶ国で、記念すべき緒戦は中国に0−5で負けました。 1917年5月9日、場所は東京・芝浦の競技場での出来事でした。
この時の代表は、日本選手権の優勝チームが出場していて、今のような選抜代表ではありませんでした。


  ワールドカップの起源
1904年に創設されたFIFA(国際サッカー連盟)は、設立当初から世界選手権の開催を検討して いました。そして1928年のFIFA総会において、フランスサッカー協会会長でもある、アンリ・ドロネー 事務総長の提案が発端になって具体的な実現への模索がはじまります。

「世界的スポーツであるサッカーは、オリンピックの舞台で世界NO1を決定する事は出来ない。 多くの国でプロ組織が確立され、アマチュアだけのオリンピックにはベストメンバーを派遣出来ない現実がある。 その国の組織に関係なく、真の世界チャンピオンを決定する大会を開く必要がある。」

この提案は多数のFIFA加盟国に歓迎され、25−5で可決されました。そして、1930年を第1回大会 とし4年に1度オリンピックの中間年にFIFAワールドカップを開催する事を決定します。
翌年のFIFA総会では第1回開催国決定会議となりました。ウルグアイ、イタリア、オランダ、スペイン 等が立候補しましたが、ウルグアイは
「独立100周年の記念行事に是非サッカー世界選手権を開催したい。参加チームの旅費.滞在費を負担する。」
と積極的に誘致活動を展開します。1924年パリ オリンピック、1928年アムステル ダムオリンピックを 連続制覇している事も誘致の多きな力となり、第1回開催国にはウルグアイが指名されました。



  ジュール・リメ・カップ(W杯優勝カップ)
第1回ワールドカップは1930年にウルグアイで開催されました。この時のFIFA会長はジュール・リメで 在任期間は1921〜51年までの30年間におよびます。ワールドカップの開催に尽力したジュール・リメは 開催にあたり、高さ30cm重さ4kgの黄金の女神像を優勝カップとして寄贈します。このカップはワールドカップ 優勝の象徴となっていきます。
そして、1970年第9回メキシコ大会で3回目の優勝をはたしたブラジルは、このカップの永久保持の権利を得ます。 ところが、1983年にこのカップは盗み出されてしまいます。そして、犯人逮捕時には、 栄光のジュール・リメ・カップは既に溶かされ金塊となっていました。

現在のFIFAワールドカップは、1974年の第10回西ドイツ大会から使用されている2代目のカップです。



  日本幻の初出場チャンス?
ウルグアイで開催された第1回ワールドカップは、出場国は13ヶ国で地区予選はありませんでした。ヨーロッパ諸国が 船旅で2週間以上かかるウルグアイへの遠征に消極的で、チームを派遣しなかった国が多数有ったのです。その為、 ウルグアイは外交努力を重ね、何とか出場国を増やそうとしました。当然、日本にも参加を要請してきたのです。
しかし、日本ではまだサッカーはマイナーな競技にすぎませんでした。地球のほぼ裏側まで遠征するのは南極に行くのと 同じくらい大変な事と受け止められました。日本サッカー協会はチームの派遣をしませんでした。 もし日本が出場の意志を表明していればウルグアイは喜んで出場国として受け入れたでしょう。

もしワールドカップ出場を強く推し進める人がいたら、日本は確実に第1回ワールドカップ出場国の名誉を得る事が でき、「本大会に出場経験の無い国」というレッテルを長い間貼られずに済んだのです。ワールドカップに対する選手の 意識や姿勢も変っていたかもしれませんネ!
初出場より68年も前に、幻のワールドカップ初出場のチャンスがあったというお話でした・・・・・



  ベルリンの奇跡!
徐々に力をつけ、極東選手権にも優勝するようになった日本は、1936年ベルリン五輪に参加します。 1回戦の相手は、優勝候補のスウェーデンで、誰もがスウェーデンの圧勝を予想していました。 前半を0−2で折り返した日本は、後半4分に1点さらに18分に1点返し、なんと2−2に追いついて しまいます。
慌てたスウェーデンは大反撃を開始しますが、日本は必死に守り、逆に終了間際に1点入れて、3−2で 世紀の大逆転勝利を挙げました。

この歴史的勝利は、世界中をかけめぐり「ベルリンの奇跡」として、語り継がれる事になりました。 当時のヨーロッパでは、極東から来た小国が強豪スウェーデンを破るなど、誰も予想しませんでした。

世界を驚かせたのは、アトランタ五輪の日本1−0ブラジルだけではないのです。

これ以外にも、世界を震撼させた日本の勝利が1つ有ります。東京五輪の時に、強豪アルゼンチンと対戦した 日本は、前半0−1で折り返し、後半に1点づつ入れて1−2となります。、そして後半36分に川淵 三郎 (現チェアマン)のダイビングヘッドで同点に追いつきます。そしてその直後、日本は追加点を奪い3−2で 勝ってしまうのです。通信メディア技術が向上した事もあり、海外では「ベルリンの奇跡再び」と 大きく取り上げられたのです。

この3つが、「日本奇跡の勝利ベスト3」といえるでしょう。



  オーバーヘッドキックの創案者
中山、城・・みんな大好きオーバーヘッドキック!!決まれば一躍大ヒローになれます。 ところでこのオーバーヘッドキックを考案したのは誰だか知っていますか?1938年 第3回フランス大会の得点王ブラジルのレオニダスです。彼の華麗なプレーは世界中のサッカーファン を魅了しました。

オーバヘッドキック以外では、「ディディフェイント」と「ババフェイント」と呼ばれたテクニックがあります。 1958年ブラジル代表のディディとババがよく使っていたのでこう呼んでいました。
ディディフェイントとは、ヒールリフト(ボールを踵に乗せて頭の上を通して後ろから前にもってくる技術)のことです。 現在では中学生ぐらいでもできますが、当時としては、誰もが目にしていなかった技でした。
ババフェイントとは、相手ディフェンダーの股間にボールを通し、自らは相手の横をすり抜ける技のことです。そう股抜き です。



  ワールドカップ予選で戦争勃発!!
世界中を熱狂の渦に巻き込むワールドカップサッカー。熱狂が時に狂気に変る事もあります。
1970年メキシコ大会は、開催国メキシコが自動的に出場権を得た為、北中米カリブ予選で 異変が発生します。
「常に地区予選を勝ち抜いたメキシコが地区予選に出ない。どこが変わりにその代表の椅子に座るか。」
熾烈を極める予選が続きます。1969年6月、2次予選に進出したホンジュラスとエルサルバドルは 互いにホームゲームに勝ち1勝1負。決戦をメキシコのアステカ競技場で行う事になりました。
ここで両国の感情が熱狂から狂気に変っていきます。この決戦を前にエルサルバドルがホンジュラスとの 外交関係を断絶。ホンジュラスに住むエルサルバドル人の虐殺の噂が広がり政治的な関係まで悪化 していったのです。厳重警備の中行われた決戦は3−2でエルサルバドルが勝ち、地区予選決勝でもハイチ に勝ち本大会出場を決めました。

ここでなんとホンジュラス側も国交断絶を宣言します。7月には、国境付近で空中線が始まり遂に戦争に突入 してしまいました。国連が解決に乗り出し両者の間で和解が成立しますが、サッカーはここまで国民を 熱狂させてしまうのです。



  名選手のニックネーム
過去に活躍した名選手の中には親しみを込めてニックネームを付けられている者が沢山います。 ここで代表的なニックネームを紹介しましょう。

  • 第1回大会のアルゼンチンの得点王スタービレ・・・・・侵入者
  • 第3回大会のブラジルの得点王レオニダス・・・・・・・黒いダイヤモンド
  • 第5回大会のハンガリーの得点王コチシュ・・・・・・・空中戦の王者
  • 第6〜7回大会のブラジルのザガロ・・・・・・・・・・オオカミ
  • 第8回大会のポルトガルの得点王エウゼビオ・・・・・・黒ヒョウ
  • 第8回大会のイングランドのB・チャールトン・・・・・ミスター・イングランド
  • 第9回大会の西ドイツの得点王ミュラー・・・・・・・・爆撃機
  • 第6回大会で衝撃のデビューペレ・・・・・・・・・・・サッカーの王様
  • 第10回大会西ドイツのベッケンバウアー・・・・・・・皇帝
  • 第10回大会オランダのクライフ・・・・・・・・・・・スーパースター
  • 第11回大会のアルゼンチン得点王ケンペス・・・・・・闘牛士/野生馬
  • 第11〜13回大会のフランスのプラティニ・・・・・・ナポレオン/将軍
  • 第12回大会イタリアの得点王ロッシ・・・・・・・・・黄金の坊や
  • 第13回大会アルゼンチンのマラドーナ・・・・・・・・小さなペレ(当初)



  ★伝説のフリーキック    ★ドーハの悲劇    ★ジョホールバルの歓喜
サッカーファンなら誰でも知っている日本ワールドカップ挑戦の名場面ですネ!

詳しくは、日本ワールドカップ挑戦史を見て下さい。



  加茂監督更迭
W杯フランス大会の予選を突破した日本ですが、決して楽な予選ではありませんでした。 そして皆さんの記憶に新しいのが対カザフスタン戦後の加茂監督の更迭でした。2次予選の 日本不振の全責任を取って身を引かせ、新たな体制で予選を戦い抜く事に決定したのです。 この決断をしたのは皮肉にも、W杯までの加茂続投を熱望した長沼サッカー協会会長でした。 2002年の開催国である日本ですが、過去にW杯を開催した国で予選突破の経験がないのは 日本だけだったのです。どうしてもフランスへ行く必要があったのです。

コーチから昇格した岡田監督の下初出場を勝ち取り、この交代劇は後に英断と言われました。 厳しいプロの世界ですが、今のプレーシングサッカーを築き上げた加茂前監督も、功労者の一人では ないでしょうか。



  FIFA世界ランキングで日本9位
W杯フランス大会を前に発表されたFIFAランキングでなんと日本が9位! このニュースはFIFA公表時に世界を駆け巡りました。岡田監督も困惑?

詳しくは、FIFA世界ランキングを見て下さい。



  ブランケンスタインって知ってるかい?
オランダ下位リーグのデン・ハーグ所属のビム・ブランケンスタインがついに引退を表明しました。 何と75歳での引退!10年程前に一度引退しかけたが、サッカーを愛するあまりに撤回。 「まだ体力的にはやれる。でもチームメイトにいいかげんにしてくれ!と言われ続けては仕方ない。」 と引退表明の挨拶でした。たぶん、彼の名は近くギネスボックにのるでしょう。お疲れ様!!!


  主審が自分にレッドカードで退場!
英国で珍事件が発生!!
アマチュアの試合で主審をしていたメルビン・シルベスター主審は、試合中に選手に背後から押された事に 腹を立て、押した選手を殴った後、自分自身にレッドカードを与えて退場してしまいました。この主審は 6ヶ月間の出場停止と20ポンド(約4500円)の罰金を受け、「懲罰委員会のメンバーは だれも現場を見ていなかった。彼らは間違っている。」とさらに怒っていたそうです。アマチュアの試合ですが ちょっと軽率だったのではないでしょうか。


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