はじめに
宮崎弁は、私にとってなくてはならない文化のひとつです。
宮崎弁がとび交う中で、生まれ、育ち、18年間の日々を過ごしてきました。
宮崎弁が使われる環境の中にいる自分は、そこに宮崎弁という一種の文化が存在することに気づくことがほとんどありませんでした。しかしそれを知り、身をもって感じるのは東京に出てきてからのことです。

人間には、まわりの環境に適応する能力が生まれつき備わっているといいます。それは、言語という、場所によって異なる文明にも適用されます。長くアメリカに住めば、英語を話せるようになり、また外国から日本にやってきた人も、まわりの人との交流を通じて、次第に日本語を話すことができるようになってくるのです。

宮崎で生まれ育った私にとって、東京の言葉、東京弁=標準語は、未知の言語でした。コトバが違えば、アクセントも違う。すべてがはじめて耳にする、あたらしいものでした。はじめはコトバを選びながら、アクセントを考えてしゃべっていた標準語・東京弁も、今では人並みにしゃべることができるようになりました。生まれて初めて、自分がまわりの環境に適応することを、身をもって感じた瞬間です。

そんな私が時々宮崎弁をしゃべると、まわりの人々が興味をもって聞いてきます。どうやら、コトバには人を惹きつける力があるようです。
言語は、現象、状況、そして自分の感情を伝え、人とコミュニケーションをするための大切な道具であると同時に、人を楽しませ、考えさせ、豊かにさせ、ある種の人間の知能を育てる”おもちゃ”に似ている気がします。

宮崎弁は、それを知らない人にとっては未知の世界であり、とても不思議なおもちゃに見えるはずです。しかし私にとっては、自分が宮崎に生まれ育ったことを証明し、宮崎を思い出し、故郷を大切に思うための、かけがえのない存在なのです。
そんな宮崎弁の中でも、私が成長するための道具として使ってきた若者のコトバを、いくつか紹介したいと思います。今や標準語と宮崎弁のバイリンガルになってしまいましたが、宮崎弁が記憶の片隅に追いやられてしまうことは、決してないと、そう思います。

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