戻る時計窓

それは、道行く人が目をとめ、眺めるなぞということはほとんど期待していない素振りで置いてある。いや、窓に立てかけてある。その正面を窓の内側とは反対側(外側のことだ)を向けているから、その家の住人のためのものではない。
道行く人のためと考えるのが妥当だが、幅2メートルにも満たないこの道路、というよりは小経は、駅への近道であるがゆえに、結構人通りがあり(そうだ。ひょっとしたら表通りよりも多い)、道行く人の無遠慮な視線を避けるため生垣が植えられているため、冬枯れの今でも見えにくい。
さらに言えば、他人の家の軒先同然のところを通るとき人は自然とうつむく。目に入るはずがないではないか。小窓から鳥が出てきてさえずったり、はたまた、音楽隊がひとしきり樂を奏でるとでもいうならわからぬでもないが・・・。

うつむくことを忘れ無遠慮に観察すると、文字盤には”Nikka Wisky”などと書いてある。「ブラックニッカをお買い上げの方に毎週抽選で素敵な景品があたります。応募の方法は・・・、」なんて文句は聞いたことがあるかしら。スーパープレミアムかな、酒屋のお歳暮かもしれない。いや、・・・。妄想は果てるとも尽きない。

そうこうするうち、「次の停車駅はは仙台です。」止めにするか。


99.3.12


戻る白鳥の夜間飛行(1)

昔、白鳥の飛来地といえば瓢湖であった。新潟県北蒲原郡水原町。伊豆沼が有名になったのは昭和40年代になってからと記憶している。当時の国鉄に入ったTと物見遊山気分で出かけたのは、正月恒例の同窓会の翌日であったと思うから、間違いない。伊豆沼ばかりではない、酒田の最上川河口だってそうだ。20数年前鶴岡にいたころは、白鳥のえさとしてお茶の殻を集めているなんて話がたまに報道されていたが、多数飛来しているとはどうしても思えないテレビの画面であった。
いずれ、鶴女房の民話があったり、仙台の雑煮に付き物のハゼは白鳥の代用品であるなんて説もあったりするくらいだから、古くからの付き合いであったことは容易に想像できる。しかし、これほど多くなってきたのはロシアの経済危機と関係があるのかしらん、などと考えていたが・・・。それはともかく、白石川にも白鳥はやって来ている。これも最近のことかもしれない。いつ頃からか、調べた結果は後日報告する。

前置きが大分長くなってしまいまったが、本日の主題は「白鳥は夜間飛行ができるか」という問題だ。
これも電車の中で書いているのだが、向かいに座った酔っ払いが、東白石駅で停車したとき、「このあたりに白鳥がいる。暗くて見えないが。」などなどの話をしていたのがきっかけ。既に白鳥は北帰行しており明るくても見えないのだが、果たして白鳥は夜どうしているのだろうか。これは素直な次の連想による。
鳥→鳥目→見えない→飛べない→動けもしない→ただ波間にプカプカor草叢(コリャ危険だね。一晩ならともかく連日連夜ではねえ)
実は数年前の冬の夜、鳥の鳴く声を聞いた経験がある。寝つけない布団の中で、起き出す元気もなく聞いていたもので、白鳥なのか、白鳥どころか鳥でもない何物なのか、・・・

こういった調べものににインターネットは果たして力を発揮するであろうか。

PHSのモバイルで調べていくのはお金がかかってしようがないし、第一電車の中では不安定。こりゃあ図書館へ行くしかないなあ。白石の図書館は確か情報センタの隣りとか。情報センタと違って夜も開いているのだろうな。・・・いずれ電車の中ではどうしようもありません。通勤路を離れて次回は図書館で

99.3.29


戻る白鳥の夜間飛行(2)

図書館へ行く前に解答が見つかりました。やはり使うべきはホームページであります。
解答をそのまま転載します。

カラスがよく夜鳴いていますが、鳥目ではないのですか?
Q2
鳥目のことを雀盲ともいい、夜盲症のことです。スズメは夕方にはねぐらに入って、夜には飛びませんね。鳥(雀)は夜に眼が見えなくなると昔の人は思ったのかも知れません。カラスに限らず、鳥はヒトより目は発達しており、夜視力が落ちることもなく鳥目ではありません。渡りをする小鳥達は、ワシ・タカ類の攻撃をさけて、夜間渡りをすることがわかっています。鳥目ではとても夜の渡りはできませんね。ちなみに、夜間は星座を見たり、地磁気を感じたりして方向を知るそうですよ。すごいですね。
NTT研究開発推進部 三田 長久
(日本野鳥の会 埼玉県支部幹事)

Q2
ニワトリは「鳥目」ですが「鳥目の鳥」よりも「鳥目じゃない鳥」の方がたくさんいます。カラスは、人間と同じように夜の方が見にくいけれど、見えないわけではありません。カラスはとっても早起きで、まだ暗いうちから鳴いたり動いたりしていますが、夜はふつうおおぜいで集まってねます。でも時々ねむれないのか、寝ぞうの悪いカラスがぶつかってめがさめちゃったのか、夜中でも鳴いているカラスがいます。(人間にもいますよね、こういう人って)
藤田 薫(横浜自然観察の森レンジャー)


★むずかしい漢字は辞書で調べるか、まわりの人に聞いて読んでね。

そう、鳥目の鳥のほうが少ないんですって。納得ですね。

この情報が掲載されていたホームページは・・・
身近な自然質問箱 (http://wnnserv.wnn.or.jp/wnn-n/shitsumon/q_tori.html)。NTTが主宰しているWNN−Nature内の1コーナーでした。

検索は例によってgooです。
「鳥目 (スペース)白鳥」で検索しました。

図書館の楽しみはまた格別ですが、ホームページをあらためて見直した次第。

99.4.1


戻る 城の会

白石市は片倉氏の城下町である。城は明治維新時に取り壊されていたが平成7年に天守閣が復元された。「城の会」はこれを記念して・・・というのは誤りで、こうした復元事業とは全く別に行われてきたらしい。天守閣ほかの復元・整備などハードの充実と一対を成すソフト面での活動である。会はことしで21回目だそうだが、「第1回」と銘打たれている。このように称した意義はいろいろあるのだろうが、私のとっちゃあどうでもいいや。純粋に催しを楽しむ。

開催されたのは平成11年5月22日土曜日。白石城内本丸跡に作られた能舞台上では、詩吟、地唄舞、歌謡舞、琴、謡曲、日舞、などなど芸能の数々が披露。同時に場内、いや違った、城内では抹茶と煎茶の野点が行われ大勢の市民が初夏の1日を楽しんだ。
舞台上では始めに神事が執り行われ、黄昏せまるころ、城内の神明社で古式に則り採火された火によりかがり火が燃やされ、華やかななかにも厳粛な雰囲気を漂わせた。また、当日は市が募集した「白石子守唄」の作曲の発表会の日であり、大賞に輝いた作曲者西村直人さんと本人による曲の披露も飛び入りで行われた。素朴な情感を湛えた歌で、広く親しまれ唄われることを予感させたが、来年3月、佐藤しのぶさんがオーケストラの伴奏で歌うのは、私の感覚とは違うなと生意気なことを考えていた。いずれこの件はまたの機会に。

本題から外れた。仙台の自宅の近所に白石出身の人が住んでいる。私の娘と同い歳の娘さんがいるが、日舞も習っているという話しを聞いた。ピアノ、バレーといった女の子の定番も勿論習っているのだろうが、日舞とはなんとなくピンとこない感じがしていたが、今回「城の会」を見て疑問が氷解した。習い事として日舞をやると言うのは白石の女の子にとっては、ごく普通のことなのではないかと。二百数十年の藩政時代の伝統。武家の娘の習い事から町人に。力を蓄えた町屋に次第に広まり確固たる伝統になり、維新以降もそれは連綿と・・・。そうだ、他の城下町でも同じことが言えるのかもしれないなあ。「会津の三泣き」なんてことはよく聴いたが、「白石の三泣き」を唱える人も身近におられる。私自身は日も浅く、そんな感覚を持つまでに至っていないが・・・。

来年の第二回「城の会」の公演が楽しみである。

99.5.27


戻る甲冑堂

白石市の南、斎川に甲冑堂という小さなお堂がある。ここには鎧を着けた2体の女性が祭られており、「佐藤継信、忠信兄弟の妻」という。由来を東西遊記から書き写す。

其昔、義経、鎌倉殿の義兵あげ給うを聞き、秀衡にいとま乞いして鎌倉へ赴き給う時、佐藤庄司、我子の次信(継信)、忠信を御供に出だせり。其後、義経京都へ攻登り、平家を追落とし、一の谷、八島などにてさばかりの大功をたて給いて、再度奥州へ来たり給いし時、はじめつき従いて出でたりし亀井、片岡など皆無事に帰国せしに、次信は八島にて能登殿の矢先にかかり、忠信は京都にて義の為に命をおとし、兄弟二人とも他国の土となりて、形見のみかえりしを、母なる人かなしみ嘆きて、無事に帰り来る人を見るにつけて、せめては一人なりとも此人々のごとく帰りなばなど泣沈みぬるを、兄弟の妻女其心根を推量し、我が夫の甲冑を着し、長刀を脇ばさみ、いさましげに出立ち、只今兄弟凱陣せしと、其俤を学び、老母に見せ、其心をなぐさめしとぞ。其頃の人も、二人の婦人の孝心あわれに思いしにや、其姿を木像に刻みて残し置きしと也。

「東西遊記」の著者橘南谿が日本国内を巡歴したのは天明2年(1782年)から8年までといわれ、白石は天明6年に通過している。天明3、4年の大飢饉の直後であり、この甲冑堂も荒れるにまかせていたらしい。こう記されている。

(前略)かくばかり人の鑑ともなるべき孝婦の像の、かくあれはてたる小堂の雨風をだに防ぎかねて、彩色も落失せ、僧だに守られで、香花を供する人も無く、年月に荒れ行き、ついには跡かたもなくなりはて、是等の事をも語り伝うる人もなくならんを、誰ありとあわれといいて、一銭の参物をだに供する人も無きは、世には忠孝に感ずるひとのすくなきにや。あまりにあわれに覚えしかば、委数書付け帰れり。

南谿の努力が実を結んだわけでもないだろうが、現在の甲冑堂は美しい八角形の姿を見せてくれている。(法隆寺の夢殿に似せたと郷土史の本には書いてある)
また、中に納められている像はお隣の柴田町出身の彫刻家小室 達作のものだそうだ。

さて、佐藤庄司は私の友人である。中学3年から6年間も同じクラスで過ごした稀有な間柄である。奥の細道。飯塚で佐藤庄司が旧跡を尋ね、二人の嫁がしるしに思いを馳せ、袂をぬらす場面がある。そこに差し掛かったとき、古文の授業にしては教室が珍しく沸いた。
私は酒呑みだが彼は大酒呑みである。酒に限らず逸話は多い。
久しぶりに一緒に飲みたいものだ。


東西遊記は平凡社の東洋文庫に拠りました。

99.6.25