僕らの聖地、堺スケートボードパーク

 なんてことを言うと、チーム・ツネをはじめとするオールドスケーターの人たちにおこられるかもしれないが、このパークに通い始めた頃は夕方仕事が終わってから家に帰り、道具一式を持って車で集まっては終了の午後10時までよく遊んだものだった。この堺スケートボードパークは、大阪・堺市内を走る泉北1号線とときはま線の交差点の少し西側にあった「チェリー」という喫茶店の屋上にあるためにあまり目立たず、道路からは写真上部の看板部分だけが見えるだけだった。また、パークの横にはオーナーの家があり、その庭にはクジャクが飼われていた。

 この頃は、パークといえばほかに滋賀県の瀬田か京都市の八瀬遊園(スポーツバレー京都)のランページしかなく、大阪南港にアスコットボードパークができるまでは地理的に便利なこのパークがホームグラウンドというスケーターも多かったようだ。


ランページの迫力に感動

 堺のパークはコンクリートのバンクの対向面に鉄板のクォーターパイプという組み合わせで、それぞれのRも違ったために連続したターンには不向きだった。しかし、86年に武庫川ファミリーパークで初めてみた本格的(当時)ランページはとてもショッキングだった。豊田貢をはじめとする全国のトップスケーターが繰り広げる技のオンパレードに、大きな感動と強い刺激を受けた。いつかは自分もランページで宙を飛んでみたいと思った。(結局実現しなかったが)


スケボ−ブ−ムの予感

 それまでのスケートボードコンテストといえば、人里離れたへんぴな場所で関係者だけが集まってシコシコやってる暗いイメージがあったが、87年の初夏に湘南・江ノ島海岸で行われた「ポカリスエット杯」は画期的なイベントだった。梅雨入り前の快晴の中で行われたこの催しは「湘南100年フェスティバル」の一環で、大平洋を背景に巨大ランページが組まれ、客席となった階段型堤防には一千人ちかいギャラリーでにぎわった。このときの感動は、ムーヴィンオンの石原繁氏がサーフィンライフ誌にも書いていたが、その後訪れるスケートボードブームを予感させるイベントだった。


以下次号


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