光円寺の歴史 | |
1.実相寺の成立 | 光円寺の原名を実相寺という。頼賢という僧侶が相模小田原に実相院を開いて第一祖となった。実相院の建立年は不明であるが、寛喜3年(1231)に寺院設立の証を与えられているのはわかっているから、そのときから頼賢の入寂の文永10年(1273)12月までであると思える。今から約750年前であるしかし、その後約300年続いた実相院も1500年代には廃寺となった。 |
2.廃寺の理由 | 廃寺の理由はその年代から考えられるのには、小田原北条氏の浄土真宗迫害にあった。二代氏綱(1487−1541)は永正4−5年に領内の一向宗(浄土真宗のこと)を禁止した。領内の真宗寺院は国外に移る寺も多かった。三代氏康(1515−1571)の文禄3年に60年ぶりに禁圧を解いた。しかし9年後に本願寺と親密な関係にあった武田信玄と敵対するに当たり、氏康は再び領内の一向宗に迫害を加えた。信玄の正室三条夫人の妹は、当時の11代門主顕如上人のお裏方(門主の妻のこと)であった。そのために氏康は一向宗を迫害した。氏康が卒すると4代氏政は一向宗迫害の挙にはでなかった。その間に武田勝頼は自刃して武田氏は滅亡して安心したものの、次には大敵豊臣秀吉の来攻を迎えなくてはならなかった。一向宗は秀吉からは保護されていたので、一向宗の宗徒は秀吉と通じているのではないかとの疑惑から再び、一向宗に迫害を加えるに至った。このように北条氏滅亡に至る5代約100年間は小田原を中心として、相模武蔵に至る北条領内の真宗寺院は全て圧迫に圧迫を加えられ、国外に逃避した寺も多く、廃寺も多かった。以上の理由で、実相寺も1500年代に廃寺となり、その名前も消えた。現在でも小田原市内での真宗寺院は5ヶ寺しかない。(本願寺派(お西)は光円寺のみ) |
3.光円寺の成立(原名:実相寺) | 寛永9年に春日局の長男(稲葉丹後守正勝)が小田原城主となった。徳川家康公も念仏者であったので、小田原の地に是非とも真宗寺院を建立したいと発願した。春日局は小田原城主より821坪を賜った。そして元の実相寺の跡地に寺を建立した。元の敷地が狭かったため、本多正信の後室寿林尼と、春日局の力によって徳川家光を説得して、新地を増やしたとのことである。その時は実相寺と言った。 |
4.覚円と春日姓について | 覚円については、本願寺所蔵の慶長日記の中で慶長19甲寅12月2日准如上人の次男の葬儀の記録に覚円が僧侶として読経に参加したと記録にある。准如上人の時代に本山に仕えた堂衆でありかなり地位も高い人と思われる。本山准如上人の命を受けて、築地に別院を建立するために、東国へつかわされたことが記録に残っている。春日の局によって建立された実相寺(今の光円寺)の第一代住職である覚円は、春日の局より春日姓を名乗ることと、家紋(五七の桐)を許されて、代々春日姓となっている。覚円は当時の本山でも高い地位にいた人であり、門主の信も厚かったと思われる。東国へおもむく折りには当時の豪商であった大阪屋、近江屋、美濃屋、椀屋の4軒の家が寺付き門徒となり、今も美濃屋(河鍋家)、椀屋(喜多家)の2軒は繁栄して続いている。 |
5.光円寺と改名したいきさつ | 覚円は慶安5年10月15日に没した。70歳くらいと推定される。覚円没して3年目、明暦元年4月23日本願寺第13代門主良如上人が江戸御参向の途中、当時のお立ち寄りご宿泊の折り、ここは箱根を控えて要害の地をもって御坊(別院)にお取り立てのこととなり「小田原御坊」と称し、上人の諱光円をそのまま寺号におつけいただき以後小田原の実相寺は光円寺と称したのである。 |
6.光円寺の役割 | 江戸期における小田原は城下町としてより宿場町として発達していった。光円寺は御城下内の西端東海道に沿って上方口に(板橋口)見付番所の前に位置し歴代の各宗主の江戸御参向の折り、行きと帰り両方に、御休泊所として適当な位置にあった。当時の御門主の御参向の行列は大名たちと同等で、そのお供の数は200人から300人を数えた。准如宗主から広如宗主に至るまで、各宗主の御参向は25回を数えるので、往復で50回は宗主ご一行をお泊めしたことになる。このため光円寺は本陣の役目を果たすために庫裡も相当広かったと伝えられる。宗主のみならず各大名の参勤交代の時は、お供の武士を臨時に泊めたことがある。当寺には、宗主御休泊の依頼状が17代法如上人のものと、20代広如上人のと2通が現存している。 |
戻る | 以上 14代光円寺住職 春日俊雄 |