親鸞聖人のみ教え
「鏡御影(かがみのごえい)」

親鸞聖人像

国宝:西本願寺蔵

親鸞聖人のお姿を鏡に映したように描かれているので、「鏡御影」と呼ばれています。

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法話

他力とはどういう意味ですか?
「他人まかせ」は誤用〜絶対的な救いのはたらき 本願寺新報2001年1月1日号(2001年3月)

他力本願は他人まかせのことでしょうか?
浄土真宗QアンドA 他力本願は他人まかせか(2001年3月)

お念仏のみ教えとは?
(2000年12月)

阿弥陀さまと、お釈迦さまと、親鸞聖人の関係は?
故山本仏骨先生編「あなたの問いに答える」39:弥陀 釈迦 親鸞(2001年2月)

友引、三りんぼう、お札、お守りなどに対して、どう考えるべきでしょうか?
故山本仏骨先生編「あなたの問いに答える」12:物忌みについて(2001年2月)

浄土真宗ではなぜ物忌みをしないのでしょうか?
浄土真宗QアンドA 門徒はなぜ「もの知らず」(2001年2月)

阿弥陀さまはどういう存在なのですか?
故足利浄円先生「疑いに囚はれたるともへ」『親鸞主義』より転載(2001年1月)

聖徳太子が制定した十七条憲法
(2001年1月)

用語説明

法話
お念仏のみ教え お念仏をとなえるということは、お念仏を聞かせていただくことです。お念仏を聞かせていただくというのは、実は「南無阿弥陀仏」と言うみ名にこめられている、如来さまの本願のみ教えによびさまされて、如来さまの智慧と慈悲こそ、私の人生のまことの依りどころであるということに、気づかせていただくことです。そしてそれを基として、本当の自分の姿を知らされ、正しい方向に導かれていくことが、「お念仏を申す生活」だといえましょう。

お念仏をとなえたら、願い事がかなったり、お金がもうかるというのではありません。自分本位にしか生きられない、罪深い私でありましたと慚愧しつつ、少しでも如来さまのみこころにそいたいとつとめる生活が、お念仏をとおして開かれるのです。

自分本位の心をもった愚かな私どもが、ともに手を取って、生きるにはどうしたらいいのか、お互いが心と心を通わせて生きるには、どういう心がけが必要であるかということも、教えを聞き、お念仏を申す中から、知らせていただくのです。

お念仏さえ称えておれば、どんな悪いことをしてもいいというような考え方を邪見といいます。私自身が、いかに罪深い人間であるかということを知らされることによって、さらに悪を犯さないように、できるかぎり身をつつしみ、互いにいたわりあいながら生きようと努めるようになります。それによって互いに、さらに充実した日々を送らせていただけるようになるのです。

願い事がかなったり、病気が治ったりすることを宣伝する宗教が多い中で、お念仏というまことの仏の道を、心豊かに生きぬかれた親鸞聖人のみ教えを、間違いなく聞かせていただき、私どもの人生の指針とさせていただかなければなりません。

足利浄円先生

「疑いに囚はれたるともへ」

『親鸞主義』より転載

仏と人とは真反対のものの存在である。光と暗は真反対のものである。この真反対の高い高い仏と底の底にいる人間とは智慧によりて分別の上に認めようとしたときに十万億土の隔たりがある。……然しその高い頂上の法と底の底にゐる人間との間に信の接触が保たれた時「阿弥陀仏此(ここ)を去ること遠からず」の接触がある。人間が仏に救はれるということは、高い仏と低い人間が一つ心となったことを言ったもので、これは、人間が一生懸命になるから一つになるのではなく、仏が一生懸命になって救はうとせられてゐる。その一心がどうしても受け容れない人間の心の上に通徹して下さって人間の心が仏心に向くようにせられた時、人間は初めて仏の大慈悲に目ざめそこに寸毫(すんごう=ほんのわずか)の疑う余地はないのである。疑ふてはならぬという規則や法律ではなく疑うに疑われぬ仏心を恵んでもらったものの謂(いい)である。
聖徳太子が制定した十七条憲法 聖徳太子は十七条憲法の中で儒教・仏教などの思想を述べて官僚の心得を説いた。この「憲法」という語は、現在用いられているような法制上の用語ではなく、聖徳太子の政治理念・政治哲学が表明されたものである。

十七条憲法

十にいはく、忿を絶ち瞋を棄てて、人の違ふを怒らざれ。人みな 心あり、心おのおの執ることあり。かれ是んずればすなはちわれは非んず、わ れ是みすればすなはちかれは非んず、われかならず聖なるにあらず、かれかな らず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫ならくのみ。是く非しきの理、たれ かよく定むべき。あひともに賢く愚かなること、鐶の端なきがごとし。ここ をもつてかれの人瞋るといへども、還りてわが失ちを恐れよ。われ独り得たり といへども、衆に従ひて同じく挙へ。

(超意訳)怒りの心を離れなさい。人の間違いを怒ることがないように。人はみなそれぞれ心があり、それぞれ執着をもっている。相手が正しいから即ち自分が間違っているのではない、自分が正しいから即ち相手が間違っているのではない、自分は必ずしも聖であるとは限らない、相手が必ずしも愚かであるとは限らない、ともに凡夫のみである。正しいとか間違っているとかの理は、だれが定めることができるのだろうか。どちらも賢く愚かであることは、腕輪の端がないのと同じである。このことをもって相手に怒りの心を持ったとしても、かえって自分の過ちを恐れなさい。自分一人が得たりと思っても、もろもろに従って同じく行いなさい。

故山本仏骨先生編

「あなたの問いに答える」

12:物忌みについて

Q:

友引、三りんぼう、お札、お守りなどに対して、真宗信者はどう考えるべきでしょうか。

A:

太陰暦の二月、及び八月の朔日(ついたち)を「友引」とし、順次に六曜を繰っていって、これらの日には他人の死を誘うとして、葬式を行わない習慣や、また正月は亥の日、二月は寅の日、三月は午の日、四月は亥、五月は寅というふうに、亥・寅・午の三種の日を、順次各月に配して、十二ヶ月の午に当たる日を「三りんぼう」といい、この日に家を造ると火災が起こるなどといいました。そこで「三りんぼう」の日には家作りを避け、ことに大工、屋根ふきなどの職人のあいだでは厳重に禁忌すべき日とするのです。この習慣は今なお根強くつづいています。常日頃はあまり気にかけないで暮らしている人でも、何かことが起こるとひどく気にするものです。みずから科学万能を叫んでいる知識人でも、あんがい動揺しやすいところを見ると、人の心の弱さが知られます。要するに真実の宗教を知らないものは、毎日の日暮に自信がないから、つい日のよし悪しや、悪霊と言うことに悩まされ、おそれを感じていくのでしょう。

お札やお守りということも、このような悪霊から、身を守っていこうとして、家の戸口にお札を張り付けておいたり、お守り袋を肌身はなさず持って歩くのでしょう。しかしこのような考え方は、結局人間の弱さをごまかしていく消極的な生き方に他なりません。これらに対して親鸞聖人は、「愚禿悲歎述懐」のなかに、

(一〇一)

 かなしきかなや道俗の

 良時・吉日えらばしめ

 天神・地祇をあがめつつ

 卜占祭祀(ぼくせんさいし)つとめとす

(一〇四)

 かなしきかなやこのごろの

 和国の道俗みなともに

 仏教の威儀をもととして

 天地の鬼神を尊敬す

といわれて、断固たる態度を示されています。これこそ人生に正しい自覚をもって、明るく強く生き抜く姿だといえましょう。そこに真実の信仰の力強さがあると言わねばなりません。すなわち真実の信仰とは、人生を強く明るく生き抜く力の根源です。

「歎異抄」の中に「念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなり」といわれているように、まことの信仰は仏の智慧をいただいて、一歩一歩さとりの道に導かれていく大菩提心です。このような真理の世界を生き抜くものには、日のよし悪しや、方角や悪霊などに恐れる必要はありません。常に仏と共に生きる道は、毎日毎日が充足感に支えられたよい日であるはずです。そこには何者にも恐れる必要がなく、しかも一切の悪が善に転ぜられる不思議なはたらきが与えられているのであります。

浄土真宗QアンドA

門徒はなぜ「もの知らず」

お葬式は友引、結婚式は仏滅を避けるというのが、世間一般の通念です。しかし浄土真宗では、いっさい日の吉凶(きっきょう)を言いません。友引、仏滅というものは、「六曜」という、中国の暦をもとにしているといわれます。しかし、この「六曜」が日本に広まったのは、幕末でした。それも、民間であいまいな形で広まりました。相打ちで勝負なしの友引が、葬儀で”友を引く”と、物滅が”仏滅”となったり、本来の暦を離れて変なふうにねじまげられたといいます。

こうした暦による「縁起かつぎ」や、身内に死者が出ると一定期間、喪に服するという「物忌み」や「厄払い」なども、浄土真宗ではいたしません。

今から約五百年前、北陸加賀の長享(ちょうきょう)の一揆で、浄土真宗の門徒軍が、主語の富樫政親(とがしまさちか)が立てこもる高尾城を攻める際、日の吉凶を選ぶべきだという国人武士たちの主張に対し、仏法には日の良し悪しなどはないと、退けたというエピソードが残っています。そして、門徒軍は高尾城を攻め落とし、以来百年間、加賀は「百姓の持ちたる国」となったのです。

浄土真宗の門徒は、昔から世間一般で常識になっている「縁起かつぎ」や「物忌み」をしませんでした。だから門徒は、世間を知らない集団であり、「門徒物忌みせず」「門徒物知らず」と言われるのでした。

しかしこの門徒をそしる言葉は、私たち門徒にとっては、ほめ言葉です。”世間の常識”とされる迷信や俗信にいっさいとらわれることなく、念仏の教えこそが真実であるという念仏者の、確かな生き方がそこに見られるからです。

「世間虚仮 唯仏是信(せけんこけ ゆいぶつぜしん)」−世の中はいつわりのものであり、ただ仏だけが真実である−という「天寿国しゅう帳(てんじゅこくしゅうちょう)」に記された聖徳太子のお言葉がしのばれます。

故山本仏骨先生編

「あなたの問いに答える」

39:弥陀 釈迦 親鸞

Q:

阿弥陀さまと、お釈迦さまと、親鸞聖人の関係は、どういうふうになっているのですか。

A:

私たちが眼にしうる現存のお経はお釈迦さまの御説法を、お弟子たちが文字にして書き残したものです。その意味では、仏教は全てお釈迦さまの説かれたものだといわねばなりません。だから仏教の開祖はお釈迦さまであって、よその宗旨でお釈迦さまをご本尊として拝んでいるのも、もっともなことでしょう。

しかし、仏教はお釈迦さまの作られたものではありません。それはお釈迦さまみずから、この法は私が作ったのでなく、私はただ法をさとっただけである、だから私が説いても、説かなくても、仏教は増えもせず、減りもしない、それには関係のない久遠の真理だといわれています。それはちょうどフランクリンが電気を発見して、みんなに電気を教えたけれども、電気はフランクリンの作ったものではなく、フランクリンが言っても、言わなくても、増えもしなければ、減りもしない永遠の真理であるのと同じことです。

その久遠の真実によって、全て生きとし生けるものを救うという誓願をたて、それを御成就なさって、今現にはたらいておられるのが阿弥陀仏です。親鸞聖人は「一念多念文意」の中に「この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。」といわれているように、阿弥陀仏は罪深く力なき私を救うために現れなさったのであります。

この阿弥陀仏の救いの法を、全て悩めるものにしらしめんがために多くの仏さまが教えをたれておられるのであって、お釈迦さまもその諸仏の一人であるわけです。しかしまた仏のさとりは融通しあうものであって、阿弥陀仏の救いを根拠とし、それを教えるために出現されたお釈迦さまは、阿弥陀仏が、人の世に、人の形に応じて現れた応身仏だとも言われるわけです。ゆえに親鸞聖人は、

(八八)

 久遠実成(くおんじつじょう)阿弥陀仏

 五濁の凡愚(ぼんぐ)をあはれみて

 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)としめしてぞ

 迦耶城(がやじょう)には応現する

といわれたのです。

ともかく、このようにして、釈迦は教えてであり、阿弥陀仏はそれによってあらわされた救いの仏だと言っていいのです。だから私たちは、釈迦の教えのご恩をもとより感謝しなければなりませんが、救いの親としてたのむべきは、阿弥陀仏だといわなければなりません。またそれが釈迦の本意にかなうとも言われるゆえんです。

このようにして釈迦の教えを、インド、中国、日本と、歴史の中に伝承されたのが、三国の七高僧ですが、その七高僧のみ教えを集成して、浄土真宗のご法義を具体的に組織し、お示し下さったのが親鸞聖人であって、私たちはその親鸞聖人を、浄土真宗の宗祖として仰ぐゆえんです。しかし親鸞聖人みずから「三国の祖師、おのおのこの一宗を興行す。このゆえに愚禿勧むるところさらに私なし」といわれているように、聖人みずから、お釈迦さまのみ教えを仰ぎ、阿弥陀仏のご本願に随順して、このみ法をひろめられたのであります。

浄土真宗QアンドA

他力本願は他人まかせか

Q:

他力本願は他人まかせのことでしょうか?

A:

仏教のさとりというものは、人間がもつ一切の煩悩(ぼんのう)を消し去ることで到達する、無我(むが)の境地です。俗に”百八の煩悩”といわれるように、私たちは人間として生まれてきた以上、貪(とん)(むさぼりの欲望)・瞋(じん)(怒りや腹立ち)・痴(ち)(無知から出る愚痴)に代表される、さまざまな煩悩をかかえて、日々の生活を送っています。仏教のさとりは、このような自分中心の考えから出てくる一切の煩悩を消去した世界です 。

親鸞聖人もお若い時代から二十年間、比叡山で厳しい学問・修行を積まれました。しかし、お釈迦さまのように、みずからの煩悩の火を消し去ることができずに、比叡山を降りられました。そして、煩悩をかかえたままでも、仏さまの清らかな国(お浄土)に生まれ、さとりを得ることができるという、お念仏のみ教えを、法然上人に聞きたずねられたのでした。

他力とは、煩悩をかかえながら悩み苦しみ、自分中心の生活を送ることしかできない人間(凡夫)をすくいとって下さる阿弥陀さまのお力のことです。そのため、「他力本願」は決して「他人まかせ」という安易な他人頼みの言葉ではありません。

作家の五木寛之氏に、『他力』という本があります。この本ではほとんど仏教の専門用語を使わず、浄土真宗の基本である他力の心が説かれています。 その中で、「世界中の民族や国籍を越えて<非常時>に生きる私たちを、強く揺さぶるエネルギーがそこにはある。そして、この他力の世界こそ、今私たちが無意識に求めている『何か』ではないか、と思うのです」「他力とは、目に見えない自分以外の何か大きな力が、自分の生き方を支えているという考え方です」と述べられています。

仏法やお念仏の教えを聞く(聞法)の中で、自分中心のありのままの姿に気づいて、お念仏に支えられた真実の人生を歩んでほしい−他力本願は、そのような仏さまの願いのこもった言葉でもあるのです。他人まかせの意味で用いるのは、大きな間違いです。

「他人まかせ」は誤用〜絶対的な救いのはたらき

本願寺新報 2001年1月1日号

Q:

他力とはどういう意味ですか?

A:

「他力といふは如来の本願力なり」(註釈版聖典190ページ) 親鸞聖人がこのように『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に示されるとおり、他力とは阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願力(ほんがんりき)のことです。

本願力とは、阿弥陀仏が私たちの迷いの衆生(しゅじょう)を、さとりの世界である浄土(じょうど)にすくい取るはたらきを言います。本願には、仏の救いを信じさせ、南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)を称えさせ、浄土に往生させることが誓われています。本願力とは、この本願の通り阿弥陀仏が、私たち衆生に南無阿弥陀仏の名号を与えて救われることをさします。

この他力のはたらきを聖人は「自然(じねん)」ともいいあらわされます。自然とは、人為的なものに対し、人為をかりることなくおのずからそうなっていることで、仏の本願力を信じ、おまかせするものは、何も思いはからう必要もなくおのずから浄土に往生させていただくことをあらわしています。

このことを「他力には義なきを義とす」ともいわれます。はじめの「義」は「はからい」のことで、私たち迷いの衆生のはからいがないこと、それが他力の法義であるといわれます。阿弥陀仏のお救いにあずかろうとするものには、「これだけよいことをした、たくさん念仏をとなえた、だから救われる」「悪業ばかりで何一つよい行いがないので救って下さらない」といった人間の思いはからい、すなわち自力のはからいが入らないことを示されるのです。

このように阿弥陀仏の一方的、絶対的なお救いのはたらきを「他力」というのです。 ですから、他力とは浄土真宗のみ教えの根幹を示す言葉であって、世間で「他力本願」を「他人まかせ」「無努力」「無責任」といった意味合いで使ったりするのは明らかな誤用であり、真宗門徒としてきわめて遺憾なことといえましょう。

用語説明〜わかりにくい言葉を説明していきます。
「仏教」とは 1.仏陀(釈尊)が説かれた教え。
2.仏について説かれた教え。
3.仏のさとりをひらく教え、仏になる教え。
「仏」とは 全ての衆生を真実に目覚めさせるべくはたらきつづけられると説かれます。
「阿弥陀」とは 「阿弥陀」という仏のお名前は、インドの言葉すなわち梵語ではアミターバ(無限の光明)と、アミターユス(無限の寿命)という、二通りがあるところから、阿弥陀仏のお徳を光明無量と寿命無量との両面からたたえられたお名前です。
「光明無量」とは 阿弥陀さまが光明無量の仏だというのは、世の中の全ての善も悪も、底の底まで見抜いていられる無限の智慧者だという意味です。
「寿命無量」とは 阿弥陀さまが寿命無量の仏だというのは、世の中のすべての者をいつくしみはぐくむ無限の慈悲者であるという意味です。
「阿弥陀仏」とは お名前の由来の通り、無限の智慧と無限の慈悲をもって一切衆生(生きとし生けるもの全て)を一人残らず平等に救って下さる仏さまです。
「信心を得る」とは 信心を得るということは、阿弥陀さまがお誓いになられた第十八願のお心を聞き受けさせていただくこと以外にありません。その第十八願のお心は、南無阿弥陀仏という六字のみ名の上に表されています。
「南無」とは 「南無」とは、帰命と翻訳されているように、如来さまの勅命(仰せ)に帰順する(したがう)ということで、仰せにしたがい、お任せするという信心を表しています。このように、仰せにしたがい、まかせることを、「たのむ」ともいいますから、南無とは、阿弥陀さまをたのむことでもあります。
「南無阿弥陀仏」とは 阿弥陀さまによりかかり、たのみ、まかせるものを、この世においては護り続け、いのちが終われば、必ずお浄土へ救いとって下さるという「摂取不捨」のことわりをあらわしています。
「たのむ」とは けっして阿弥陀さまに向かって、「お願いする」「請い求める」という祈願請求の意味ではありません。阿弥陀さまの本願力を「たのみにする」という依憑(えひょう)(よりたのむ)の意味で、信順・帰命の和訓であり、本願の信楽にあたります。
「本願力」とは 本願が成就し、その願いのとおり衆生に届いているはたらき。
「本願」とは 阿弥陀仏が仏となる前、法蔵菩薩であった時に発した四十八願中の第十八願を本願と称する。衆生救済のためのまさしく根本となる願い。
「第十八願」とは たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

(意訳)わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、私の国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、私は決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

「摂取不捨」とは 阿弥陀如来が十方の世界に遍く放つ光明につつまれてある、まもられてあること。摂取不捨であるが故に、命尽きたとき必ずお浄土に生まれる身に定まる。正定聚不退転の位に定まるともいう。

仏説観無量寿経

光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨

(意訳)光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。

御文章 弥生中半章

たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かたじけなくも如来は八万四千の光明を放ちて、その身を摂取したまふなり。これを弥陀如来の念仏の行者を摂取したまふといへるはこのことなり。摂取不捨といふは、をさめとりてすてたまはずといふこころなり。このこころを信心をえたる人とは申すなり。

「十万億土」とは 阿弥陀経にある十万億仏土の略。この娑婆世界と極楽浄土との間にある無数の仏土
「仏国土」とは 仏土ともいう。仏の世界。菩薩の誓願と修行によってたてられた国。大乗の菩薩たちはいずれも、すべてのものが救われる世界として仏国土の建設を願い、あらゆる努力を傾けるという。
「凡夫」とは 一念多念文意

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

真実の道理を見ることができずに、そして常に身を煩わせ、心を悩ませて生きている私。

煩悩には大きく分けて、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の3つがあります。貪欲とは貪る心であり、よろこびを失い、いくら得ても満足できずに不足だけで生きていることです。瞋恚とは怒りの心であり、燃えさかる炎の中で身を焦がして生きていることです。愚痴とはおろかさです。まわりの人のことも忘れ、明日も考えず、今日を寝そべって過ごしていることです。

煩悩は、私のこの身と共にあり、臨終の一念、命が尽きるまでなるなることはないという自分自身の事実を凡夫と言う言葉で表しています。

久遠実成 実成とは事実に願行成就して衆生を救済したもう仏さまを意味しています。

始まりもなく終わりもない宇宙全体の真理、真如から現れたことを意味しています。

五濁 阿弥陀経に説かれている、この世の中の濁り。

劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁

凡愚 ≒凡夫
衆生 生きとし生けるものすべて。旧訳では、衆生。新訳では、有情。

仏教の漢訳には、旧訳と新訳があります。仏典が漢訳された時代によって変わります。

   
   
   
   
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